ハッピーエンドのないシナリオ 1
好きとか、そういうことはひとつも言わなかった。
同郷のよしみで、のノリで切り出して、「同じ隊のほうが時間も合わせやすいでしょう?」なんて都合の良さを下心に被せた。冗談に混じって本気を覗かせ、でも決して本心は晒さないように慎重に包んだ。
セフレのお誘いは、そうやってぺらっぺらの紙みたいな軽薄さでおれの口から吐き出されたのだ。
水上先輩はぱちくりと驚きの表情を見せたあと、「はぁ」とか「でもなぁ」とか言いながら渋っていたけれど、おれが一番心配していた嫌悪感は見えなかった。
「興味があればでいいんで」
と引く素振りを見せたら、
「まぁ、一回試してみるか」
と乗ってきた。
一回が二回になって、二回が三回に。十を超える頃にようやく、数えるのをやめた。ネットで買った二十個入りの徳用のコンドームも半分くらいに減っていて、これを見るたびに(アホやなぁ)と思う。ちなみに最初のはコンビニで買ったやつやから、この箱は二代目だ。
ほんまにアホや。
このまま絆されてくれればいいけど、先輩は女の子が好きってことも、おれとは利害が一致しているだけってこともわかっている。高望みはつらくなるだけだと、一瞬くらんだ欲に言い聞かせては飲み込む。
なにも望まない。望まないから。
先輩の今も未来も欲しいなんて欲張りなことは言わないから。
せめて少しでも長くあのひとの近くにおらしてほしい。
隣に立つ資格なんてはなからないってことくらい、ちゃんとわかっているから。
「あ、もうゴムないですね。そろそろ次の買うときます?」
ピロートークと呼ぶには品のない話題だ。
すっかり恒例になった先輩との週一のセックスを終えて、先輩は飲み物を取りにキッチンに、おれは喉の渇きを覚えながらも気怠い身体を動かすのが億劫でベッドに残っていた。ちょうど、枕元に使ってそのままになったコンドームの箱が置きっぱなしになっていたから、それを手にしたのだ。片付けようと思って。
夏休みのあいだは比較的時間に余裕があったから、今までより少し頻度が高かった。おかげで、コンドームは思ったよりも減りが早い。このペースならそろそろ買っておいた方がいいだろうとお伺いを立てた。買うのはおれだけど、先輩は律儀に半額をおれに渡してくれるから。
箱を片付けながら口にしたから、おれは水上先輩の表情を見ていなかった。
「あー、それな。ええわ、とりあえず」
「は?」
「新しいの、買わんで」
それでようやく先輩を見た。なにを考えてるのかわからない、いつも通りの顔をしている。パンツ一枚。それ以外に、さっきまでの情事を思わせるものはない。
察しはいい方だ。
困ることもあるが、便利な方が多い。起こる問題に対して先回りして回避出来るし、わかっていたら敢えてわからない振りも出来る。
「あー、そう、……そうですか。わかりました」
けれど、こんなときばかりはいっそ、海のような無邪気さがあればよかった。反射のように頷いてしまって、そう思う。
こうなっては、もう取れる態度の選択肢はない。都合がいいからヤッてただけの建前に、「なんで?」なんて言葉ははなから存在しないから。
聞き分けのいい振りをしろ。
笑え、
なんでもないって顔をしろ。
からからの喉を、唾液を飲み込んで無理やり潤す。声が震えてしまわないように唇に力を入れた。
「じゃあ、 別のひと探しますわ」
「……おん、」
先輩の眉が少しだけ動いた。さして興味もなさそうな相槌。わかっていたはずなのに、自分で振っておきながら先輩の態度にひどく傷付く。
「今までお世話になりました」
目頭がつんと熱くなるのを誤魔化すように、わざとらしく頭を下げた。ぎゅっときつく目を閉じて、一度、小さく深呼吸をする。
「隊があるやろ」
「はは、ですね」
先輩は少し困ったような声でそう言った。顔を上げて肩を揺らすと、呆れたような顔をして、ペットボトルに口をつけている先輩が見えた。
憎らしいほど、いつも通りの先輩だった。
2
