桜のおわり「ありがとう、荒鬼くん!」
「おう!じゃーな、ノア!」
ありがとうございましたァ!と市場に狂介の活気のある声が響く。ちょうど休憩から出てきた俺は、上機嫌で見送る狂介とノアの後ろ姿を見た。
「お疲れ、狂介。ノア、来てたのか?」
「おー、兄貴。残念だったな、今日のノアはウチの上客だ!」
ふふん、と腕組みをしながら得意げに言う狂介に少し笑った後、「上客ってなんのことだ?」と尋ねた。
「ノアがな。俺ん所来るなり言ったんだよ」
―――――――――この中で、一番いいお肉をください!
「一番いい肉?」
「虹顔牛のブロック肉。ええと、ケースの中にあるヤツを買ってったから……このくらいだな」
手元の電卓を狂介が見せる。思わず俺は「うわ」と少しばかり大きな声を出してしまった。
「なんてこった、高級も高級じゃないか!………忘れがちだけど、ノアも金持ちなんだよなあ」
しみじみと思う。純朴で優しくて庶民的な彼に慣れ親しんでいるからこそ、たまに見せる「御曹司」の面を見るとなんだか驚いてしまう。結びつかない、というわけではないけれど―――――なんだか境目が曖昧なままで、毎回新鮮にびっくりしてしまうのだ。
「……でも、普段はその……手頃な肉を買ってくよな。カフェで出すにしてはちょっと豪勢すぎないか?」
「それなんだけどよォ」
狂介は眉毛を少しだけ上げて、こう続けた。
「『プレゼント』だってよ」
「プレゼント」
俺と狂介は顔を見合わす。そうして俺はぽつりと呟いた。
「…………ノアの奴、ライオンか何か飼い始めたのか……?」
「…………………………」
深呼吸を二回。そうして震える指でチャイムを鳴らす。正直、彼がこの時間に家にいるとは限らないので―――――――これは、賭けだった。釣りか、狩りか、買い物か。僕は彼が家にいてほしいという気持ち半分、いなくてもいいという気持ちが半分だった。恥ずかしい事に後者の気持ちを解体すると、「怖い」という感情がまろび出てくる。
――――――怖い。会って、何を話せばいいんだ。僕は何をしに来たんだ。
手土産まで持って来たのに、あまりにも僕は無計画だった。ごくり、と唾を飲む。するとその瞬間、扉の奥から控えめな足音が聞こえて――――――思わず僕は、びくりと肩を震わせてしまった。
「(い、いる…………!)」
手土産を持つ手が震える。呼吸が荒くなる。落ち着け。落ち着け。
………扉が開くまでの数秒間はまるで無限のようで。けれども無限なんてものは普通に生きていたらお目に掛かれるわけじゃなく、有限はすぐに訪れた。がちゃりと扉が開かれる。
そして彼は目を少しばかり大きく見開いて―――――――そうして、機嫌の悪そうな顔になった。
「……………何しに来た」
もう一度、唾を飲む。落ち着け、落ち着け。落ち着け―――――――
「―――――――――…………」
なかなか答えない僕に、とんと音を立てて彼は壁に凭れかかる。そうして僕の様子を見ながら「ああ」と言った。
「……………心配して様子でも見に来てくれたのか?『エージェント』は」
ク、と喉の奥で笑ったような声がして、僕は少しだけかちん、と来た。
心配、してたさ。あんな様子見せられたら思う所があるに決まってるだろ。むしろ、何も思わない方がどうかしてる。こっちはあなたの事ばかり考えてしまって、あなたの本気の怒りを垣間見てしまって。この一週間だか二週間、ずっともやもやしていたのだ。
魅上くんにはああ言ったけれど、悩んでいるのは僕も同じで。
だから僕は、口を開いた。
「皇紀さんに、会いたくて来たんです」
「………………」
皇紀さんはちょっとだけ目を伏せる。そうして踵を返しながらこう言った。
「――――――――入れ」
桃源郷事件から一週間半。あの事件に関わったそれぞれが、それぞれの日常へと戻りつつある頃――――――僕はというと、恥ずかしながら日常に戻りきれていなかった。理由は簡単、あの場所で皇紀さんの過去に触れてしまったようなものだからだ。
レオンと一緒に見ていたドラマで、「本人のいない所で秘密をバラすのはよくない」みたいなセリフがあったのを思い出す。概ね同意だ。だけれど僕はエージェントなので、「報告」はやはり欲しい。……けれど、個人の秘密は守りたい。そんな微妙な立ち位置だった。
皇紀さんの過去も名前も、聞かなくてもいいと思ったのはあのハロウィンを過ぎた秋の日だ。
どうあれ今目の前にいる彼こそが僕の知る皇紀さん。今はそれでいい―――――――そう決意してから数か月後、まさか幻の彼の「親父」さんから名前も過去の一端も聞くことになろうとは。
皇紀さんは、怒っていた。
それはそうだろう。死人に口なしとは言うが、トルスのやったことは死人に勝手に口を付けるような行為だ。……おばあさんは、旦那さんの言葉で戻ろうと思ったのだから――――――すべてがすべて彼女の作り物であるとは言いにくいが。
僕だったらどうだろう。亡くなったお父さんが「エージェントなんて辞めてもいい」なんて言って出てきたら。……僕は怒ることが苦手だけど、きっと怒っただろう。「父さんを馬鹿にするな」と憤っただろう。
そこでふと、気づいた。
皇紀さんも僕も、父親を失っているのだ。
だからなんだ、という話だ。僕と皇紀さんの人生は違う。けれど、けれど――――――
同じだ、と。少しだけ、思ったのである。
「虹顔牛のブロック肉です」
どん、と机の上に置く。さすがの皇紀さんもソファで足を組みながらではあるが、驚きに満ちた表情を見せた。袋の中身を吟味しながら「…………本物だ」と呟く声が聞こえる。
「荒鬼くんのお店で買ってきた、新鮮なお肉です。どうぞ、お好きに使ってください」
「――――――――――――――……………ああ」
皇紀さんは袋を持ってキッチンへ歩く。僕はその背中を見送りながら、ばれないように息を吐いた。ひとまず、家には上がれた。………けど、この後。どうしよう?
