ヒゲを剃る話「ねえジャン、男の人はどうして髭を伸ばしたがるの?」
ミカサにそう聞かれたのは、ある休日の朝だった。その声は、いつもより若干低い。
鏡の前で髭を整えて、なかなか良い感じじゃねえか? などと思っていた時のこと。以前なら自分の顔を見てにやけているところなんて絶対に見られたくなかったが、一緒に暮らしているうちに大分慣れてきた。これが良いことなのか悪いことなのかは、よく分からねえ。まあ、悪いってことはないか。
ミカサは起きたばかりらしく、鏡に映った顔があくびをかみ殺している。日中は真っ直ぐな黒髪も、ダイナミックに跳ねていた。声が低いのは起き抜けだからだろう。
「おう、おはよう」
俺はとりあえず質問を無視して、ミカサの頬を撫でた。
「おはよう」
ミカサが応じて、同じように俺の顎に触れる。指先でツツっと輪郭をなぞった。
「髭、ちくちくする」
そう言って、苦笑いのような笑みをこぼす。
今日はどうしても髭が気になるらしい。
「別に、男がみんな髭伸ばすわけじゃねえだろ。アルミンたちを見てみろよ」
何だって今日に限ってと思いつつ、俺は最初の問いかけに応じた。
「でも、エレンも伸ばしていた時期がある。それに、お父さんもイェーガー先生も」
言葉とともにじーっと視線を注がれると、少し居心地が悪い。
そういや、口髭を生やすようになったのはつい最近のことだ。ミカサはそれが気になっているのかもしれない。見慣れないもんは気になるからな、誰だって。
「似合わねえか?」
顎に手を添えてかっこつけて見せると、「別に」と目を逸らされる。逸らした視線の先にあるのは髭剃りだ。
まるで、剃れと言われているかのよう。
……いや。いやいやいや。
不評なのか?
ミカサの言葉は分かりにくい。真意をくみ取ろうと表情を伺っても、ただ眠そうなばかり。寝起きでテンションが低いだけなのか――普段からテンションは低い方だが――、俺の髭が気に食わないのか。
どっちだ?
悶々としている間に、ミカサは手早く身支度を済ませて洗面所を出る。
一人、取り残される俺。
「いや、いやいやいや」
心の中で呟いたのと同じ声を発して、グッと鏡を睨みつけた。
イケてないか、このスタイル。
歴史上の偉人たちだって立派な髭を生やしているじゃねえか。その方が貫禄があるように見えると思うんだが。
それに、かっこいいだろ? 大人の魅力ってやつだよ。
確かに同期の中じゃ髭を生やしてるのは少数派だが、あいつらは特殊だからな。
あのピクシス指令には立派な口髭があったし、憲兵団のナイル・ドーク師団長だって良い髭だった。小洒落た男が髭を生やすのは、何も変なことじゃない……はずだ。
だが自分が顎髭を生やし始めた頃のことを思い出してみると、コニーやサシャから随分からかわれたような気がする。
アイツらの感覚がズレてるだけだと思っていたが、もしかして?
いやだが、大事なのはミカサだ。
肝心のミカサがどんな反応を見せていたかと言えば、「無反応だった」が正解だ。そもそも俺の変化に気付いていたのかどうかすら怪しい。いやむろん、気づいてはいただろう。流石にそこまで興味を持たれていなかったとは思いたくない。つーか、ミカサだってそんなに鈍くはねえ。ただ、何も言われなかったことは確かだった。
「……顎鬚だけならセーフってことか?」
手のひらで、口髭を隠したり見せたりしてみる。口髭が無い顔と、ある顔。
見比べてみても、ある方が凛々しく見える。少なくとも、俺の目には。
そもそも、綺麗な口髭を作るのは結構大変なのだ。下手すると、真ん中で二つに分かれてしまう。それを何とか整えて誤魔化して良い感じに見せるには、相当の苦労を要した。
苦労して作り上げたこの髭が不評だなんて、そんなこと……
「だが、しかし」
俺は考えた。
現状把握能力をフル活用して頭を回す。
今までに周囲の人間から言われてきた言葉を思い返し――そういえば、コニーたちだけでなく母ちゃんからもやつれて見えるだのと酷いことを言われたような気がする――、鏡に映った自分の顔を客観的に観察し、先ほどのミカサの態度を反芻する。
この間、わずか五秒。
髭剃りを手に取ったのが、敗北の印だった。
*
リビングに足を踏みいれると、朝食をとっていたミカサが顔を上げた。俺の顔を見て、目を見開く。
「あっ」
「なんだよ」
俺は、ぶっきらぼうに答えて正面に座る。
「髭、剃ったんだ。顎鬚まで」
「おう」
「なんだか、物足りない感じがする」
ミカサが、首を傾げた。
なんだと?
あまり満足している様子ではない。むしろ、少しばかり残念そうだ。
「待て待てミカサ、それはどういう意味だ」
俺は身を乗り出して、ミカサの顔を見る。
「どういう意味も何もないけれど。見慣れないだけ」
ミカサが淡々と答えた。こちらが悲しくなってくるほどに淡々と。
思い切って、続けざまに尋ねる。
「……参考までに教えてくれ。どっちの顔の方が好きだ?」
我ながら恥ずかしい質問。だが、聞かずにはいられない。
「どっちの顔って」
案の定、ミカサは笑いを堪えるような顔になって言った。
「別に、どちらでも構わない。ジャンはジャン」
なんっだよそれ……。
思わず、机に突っ伏す。
髭が不評だってのは、俺の早合点か。クソ、乙女心ってやつが全く分からねえ。いいやこの場合は、乙女心とも違うのか。なんなんだ、ちくしょう。
深々と溜息を吐く俺を見て、ミカサがあっと声を上げた。
「もしかして、私が髭の話をしたから剃ったの?」
ようやく気が付いたようだ。
もしかしても何も、明らかにそうだろうが。
だが、ここで認めるとますます格好がつかない。
俺は顔を上げて、鼻を鳴らした。
「別に、お前に言われたからじゃねえよ。気分転換だ」
ミカサが眉を下げて応じる。
「そう。なら、良かったけど。何も剃れと言ったつもりは無かった」
そうなんだろうな。
読みを誤ったのは俺だ、悔しいことに。
だが髭はまた生える。大丈夫だ。何の問題もない。そうだ。問題ないよな。たかが髭だし。もちろん。もちろん……
「はあ……んったく」
視線を落とすと、ミカサの右手首が目に入った。カーディガンの袖がめくれて、包帯がちらりと覗いている。
話題を変えたくて、俺は口を開いた。
「やっぱりそれ、そうそう人に見せるもんじゃないんだな」
包帯に隠された家紋を思い出して言う。今や家紋を隠す意味はほとんどないものの、長年の習慣は変わらないらしい。解いて見せてくれることもあるんで、そのせいで距離を感じるってわけじゃ無いんだが。
「ええ」
ミカサが頷いて、袖を元に戻した。
しばらくしてから、怪訝そうに問う。
「それは、普段から包帯を外していてほしいって意味?」
ミカサがこういう気の遣い方――行間を読むような真似をしてくるのは珍しい。きっと、髭をめぐるやりとりが念頭にあったからだろう。応用が早い。
「そんなわけねえだろ」
俺は目を逸らして、大きなあくびをした。話題の変え方がヘタクソだったかもななんてことを思いながら。
別にいいんだ、今のままで。俺は俺、お前はお前。
このままで、十分さ。
だがまあ、少しだけ。髪の毛一本分くらいだけ、口惜しいかもな。
髭を剃った剥き出しの顔に朝の空気が触れて、いつもより涼しい気がした。
了