同じ地獄で待つ3/五夏「怪死事件?」
五条の発情期が明けて、最初に部下から聞いた報告はそれだった。本宅にある広い部屋に集まって、直属の部下達からこの数日の間に起きた出来事について確認するのが発情期明けの恒例行事だ。五条は、別にもう発情期のだるさも抜けただろうに、寝間着にするような淡い青の浴衣を着て、夏油に撓垂れ掛かるように横に座っていた。その姿はまるで夏油の情婦だとでも言わんばかりだ。しかし、これもいつものことなので、いちいち気にするような連中はいない。
「はい、既に麻薬絡みだと警察も動いているようで……」
そうして見せられたのは、数枚の写真だった。どれも薄暗い路地裏で、それぞれ若い男女の死体である。一部アップにされた手足の皮膚の写真は、どれも異様なほどに血管状に内出血が広がっていて、とても自然死には見えなかった。
「このところ、シマで売人もよく見かけるらしいんです。出所を洗ってるところなんですが、相手も上手く逃げまして……」
「それはよくないね。ウチのシマで好き勝手やられちゃたまったものじゃないよ」
そんな会話をする間も、五条は特にその話題に興味さえなさそうにずっと夏油の手を弄んでいる。これもいつものことだ。
なにせ五条は、夏油以外の何にも興味というものがない。夏油に言われたから、自分が食っていくための投資や株だけはどうにか続けているが、その売り上げにも大した興味はなく、日頃からやっていることはそれくらいだった。
「すこし詳しく調べてくれるかい。私の方でも動くけれど、報告は適宜上げるように」
「はい」
ヤクザのシノギと言えば、わかりやすいところでいえば、キャバクラやホストクラブなどのケツ持ちや、シマに居を構えるスカウトグループからの集金などがある。夏油は纏まった金も手にしていたので、闇金の金主もしていた。
一般の組員はそういったシノギをひとつひとつ上げて組に上納金というものを納めるが、若頭補佐である夏油にそういうノルマのようなものはない。そういう些事には関わらず、主に組の揉め事を解決するのが夏油の仕事である。組の中からは烈士会と呼ばれており、そういう用途の部下も数人つけていた。
実は、五条もそのうちのひとりであった。
情報収集をさせればネットの裏側なんかからいろいろと器用に面白い話を拾い上げてくるし、喧嘩をさせればもちろん腕っ節も立つ。まわりから夏油の情婦だと思われているのが馬鹿らしくなるくらい、烈士会の中でも一番に腕が立つのが五条だった。まぁ、それは夏油だけが知っていればいいことなので、わざわざ言って回るつもりはないが。
「悟も調べてくれる?」
「もちろん。どこの馬鹿だろうね」
部下達が揃って部屋を退出したのを確認してから、五条にそう声をかける。
今となっては横行する麻薬の売買に目を瞑っている組もあるが、うちでは昔から麻薬は御法度だ。些細な取引であっても見逃すつもりはない。麻薬は時に莫大な益を生むが、それ以上に人を限界以上に苛んでしまう。任侠の道を行く者として、それを見逃すことは出来なかった。それを言うならギャンブルや風俗狂いだって身を崩すことに変わりはないと言われるかもしれないが、それとこれとは話が別だと割り切っている。
「少し出てくるよ。悟も行く?」
「傑が行くなら付き合う」
五条もそう言うので、離れで簡単に衣類を整えて、ふたりで問題の市街地まで出向くことにした。
報告を受けたのは夕方だったので、時間もちょうど夜に近いし、何か新しい情報が得られるかもしれない。そんな期待もあった。情報収集の意図も大きかったので、ふたりともいつものようなスーツは着込んでいない。あくまでラフな普段着だが、五条は何せ顔が顔なので、一般人ではないオーラを滲ませてしまっていた。五条に言わせれば夏油だって一般人に偽装するなんて無駄だと言うのだろうが、五条はさすがに何もかもレベルが違う。