部屋の電気を消して明日のためのアラームをセット、それから未練がましくメッセージアプリを開くのが、夜のルーティンになってしまった。
来るはずのないメッセージは、何度確認しても気分を沈ませる。結果がわかっているのに見てしまうおのれがどうにも愚かで、凹んだ気分を自嘲して枕元にスマホを転がした。
終わりはあっさりしたもので、二個を残すばかりとなった箱が空になることはなかった。
泣き縋らない自信がなくて誘えなくなったおれをどう思ったのかは知らないけど、少ないけれどたしかにあったはずの先輩からのお誘いもなくなってしまった。まだ少し、ゴムが残っていたのは知っていただろうに。
寝転がると、枕がやわく頭を受け止めてくれる。沈み込むのに合わせて、深く息を吐いた。
仕方ない。
最初から、いつかはこうなるってわかっていた。
初手で軽蔑されて拒絶される最悪もあったなかで、この結果はまあまあ悪くないだろう。水上先輩はちゃんとおれを抱いてくれて、絆されはしなかったけどいつも通り隊室で馬鹿やって、今でもおれはあのひとの後輩でいられている。
トゥルーエンドではないけれど、きっと、多分、ハッピーエンドくらいは言ってもいい。
何度と繰り返した問答を反芻して、少しだけ気分が落ち着く。
かたん。
灯りも落とした静かな部屋に、その音ははっきりと響いた。
(先輩や)
きっと、そう。
壁を一枚挟んだ向こうには先輩がいるし、先輩の就寝時間がおれよりも少し遅いことも知っている。なにか、少し重みのあるものが落ちたような音。遅れて聞こえた重くて鈍い音は、先輩の足音だろうか。
時間も遅いせいか、それきり音は聞こえてこない。隣の話し声は聞こえない程度の防音性だが、それでも多少の生活音は伝わってくる。今みたいにこっちが静かであればなおさらだ。
ぺたりと壁に手のひらをつけて、それから、吸い寄せられるように耳を当てた。
しんとした壁の向こうに先輩がいる。
先輩の手のひらは、あったかくもつめたくもない。おれの体温とそう変わらなくて、いつもさらりと肌の上を滑っていく。爪はいつも短くて、つるりとまあるくやすりがかけられていた。それは粗雑なようでいて、その実丁寧な生活をする人となりが覗えて好ましい。四角い形の爪に、少し節立った細い指。長い指がときどき、本当にときどき、おれの前髪を撫でるように掬う。そのやさしい手つきにいつも、おれは泣き出したい気持ちでいっぱいになったっけ。
もうそんな瞬間が訪れることはないのだと思うと、胸の奥がぎゅうと苦しくなる。そんな資格がないことは、最初からわかっていたはずなのに。
こつん。
と、まるで見られているみたいに頭の辺りに小さな振動が伝わってきた。聞き耳を立てる自分の行動の醜さを自覚して、はっと身を引く。咎められた心地で壁を見つめる。零した吐息が震えていた。
気付いたらおれは、鍵とトリガー、それだけを手にとって部屋を飛び出していた。
壁一枚向こうには先輩がいるとか、それなのにおれはひとりきりやとか、好きやとか、いっそ嫌いになりたいとか、そういうのがないまぜになって、居ても立ってもいられなかった。
無人の廊下を走って寮を出た。かろうじて灯る街灯の明かりを頼りに足を動かす。見知った道が、すっかり知らない風景になってもひたすらに走った。
行く宛なんかない。あるはずない。
わかっていた。
あの人がいなくては、おれは、どうしようもないってことくらい。
だからあんな関係を持ち掛けたんやし、だからずっと都合のいい相手に徹していた。少しでも近くにいたくて、特別になりたくて、捨てられたくなくて、
(ほんまは、……愛されたかった)
こんなのバッドエンドだ。
ハッピーエンドなんか来やしない。最初からバッドエンドしか用意されてなかった。先輩がおれを愛してくれるなんて、そんなことあり得ないんやから。
