青空を請う臨時の馬車便が発着する広場には人があふれ、それでいて常のような活気はなく陰鬱な空気に覆われていた。
ベンガーナからいくつかの町や村を経てテランへと向かう乗合馬車は普段であればそれほど混み合うものではない。
季節の折に故郷へ向かう帰省客や行商人、神秘の国を目指す巡礼者が利用する程度だ。
しかし今は事情が異なる。
数年前から続く魔王軍の侵攻は苛烈を窮め、世界一の繁栄と防御を誇るベンガーナにも迫らんとしている。
男達は王都の護りを固めるべく徴兵され、年寄りや女・子どもは郊外への疎開を推奨された。
どうかご無事で あちらに着いたら手紙を出します 子どもらを頼むよ ああ貴方も共に行ければいいのに
そんなに荷物は乗せられないよ少し減らして もう少し奥へ詰めてくれ子どもがいるじゃないか 無理に乗らないでくれまだ次の便があるから・・・
広場のあちらこちらで家族が、恋人同士が、同じような言葉を交わして別れを惜しみ、馭者達は苛立った声で乗客をさばいている。
押し合い圧し合いの中なんとか馬車に乗り込んだスティーヌは、肩提げの鞄が他の客の邪魔にならぬよう気遣いながら腕の中の我が子をしっかと抱え直した。
スティーヌの夫、ジャンクはベンガーナ王宮お抱えの武器職人である。
二人が結婚して間もなく、強大な力を持つ魔王が地上の征服を宣言し世界は恐怖と絶望に包まれた。
新婚生活を味わう間も無く夫は職場に缶詰状態となり、兵士達のための武器作りに追われることとなった。
独身時代よりも顔を合わす機会の減ってしまった生活。
王城の鍛冶場にこもりきりの夫を思い、この国に魔王軍がいつ攻め入ってくるかと震える夜を過ごすこと数年。
一年ほど前、突然に魔王軍の攻撃が途絶え、ようやく若い二人は夫婦として穏やかな時間を過ごす機会を持つことができた。
そして待望の第一子に恵まれ、この上ない幸福に包まれたその直後。
空に暗雲たちこめ、野に山に魔獣の雄叫びが響き
世界は再び魔王軍の恐怖にさらされた。
自分一人であれば王都に残るつもりだった。
夫にどう言われようと、妻として彼の帰る家を守りたいと思っていた。
しかし今、母となった自分が真に守るべきは腕の中の我が子である。
ようやく首が据わろうかというこの子の命を散らせるわけにはいかない。
子どもと共に王都から遠く離れた故郷の村へ疎開することを決めた夜、三人は家族水入らずで過ごすわずかな時間を得た。
ジャンクはまだ抱き慣れぬ一人息子をおそるおそる胸に抱えて、ただ一言、頼むと告げた。
スティーヌはそれに笑顔で応え、細い腕を精一杯広げて愛しい男達を抱きしめた。
ごとごとと揺れる馬車の中はひどく静かだ。
誰も彼も顔をうつむけ、身内同士でも言葉を交わす者はいない。
いやに息のつまる空間だった。
ふいに、ほぎゃほぎゃと赤ん坊の泣き声が響いた。
それほど大声ではないものの、誰一人しゃべらない幌の中ではやたらに耳につく。
誰かが小声でうるせえなあとぼやき、また誰かが、お止しよ、赤ん坊が泣くのは仕方ないじゃないかと小声で窘めた。
「ああ、よしよし、泣き止んでおくれ。皆のご迷惑になるじゃないか、ねえ」
少し離れた場所に座る小柄な女性が腕の中の赤ん坊をあやしている。
しかし泣き声はいっこうに止む気配が無く、あやす声にも疲れが滲む。
「あのう、もし」
お節介かと思いつつも捨て置けず、スティーヌは女性に声をかけた。
「もしかしたらお腹が空いているんじゃないでしょうか。よろしければ私が」
振り返った顔は声色以上に疲れが見えた。
「それは・・・そちらのお子さんの分が困りはしないかね」
「この子は馬車に乗る前に済ませましたから。あまり乳を飲まない子なのでむしろ助かるんです。どうぞご遠慮なく」
「そうかい・・・申し訳無いねえ・・・」
二人の会話を聞いていた客の何人かが場所を譲り合い、女性はスティーヌの隣へと落ち着いた。
息子を包んでいた抱き布を広げ、もう一人分の隙間を作る。
女性に子らの頭を支えてもらいながら何とか二人を抱え、寛げた胸元に赤子の口を近づけるとちゅうちゅうと勢いよく吸い始める。
泣き声が止んだことで、馬車内にも少しだけ穏やかな空気が広がった気がした。
ほうっと息をつきながら、スティーヌは失礼にならない程度に隣の女性の様子を伺った。
裾の長い黒衣に身を包み、頭には不思議な文様の描かれたつば広の帽子、同じような格好をした占い師を街の辻で見かけたことがある。
年はおおよそ60歳、若くとも50代半ばか。赤ん坊の母親にしては年が行きすぎている気がした。
(お孫さんか、預かり子か・・・だとしたらこの子の母親は)