送迎の車から降りて、適当にシマをぶらつく。さすがに一見に売りつけてくるような馬鹿はいないか、と長く外には留まらず、馴染みの店ではなく、あまり知らないクラブに入った。掲げられた看板に見覚えがないので、ケツ持ちはたぶんうちの組ではない。どうやらまだ新しい店のようだった。こう話すと驚かれるかもしれないが、夏油は自身の組がケツ持ちしている店を、殆ど記憶している。余計な手間を増やさないためだ。
「ジントニックとガス水」
クラブに入り、スムーズに提供される飲料をカウンターで傾けながら、店の様子を見る。見る限り、まぁどこにでもある普通のクラブという感じだった。一階が大きめのホールになっていて、円の中心では陽気な客が騒いでおり、たぶん二階は専用のVIP席なのだと思われる。黒服に連れられて、上がっていく客を数人見かけた。その多くは女性客で、上の個室でたぶんパーティーでもしているのだろう。
「なんかつまんなぁい」
わざとだろう、まわりに聞こえるように、五条が呟く。ガス水を傾けながら、夏油にしどけなく撓垂れ掛かってくる始末だ。
「もっと面白いとこ行きたいな」
「こら、悪戯するんじゃないよ」
すり、と手の甲を弄んでくる五条から手を取り返して、ジントニックを飲み干す。そうしてまわりを見渡すと、五条にあからさまな好奇の視線が向けられているのに気が付いた。
五条は、今日は大きく襟の開いた服を着ている。うなじの噛み跡までばっちり見えるスタイルだ。いくら夜の店とはいえ、ここまでオメガであることをオープンにしている人間もいない。周囲の注目は集まるばかりで、ひそひそと噂話をする声さえ聞こえてきた。
「面白いとこ、行く?」
そんな時、そう五条に声をかけてきたのは、階段の上に立った男だった。暗い店内だというのにサングラスをかけていて、怪しいといったらこの上ない。男は夏油には興味がないようで、五条の方にすり寄るように近付いてきた。
「面白いとこ?」
「そ、パーティーやってんの。アンタなら歓迎するよ」
「ふぅん」
そう言われた五条は、夏油に目配せすることすらしない。いいね、と言って、すぐに男について行ってしまった。対して、一人になった夏油には女がこぞって群がってくる。夏油に撓垂れ掛かり、頬を寄せてくる女すらいた。
フラれちゃったの、かなしいね。
そんなことを言って寄り添ってくる女達から、角が立たない程度に適当に話を聞く。群がってきた女達は皆、ここの常連のようで、それでいて上のパーティーには呼ばれないレベルの女だ。上の階にいる女達への競争心は凄まじい。何かあれば追い落としてやろうという執念が滲み出ている。
「上では何してるの?」
「あー、なんかVIPの部屋でいつもやってるんだけど」
「なんかー、ヤバいらしいって噂」
気怠げに話す女達の機嫌をとって、話を続けさせる。聞けば、非合法すれすれの薬品や高い酒なんかも振る舞われているらしい。それは興味があるな、と笑えば、こっちの方が楽しいよぉ、とまたひとりの女が抱き付いてくる。
「そうだね」
そうなると、上に行った五条の状況が気になる。まぁ、余計な気は回さなくても、五条のことだから、トラブルは解決出来るだろうし、何か実のある情報も手に入れてくることだろう。五条がそういうところで失敗するとはすこしも思っていない。五条が上がっていってもう随分経つが、夏油は特に不安も感じていなかった。
あとはどうやってスムーズにここから引き上げるかだが、と考えていると、不意に店の端の方で騒ぎが起きる。甲高い女の悲鳴が聞こえて、どうやら男に絡まれているようだとわかった。
「ほら、あんまりお酒が過ぎるといけないよ」
つい夏油はいつもの癖で騒動の中心に向かい、女の手を掴んで引っ張ろうとする男を遮って、そう言う。さりげなく絡まれた女を背中に庇うと、女は怯えたように背中にぴったりとくっついてきた。
「なんだテメェ! 邪魔すんな!」
「邪魔がどっちかは見ればわかるだろ」
掴みかかってくるのを無造作にひょい、と避けて、転ばせる。そのまま容赦なく、ガン、と音を立てて手を踏めば、男の悲鳴が上がった。
「ほら、あんまり騒ぐと迷惑になっちゃうからね?」