辿り着いた先は小さな駅だった。終電も終わった駅は、廃れたようにひとの気配がない。普段は利用客も多いらしく、送迎の車が入れる駐車スペースはそれなりの広さできちんと整備されていて、広場のようなところにはベンチも並んでいる。そばの自販機が場違いなほどに明るく輝いていて、おれは呼吸も整わないままふらふらとそちらに足を向けた。
(のど かわいた)
なにか買おうかとポケットをまさぐって、スマホも財布も持ってきていないことを思い出す。
「そうやったわ……」
急に全身に疲れが襲ってきて、仕方なくベンチに腰掛けた。
走ってかいた汗は、すぐに夜風で冷やされていく。九月に入って夜はずいぶんと涼しくなったから、今は心地よいけれどこのままでは風邪を引いてしまうかもしれない。少し前までコンビニに行くのだって汗ばむくらいだったのに。換装してしまえば不調もなにもかも関係なくなるとはいえ、体調管理も仕事のうちだ。風邪を引いては任務に就くことは許されないし、そのせいで先輩に呆れられたくもない。
けれど、
少しだけ。
もう少しだけ……。
先輩の気配を探してしまう部屋にはまだ帰りたくなかった。おれはゆっくりと目を閉じてベンチの背もたれに身体を預けた。
そういえば。
夜中に、先輩とコンビニに行ったことを思い出す。夏休みだからといつもより夜ふかしをしていた。涼しい建物から一歩足を踏み出した瞬間、こもった熱気を浴びた身体は一気に汗を噴き出した。暑い暑いと文句を言いながら歩く深夜の街はひどく静かで、大きな道路にもかかわらず車ひとつ通っていない。ぼやっとした街灯が並んだ道路の先には煌々と輝くコンビニがあって、そのたった数分の道のりがものすごく特別に思えたっけ。
おれが手放したものだ。
浅ましく、恋人として隣に並ぶことを期待してしまったから。少しの欲も滲ませず、後輩として側にいられることを大事にしていればよかったのに。
きっともう、そんな日が訪れることはない。
「大丈夫ですか?」
かけられた声に、はっと目を開ける。
ベンチのそばに、大人の男のひとが立っていた。そんなに若くはない、多分、三十代後半。こんな時間だけど仕事帰りだろうか、スーツを着ている。
「あ、はい、大丈夫です」
頷いて、そろそろ帰る頃合いかと立ち上がる。急に立ち上がったためか軽く眩暈がした。男のひとは、何故かそばから離れようとしない。
「……あの、」
気になって、今度はおれから声をかける。親切にしてもらった手前、無視をするのも心苦しい。
「ああ、ごめん」
そのひとは、少し困ったように笑みを浮かべる。
「実は、熱中症にでもなってるのかと思って」
よかったら、と。ペットボトルを差し出してきた。さっき見た自販機にも入っていた、有名メーカーのスポーツドリンクだ。
「いや、けど、」
「持って帰っても飲まないし、もらってもらえるとありがたいんだけど」
手を出さないおれに対して、そのひとは引かなかった。
「……なら、すみません、ありがとうございます」
ペットボトルを見ると、忘れていた喉の渇きが蘇ってきてしまう。受け取らない理由もなくて、手を出した。乗せられたペットボトルは水滴をまとっている。まだ冷たいけれど、買ってからは少し経っているのだとわかる。
「それとこれも」
手を引く瞬間、ペットボトルと手の隙間に畳まれた紙がねじ込まれた。なかを見ると、SNSのIDが書いてある。
「これ、あの、困ります」
「なにか訳ありかなと思って、……お節介なのはわかってたんだけど、まぁ、きみより人生経験豊富なおじさんだから」
「けど」
「迷惑なら捨てて、じゃあ」
そう言って、さっさと行ってしまった。残されたのはペットボトルと男のひとの連絡先。
途方に暮れて、とりあえずペットボトルのキャップをひねる。邪魔な連絡先はポケットに入れた。
3
二十三時、少しすぎ。
財布とスマホと鍵、それからトリガーだけをポケットに入れて寮を抜け出す。