心の声を読んだかのように、女性は口を開いた。
「ありがとうよ。これは私の孫娘でね。母親は・・・私の娘なんだが、産後の肥立ちが悪くてね。この子を産んで半月で逝ってしまったのさ」
「それは・・・お気の毒なことです」
いつの世も子を産むことは命懸けの行為だ。
出産の際に母や子、あるいはその両方の命が失われることは少なくない。
「馬鹿な娘さ」
吐き捨てるように老女は言った。
「もともと娘は身体が弱くてね。成人するまで生まれ故郷のテランを一歩も出ることなく静かに暮らしていたのさ。
それがある日突然に『為すべきことができた』なんて言いだしてベンガーナに出て行ってしまったかと思えば『娘を産むから引き取りに来てくれ』なんて手紙をよこしてきた。
慌てて駆けつけてみれば父親も分からない子を産んで一人きり、虫の息。
結局産んだ子をまともに抱いてやることもできずに逝ってしまった」
胸に溜まった思いを吐き出さずにはいられなかったのだろう。一気に老女は言葉をつむぎ、はあと深くため息をついた。
「この赤ちゃんを産むことが娘さんの『為すべきこと』だったんでしょうか」
「私にもはっきりとは分からんよ」
スティーヌの問いを受けて、老女は皮肉げな笑みを口元に浮かべる。
「ただ私らは・・・見てお分かりかもしれんが、代々占いを生業(なりわい)にしてきた一族でね。先祖には遠い未来を見通せる強い力を持つ者もおったのさ。
娘にもそういう力があった・・・お互い只人であれば、縛り付けてでも故郷に留まらせたが・・・私にも薄らと見えていたんだよ、遠からず娘を見送る日が来ることがね。
自分の行く先が見えちまったなら私にゃ何もできやしない。親不孝な馬鹿娘の代わりにこの孫を育てあげてやることがせいぜいさ。
きっとこの子にも何か運命(さだめ)があるんだろう。娘が命を懸けて産まなければならなかった意味がね。それが分かるまでは、この婆も生きてやらにゃいかんのだろうよ。
ああ、本当に馬鹿なことだよ、あの娘も、私も」
老女の言葉はきつかったが、その内には娘への愛情と先立たれた哀しみが深く感じられた。
老女の腕に赤子を返し、スティーヌは息子の身体を抱き布に包み直した。
「人には皆、何か『為すべきこと』があるのかもしれません」
何を言えばいいか、どう伝えればいいか、言葉を探す。
「夫は王都で武器を作っています。魔王に立ち向かえる武器を作るには力が足りないとこぼしていましたが、それでも鍛冶場に立つことがあの人の『為すべきこと』なんでしょう。
私はこれといって取り柄もない女です。戦うこともその手助けもできません。
でもこんな私にも『為すべきこと』があるのだとしたら・・・この馬車の中で奥様とお会いして娘さんのお話をお聞きすることだったのかもしれません。
こうしてお孫さんのお腹を満たせたことが少しでも奥様の助けになれたのなら、こんなに誇らしいことはありません。
あとは主人とこの子と、また一緒に暮らせる日が来ることを信じて、ただ一生懸命生きていくことくらいしかできませんから」
「それが一番だよ」
老女は優しい笑みを向けてくれた。
「力があっても無くても、ただ一生懸命に生きる。それが大事だと分かっているだけであんたは大した母親さ。
本当にありがとうね。あんたの元でなら、きっとその坊やも良い子に育つだろう」
しかし奥様はやめとくれ、お尻がむずがゆくなってしまうよ。
茶目っ気のある占い師の言葉に、馬車に乗ってから初めてスティーヌは笑った。
馬車は揺れる山道にさしかかる。
高い木々の陰に幌の中は暗く覆われ、遠く響く怪鳥の鳴き声に幼子がか細い悲鳴をあげた。
兄らしき少年が優しく弟を宥める。
心配すんな、兄ちゃんが守ってやる。いいか兄ちゃんは強い勇者になるんだ。魔王なんてすぐやっつけてやるからな
子どもの大言に大人達は励ましも揶揄の声もかけられず押し黙ったままだ。
(そんな日は来なくていい)
身勝手な望みだと自覚しつつもスティーヌは思う。
(勇者になんてならなくてもいい)
たとえ彼が本物の勇者になれなかったとしても、この戦乱が数年続けば少年は自ら望まずとも徴兵され戦地へ赴くこととなる。
(それがあの子の『為すべきこと』でありませんように)
その前に、この恐怖の日々が終わることをひたすらに願う。
腕の中の息子も、縁あって乳を分け与えた赤子も、名も知らぬ幼い兄弟も
何も恐れることのない青空の下で、ただ笑って過ごせる未来が来ますように。
揺れる馬車の中、小さな命をただ必死に抱きしめる。
故郷の村はまだ遠い。
幌越しに見る空はいつものように曇っていた。