思いきり踏みつけたから、骨に罅くらいは入っただろう。その手をさらに力を込めて踏みつけて、夏油はにこやかに笑う。今ならまだ容赦してやるぞ、と言っているのだ。しかし、それに気付かない男はまだ暴れようと藻掻いている。組がケツ持ちをしている店ならこのまま締め上げてしまうところだが、今は五条が上にいる。あまり派手に目立つわけにもいかない。どうしたものか、と考えていると、騒ぎに気付いた周囲の連中が黒服を数人連れてきた。有り難く黒服たちに暴れる男の対応を任せて、怯えた様子の女を宥める。わりと下にいる中では綺麗な部類の女で、上に呼ばれていないのが不思議なくらいだった。
「大丈夫? もう平気だよ」
「あ、ありがとうございます……」
へたり込んでしまった女を立ち上がらせてやって、転んでしまわないよう、テーブルにつかせる。慰めてやるように話を聞けば、さっきの男がしつこくホテルに誘ってきて、困っていたのだと言う。
「それに、なんか変なものを売りつけてこようとして……」
「変なもの?」
これです、と女は問題のパッケージを見せてくれた。どうやら商品を回収し損ねたようだ。随分と詰めの甘い男である。
それは、見た目は市販の煙草のようだったが、パッケージは既に切られている。了承を取ってボックスケースの蓋を開けてみると、中身は一見普通の煙草ではあるようだが、どうやらひとつひとつ手巻きしているようで、どうにも束が揃っていないように見えた。その上、箱の中にはほんの二、三本しか入っていない。
「……これ、貰っていいかい?」
「いいです。なんか、持ってるのも怖いし」
もう家に帰るという女を駅まで送ってやって、クラブに戻る。ざっとまわりを見渡してみたが、五条はまだ階下に戻っていないようだ。いくらなんでも黙って置いて帰るわけにもいかないので、カウンターで追加で酒を飲んでいるとさっきの騒動を見ていたのだろう、すぐに何人かまわりに集まってきた。
「すごいじゃん、あんた」
「大したことはしていないよ」
夏油が何者かも知らない連中が大仰に褒めてくるのを話半分に聞きながら、さりげなく相手の自慢話を引き出してやる。へぇ、すごいね。そんなの聞いたことない。尊敬しちゃうなぁ。どれも心のこもっていない言葉だが、相手にはそう聞こえていない。夏油はそういう術には長けていて、今まで困ったことはなかった。天性の人誑しと言っていい。
「そういや知ってる? 最近流行ってるクスリのこと」
「へぇ? どんなの? 気になるな」
向こうからそう言い出したのを聞いて、さらに話したくなるように続けて話を聞き出す。
「めちゃくちゃハイになれんだよ。ただ、すごく手に入りにくくてさ」
クスリの話を話題に出した男は、どうやら噂話としては知っているようだが、その流通ルートまで知らないようだった。これでは、これといって役に立ちそうにない。
「それは興味があるな」
しかし、そう夏油が呟くように言っただけで、まわりの連中が我先にと情報を持ってくる。それをひとりひとりどんな情報であっても角が立たないよう、丁寧に話を聞いてやって、夏油は薄く微笑んだ。
どうやらその麻薬は、このクラブの中でも売り買いされているらしい。さすがにこの中に売人はいないようだったが、他のグループを探せば中にはいるのかもしれない。このあたりで松木組がケツ持ちについてないクラブはそう多くはなくて、たぶんその中のいくつかが流通ルートになっているのではないかと思われた。もしかしたら、さっきの女から譲り受けたこれはその関係かもしれない。麻薬をそれとわからないよう煙草に見せかけて偽装するのは昔からよくある手だ。
さすがに、そうしてひとりで時間を潰すのも難しくなってきた頃だった。ようやく上の階から五条が降りてくるのが見える。部屋を出た五条は、階下に夏油の姿を認めると、嬉しそうに笑って戻ってきた。犬ならぶんぶんと尻尾を振っているだろう。
「帰ろ」
「いいのかい?」
「もういいよ。欲しいものは貰った」
最初に五条を誘った男が名残惜しそうに上から五条を見つめているのに気づきながら、夏油は五条の腰に手を回す。そのまま寄り添って店を出ると、店を出た途端、五条は吹き出すように笑った。