向かう先はひともまばらな三門駅前。待っているのは、あの夜出会ったひとだ。教えられたSNSのアカウントの名前がRMだったからアールさんと呼んでいるけど、本名は知らない。RMの由来も訊いたことはない。どこで、なにをしているか。なにも訊かないまま、なにも教えられないまま会えるのが、おれにとっては都合がよかった。多分、向こうにとってもそうなんだろう。三門にいながら関西訛りのあるおれの来歴を、彼から訊ねられたことは一度もない。
「こんばんは~、すんません遅くなりました」
いつもの場所に立っているアールさんが、やってきたおれに気付いて笑みを浮かべた。
「いいよ、こっちこそ遅い時間にごめんね」
「大丈夫ですよ、じゃあ行きましょうか」
向かうのはだいたい、駅前のファーストフード店だ。たまに深夜までやってるコーヒーショップなこともあるし、居酒屋の日もある。仕事帰りらしいアールさんの夜ご飯に、おれが付き合うという形だ。
今日は丼が食べれる店。「腹が減っててさ」とはにかみながら食券を買う彼の隣で、おれは小ぶりのうどんを選んだ。
捨て損ねた連絡先に、お礼のメッセージを送ったのはあの夜から二日経ってからだった。
彼の心配していた通り、おれは多分熱中症になりかけていたんだと思う。結局あのあと、スポーツドリンクを飲み干してようやく、ベンチから離れることができた。あのひとがいなければ寮まで帰ることさえできなかったかもしれない。そう思うと、連絡先を捨てることが悪いように感じて、お礼だけ、それだけのつもりでメッセージを送った。
お礼、挨拶、世間話。一度きりのやり取りにするつもりだったのに、メッセージは途切れなかった。
部屋の電気を消して明日のためのアラームをセット、それからやっぱり未練がましく開くメッセージアプリ。そこで目にするのが、彼からのメッセージ。先輩のメッセージを期待してるんじゃないとおのれに言い聞かせて行う返信が、今のおれの、夜のルーティンだ。
それでもどうしようもなくなった夜には、こうやって呼び出しに応じていた。
「ずっと気になってたんだ、こんな時間までやってる店ってあんまりないから」
「米食える店って貴重ですもんね」
「コウジくんはもう食べてたんでしょ? 付き合わせちゃって悪いね」
「や~、おれもちょっと腹減ってたんで」
うどんを食べ終えたおれの隣で、アールさんは大きな口で鶏肉と卵を食べていた。鶏肉はぷりぷりだし卵はとろっとしていて、見てるだけでおいしそうってわかる。うどんの出汁も好みの味で、思っていたよりもぺろりと食べ終えてしまった。(先輩も好きそうやなぁ)脳裏に浮かんで、慌てて思考を切り替える。
「親子丼、おいしそうですね」
「うん、美味いよ。コウジくん足りた? 親子丼、こっち側はまだ口つけてないから食べる?」
「いや~大丈夫です、おれ夕方にも食べてるんで。親子丼はまた今度頼んでみよぉかな、アールさんが食べてるとこほんまにおいしそうやから」
「そう? ならいいけど、食べたくなったら言ってね」
「はい」
にこりと笑って頷いて、それから水を飲んで、もう話は終わったという顔をする。アールさんはそれ以上おれに親子丼を勧めてはこなかった。
ああ、失敗した。軽率に親子丼を褒めたのは悪手だった。
アールさんはときどき、おれに食べ物をわけようとしてくる。一度も口にしたことはないけど、多分、食べたら最後、おれは帰してもらえないだろう。
それが、おれとアールさんとのあいだに横たわる暗黙のラインだ。
アールさんがおれに下心があることは知っている。ときどき、偶然を装っておれの手を触ろうとしてくるから。ときどき、熱っぽい目でおれを見てくるから。おれだってそれに気付かないほど鈍くない。気付いていながら、気付かない振りをする。
下心を利用して、思惑を躱して、おれはおれのためにここにいる。
よくないことはわかっているけど、誰かに責められるほど悪いことをしているわけでもない。互いの利害が一致しているだけで、現状だとただネットの友人と会っただけだ。誰にするわけでもない言い訳を口のなかだけで転がして、ぐいと水を飲んだ。
考えても意味のないことだ。誰が責めてくれるわけでもないのに。