「……………で、お前は何しに来たんだ?」
「、」
「…………まさか、『俺に会いたくて』………だけじゃねえだろうな」
「……………………そうです」
「……………、」
「あなたに、会いたくて来ました。顔が見たかったんです。…………声が聴きたかったんです。………それだけです」
「っは、」
台所から肉をしまう音が聞こえる。とりあえず僕の方を優先してくれるらしい。
「…………………うぜえ、帰れ」
「……………」
思っていた以上に、まだ機嫌が悪かった。これじゃ最初の頃の、彼の一挙一動にびくびくしていた頃みたいだ。
膝の上で拳をぎゅっと握る。しっかりしろ、僕。あの時とは違うだろ。みんなと、あなたと、確かに絆を深めて来ただろうが。
「―――――――――俺は、弱い奴には興味が無え」
「…………………っ」
それを聞いた瞬間、僕はソファから立ち上がり―――――ソファの横に立っていた皇紀さんの腕を、がっしりと掴んだ。
「っ、」
「………じゃあ!僕が強ければ、いいんですね!?」
「何言って――――――――――」
唇を噛み締めそうになって、ぱっと離して。そうして、叫ぶ。
「僕はっ………強く、なります!自分自身を、皆を守れるくらい、強く……!!」
「……………簡単に言うんじゃねえよ」
「ぼ、―――――僕は、そんな生半可な覚悟で、言ってないです。僕は、エージェントとして、虹顔財閥の御曹司として、そして、………ノアという僕個人として、強くなりたいんです。いや、強く、なります!」
「――――――――――……………、」
僕は絶対に、あなたを置いていかない。あなたより先に死んでやるもんか。
「大体、皇紀さんが師匠なんだ。だったら弱くなるはずがない。そうでしょう」
……………あんな顔、させてやるもんか。
なんだか僕は、あつくなっていた。彼の秘密をあんな形で知ってしまった罪悪感と、見た事もない彼の表情、聞いたことのない彼の声。そのすべてが、僕の知らない彼のこと。
全部教えてくれなんて言わない。僕が貴方を守りますなんて、僕より強いひとに言えない。
けれど、僕は必死だった。あなたのことが知りたいし、あなたを本当の名前で呼びたいし、僕が守りたいひとたちの中には、あなただって含まれていて。
「僕は、あなたが」
ふいに、皇紀さんが僕に抱き着いてきた。
長い腕を背中に回して、ぎゅうと強く、強く。
「…………弱っちいくせに、一丁前に吠えやがって……………」
「……………皇紀さん?」
「―――――――――――、が、」
「え、」
「真壁、皇牙。俺の本名だ。」
「―――――――――――――…………………」
どうして、と僕は言った。皇紀さんは少しだけ目を伏せる。
「あの時、親父……とも呼びたくねえが、あいつが言ってたろ。今更隠すでも無いしな」
「………………あの、あなたは。どちらで、呼んで欲しいんですか」
「こっちのセリフだ。お前は、どっちで呼びたい」
「どっちも呼びたいです。」
「………………、」
それはあなたの大事な名前だ。
そして「そちら」は、あなたがライダーとして進んでいる証左だ。
「どちらも呼ばせてください。僕は、どっちも大事にしたい」
「……………強欲だな。……………だが、まあ」
きらいじゃない、と言った彼は少しだけ――――――聞いたことのない声色をしていた。
親父が死んだ日の夢を見た。
その翌日、あいつが死ぬ夢を見た。
ただの夢だ、いつもだったらそこまで気にしない。ただ、桜色の地獄の帰りだったためか―――――その死に顔は、やたらと俺の脳裏に焼き付いた。
人は死ぬ。生物はいずれ終わりが来る。
強いものは生き残り、弱いものは淘汰される。
けれど、起きた瞬間すぐに思ったことは。
「早すぎる」という一言だった。
「……よし、じゃあジョギングしますか!ノア、準備はいいかー?」
「う、うん!」
「それじゃ才悟も……って、速!もう豆粒になってる!」
「あはは……魅上くんは相変わらず速いね……」
「おれはノアのペースに合わせるよ。無理せずやってこ」
「…………あ、そのことなんだけど……伊織くんにお願いがあるんだ」
「うん?」
「重~~~~~~い!!」
開店二時間前。いつもの喫茶店でさくらラテを飲みながら、ランスから借りた本でも読もう!なんて計画を立てていたのも束の間。皇紀さんから「荷物持ちしろ」というご命令を受けて、僕らは今下町地区の河川敷を歩いている。僕も皇紀さんも大荷物なのに、皇紀さんときたらいつも通りの表情ですたすたと前を行く。ちょっとは重そうな顔しようよお、なんて思うけど―――――実際にされたらびっくりすると思うから、やっぱりいつもの調子の皇紀さんが一番だ。
「(いつもの調子、と言えば……)」
桃源郷から帰って以来、皇紀さんは「普通」の顔をしていた。していたのだけど、なんとなく――――――彼の纏う雰囲気が、なんとなーくピリピリしてる気がして。なんというか、猫が尻尾だけ膨らまして歩いてる感じ?