「見た? あの顔」
「なかなか面白かったね。でも笑っちゃいけないよ」
その後は、徒歩で馴染みの店に向かう。奥の方に専用の個室があって、よく世話になっている中華屋だ。料理も美味くて、この街に来た時はいつもここで食事を摂って帰っている。店主の中国人は一見怪しげだが、その腕と口の固さは確かである。店主に今日もいつものメニューと言って、チャーハンと餃子、スープを出して貰った。
「あー、やっぱ染みるわ」
「ほんと親父さんの料理は美味いよ」
ふたりでパラパラの黒豚チャーハンに舌鼓を打ちながら、お互いに把握した情報を確認する。五条の方は本当にただの騒がしいパーティーだったようで、噂話程度には見聞きしたが、現場で麻薬の類は出てこなかったということだった。なんと夏油の方が当たりだったということだ。女から貰った煙草を見せると、ふぅん、と五条は呟いた。
「一本貰っていい? 調べるわ」
「ツテがあるのかい?」
「硝子に頼めばいいじゃん。検査会社ともツテあるでしょ」
家入は、大学の同期である。一般教養の時しかキャンパスか被らなかったが、女性らしからぬほどさっぱりした性格をしているのもあって、大学時代からよく一緒に連んでいた。卒業後は医者になり、実家の医院を継いでいて、夏油もたまに世話になることがある。抗争で負った怪我などはまともな病院にはかかれないので、口の堅い馴染みの病院があるというのは有り難いものだ。
「でも、大丈夫かなぁ。こんなものの分析頼んで……」
「別にヤバかったら通報してもらってもいいし。これ一本じゃ警察だってどうしようもないでしょ」
そうは言っても、どんなものであれ家入なら上手くやるだろう、という思いはある。たぶん頼んでもそれほど面倒なことにはならないだろう。そう思い、五条の方で話を進めておいて貰うことにした。
「まぁ、ウチのシマで下手なこと出来ると思って貰っちゃ困るよね」
「悟は怖いなぁ」
「ふふ、傑の方がずっと怖いの知ってるけど」
そんな五条の呟きに、夏油は返事はせず、薄い笑みだけで答える。何せこの肩書きだ。人に言えないことだってたくさんしてきた。だが、今更それを恥じるつもりはない。後を継ぐと決めたのは自分なのだから、今はそれに向かって邁進するしかないと思っている。とはいえ、今ではほんとうに夏油があの組を継ぐことになるのかはわからない、と正直なところでは思っている。
というのも、夏油には弟がいるからだ。つまり、正妻の息子である。
彼らはアルファ同士の夫婦ということもあり、長年子どもには恵まれなかったが、夏油が十六の時にふたりの間に子どもが出来たのだ。弟は未熟児で生まれたため生育が悪く、しばらくは病院の保育器の中で過ごした赤子だったが、今はもう元気に十二歳にまで成長していた。
その弟はまだ小学生なので第二性の診断前ではあるが、その成長ぶりを見て、組の中には正妻の子を跡継ぎにと望む派閥もあるのは知っていた。夏油も、父がそう望むのなら別にそれでいいと思っている。ただ、件の父は今は服役中なので、その真意のほどはわからない。まぁ急ぐ話ではないし、父の刑期もあと数年で明けるはずだから、その時に確認すればいいと思っていた。
夏油は五条と一緒にいられるなら、それだけでいいのだ。
それ以上のことは、何も望まない。もうずっと、そう思ってきた。だからそれが任侠の世界であれ、別の世界であれ、どこであっても夏油は構わない。もし、五条がこの世界を嫌がるのなら、別の道を探すことだって考えなくはないが、五条は殊の外、あの閉鎖的な離れを気に入っているようなので、あえて別の道を探そうと思ったことはなかった。それに、今の仕事は五条のヒートの時、すぐに五条の傍にいてやることも出来るし、まぁ、現実問題、夏油の性には合っている。なにせ揉め事の芽を見つけるのも早いし、解決にさほど手間取ったこともない。もちろんそれは五条の助力もあってのことなのだが、周囲の評価は十分に得ていた。