信頼とあと一匙シュミレーションルームが空いていたため、僕は皇紀さんに稽古を付けてもらっていた。
「――――――――――…………」
「どうした、このくらいでへばってちゃ、いざって時なんもできねえぞ」
上から皇紀さんの呆れたような声が聞こえたので、どうにか首だけ動かして返事をする。
「…………は………はい、師匠……げほっ、ぜえ、ぜえ、はあ………」
「…………ちっ。休憩だ。伸びてる奴にこれ以上やってもつまらねえ」
「……………すみません………」
皇紀さんは伸びてる僕の横にどっかりと座り、疲れ切ってる僕を見下ろして「ふ」と笑った。嘲笑なのか呆れなのかはわからないが、多分少しの愉悦も含まれているんだろうと思う。
―――――――――あのメモを発見してから数日。
元々皇紀さんからは護身術を習っていたが、発見日からは更に熱が入った。何せ会うたび技を掛けてくる。羽交い絞め、足掛け、横からの攻撃などなど。僕はもうわかりきってるので、対応した急所を突く。二回目だか三回目だか、どうせ皇紀さんだろうと思って手加減したら割と真面目に怒られたことは記憶に新しい。
――――――――俺だからって気ィ抜くんじゃねえ。解体するぞ。
あの時の皇紀さんは本気で怒っていた。その夜、僕は「あそこまで怒らなくていいんじゃないか」みたいな気持ちを持ちながらも、「でももしってこともあるし、教えて貰っている身だし」と素直に反省しながら眠りについたものである。
そして今日はたまたま皇紀さんが仮面カフェに訪れ、お客さんも減って来た時間だったので―――――シュミレーションルームを使って、個人的に稽古を付けてもらっていたのである。
で、今だ。
「……………もっと体力付けないとな………」
「………………前にも言ったが、お前は筋肉が付きづらい肉質をしている。がむしゃらにやっても無駄だ」
無駄だと言われてしまうとさすがに落ち込む。そりゃそうかもしれないが、僕だって伊織くんのランニングにお付き合いさせてもらったり、荒鬼くんの肉トレにお邪魔したりしているのだ。言い返せない自分に対し、皇紀さんは口を開いた。
「………お前は力業より、受け流す方が性に合ってる。トレーニング自体は無駄じゃねえが、重要なのはやり方だ」
…………今のって励ましてくれたんだろうか。僕は汗を拭きつつ、ゆっくり起き上がる。そうして横に座っている皇紀さんの前に座った。
「………頑張ります。あの、皇紀さん」
「なんだ」
「なんで、ここまで面倒見てくれるんですか?」
「―――――――――――…………」
皇紀さんはルビー色の瞳でじ、と僕を見つめる。脈打つ心臓が、別の意味で高鳴る。この人と「そういうこと」をする関係になって久しいけれど、未だにこの人間離れした美しい視線には慣れない。
「………ただ休んでるのも暇だろ。座学だ。もう少し近寄れ」
「は?え、ああ、…………はい?」
皇紀さんは僕の問いには答えず、僕を呼びつける。僕が素直に従うと、皇紀さんは僕の手を取って目の方へ導いた。
「え、あ、あの、皇紀さ――――――」
「目。」
導かれた手は、いや指は、皇紀さんの目元を掠める。長い睫毛がすぐそばにある。
「急所の一つだ。正面から襲われた時、突け。瞼でもいい。致命傷を与えることができる。少しずらせば、こめかみがあるな。この間も教えたが、ここを強く打ち付けることで平衡感覚が失われる。その隙に逃げろ」
僕の汗まみれの手は、もっと別種の汗をかいたようになる。これらは―――――決まっている、あのメモにも書かれていた人体の急所だ。
「…………額。ここは無ければ鞄をぶつけるのも良い。ナイフを持っていれば切りつけるのも有効だ。流れた血で視界を奪うこともできる」
皇紀さんの手はさらっとしていて、でもあつくて、人間の手の温度だ。彼は淡々と僕に、急所を教えている。そう、彼は僕の師匠でもあるので教えているに過ぎない。だけど―――――――
「(…………なんか、変な感じだ……)」
こんな気持ちを持つこと自体おかしいとは思う。けれど、僕の指先に彼の急所があると思うとひどく興奮して、それと同じぐらいの罪悪感が訪れる。別に僕はこの人を傷つけたいわけじゃない。害したいわけじゃない。じゃあ、どうしてこんなにどぎまぎしてしまうのだろう。
「耳の後ろの―――――――この、膨らんでいる部分。ここは刺すことで、運動神経を麻痺させる効果がある」
「っ、…………」
耳に触れさせられる。指先が銀色の輝きを掠める。白く美しく、かたちの良い耳たぶに少しだけ触れて――――――僕の指は、皮越しに耳の骨を撫でる。指先があつい。
「……………………」
「…………おい、どうした?………まさか疚しい事でも考えてるんじゃねえだろうな」
「いえ!そんな事は全然、ありませ――――――――」
顔を上げて皇紀さんの方を見る。皇紀さんは――――――いつも通り、無表情ではあった。けれど僕の目をじっと見つめて、離してはくれない。僕の手をぎゅうと握り、そちらも離そうとはしない。
「……………前にも言ったが、弱いのに戦場に立つ覚悟は……悪くねえ」
「え、それってお父さんの話じゃ、」
「……………弱いのに、上を目指そうとする姿勢も………まあ、嫌いじゃねえ」
「皇紀さ―――――――――」
「生きろ。俺が生きる術を教えてやってるのに、野垂れ死んだら許さねえからな」
皇紀さんは僕の頬を両手で挟み、そう言った。
僕は―――――――なんだか、じわじわと涙が込み上げて来そうになってきた。この人から愛の言葉を吐かれたことはない。基本、僕の片思いでしかない。けれどこれは、何よりも雄弁に情が含まれていた。胸が熱くなる。そして同時に、彼の言う通り疚しさを感じていた自分が恥ずかしくなった。彼は自分を信じて、触れさせてくれていたのに―――――――
「それに―――――――――」
掌は頬を滑り、また僕の手を握る。そうして導かれたのは、彼の首だった。
「…………………命に、直に触れられてるようで、……………悪くは、ない」
「……………、……………」
皇紀さんはそこでようやく、視線を下に落とした。僕は自分自身の心臓の音をうるさいと感じながら、彼の言葉を何度も何度も反芻する。
――――――――感情を、ダイレクトに伝えられている。そう思った。
これが信用か、信頼か。けれどそんな美しい言葉ひとつで片付けるには、あまりにも深く、あつい感じがした。
乾いた喉から、陳腐な愛の言葉が出て来そうになるのをぐっと堪える。
彼の言葉を、視線を、熱を。受け止めることだけが――――今の僕の精一杯だった。