皇紀さんは結局、桃源郷で見たものの話はしてくれなかった。気になるっちゃ気になるけど、深入りしないのが僕らのセオリー。だから僕はつとめていつも通りに日々を過ごしていた。
「(……でも、なんか。一昨日あたりから落ち着いた?)」
いつも通りの仏頂面だけど、尻尾のぶわー、は無くなった気がする。……あれから一週間半、彼の中で何かがあったのか、それとも誰かさんが彼を鎮静化させたのか。どっちかはわからないけど、こうして買い物の手伝いをさせてくれることが僕は嬉しかった。……重いけどね。
「無駄口叩くな、行くぞ」
「えー、いいじゃん無駄口くらい!っていうか今日、ぽかぽかしてて気持ちいいね!」
「…………」
「無視!?…………あ、見て見て皇紀さん!河川敷、ジョギングしてる人がいるよ!」
指さした先には赤いジャージの豆粒。目がいいからね、遠くの人でも見えちゃうのだ。
「ひとりかな?…………いや、後ろの方にもう一人いる。お連れさんかな?」
「……………他人じゃねえのか」
「うーん………ってあれ、赤い方!陽真じゃん!」
おーい、と声をあげてみれば、赤い豆粒はどんどん近づいて来て大きく手を振りながらも走り続けている。うわ、器用。
「颯さーん!それに、皇紀さんも!こんにちはーーー!」
「はーるま!何してんのー!?」
「皆でジョギングしてるところです!今日、すっごく気持ちいいんですよ!」
「わかるー!あったかいし晴れてるからね!」
他に誰がいるの、と聞く。陽真は前を指さして、少し苦笑いした。
「才悟がめっちゃ前にいます!なんだかすっげえ張り切ってるんですよ、あいつ」
「才悟が?へー、見なかったな。途中ですれ違っちゃったのかな?ね、皇紀さん」
「……………………へえ」
皇紀さんはちょっとだけ笑った――――――ような気がした。
「じゃあさ、あの遥か後方にいる人もお仲間?」
「ああ、あれノアです」
「ノアさん!?」
「そう。今日はノアと一緒に走る予定だったんですけど、本人が『伊織くんのペースで走っていいよ』って言うんですよ」
――――――――きつい……かもしれないけど、追いつきたくて。
ちょっとずつでもいいから、僕も強くなりたくて。
だから今日は加減せず、先に走っていいよ。
きっと、追いつくから。
「おー、かっこいいねえ。ノアさん」
正直エージェントなんだから後ろでどんと構えててもいいとは思う。けれど、それじゃダメなんだろう。そういう所は先代と本当によく似ている。
自分にもできることをしたい、そんな気持ちが前へ前へと進ませる。そうしているかライダーたちは、彼を守っているようでいて守られていることに気づくのだ。
「……………ノアさーん!がんばれー!」
聞こえるかはわからないけど、僕は大きく手を振って、大きな声で応援した。
「……………行くぞ」
「え、皇紀さん!?ノアさんに会っていかなくていいの?」
「いい。走らせとけ」
ふいに、春風が吹いた。
桜はどんどん散っていく。もうすぐ青葉の季節がやってくる。
「………………あいつなら、殺しても死ななそうだ」
「?皇紀さん、何か言った?」
「なんでもねえ。さっさと行くぞ」
皇紀さんの声色は、なんだか機嫌が良さそうで。
僕はなんだか嬉しくなって、荷物の重さなんか忘れて彼の元へ走って行ったのだった。