【雷鳴】【雷鳴】
遠くに雷鳴。
窓を打ち付ける雨は激しさを増している。
ガラスの側面を流れる水滴を通して見える坂道が、まるで川のように雨水を運んでいた。
「あ———。めっちゃ雷鳴ってるやん」
「本格的に降ってきてまいましたね」
先程まで全員で作戦会議をしていた生駒の自室には、雨音に混じって隠岐が皿を洗う水音がするばかりだ。
ゆっくりしながら話を詰めようや、といつもの隊室から場所を変えたのが良かったのか、思いの外、話のまとまりが早かった。キリが良い所で、雨が来る前にと生駒からの夕食の誘いを断り、水上達は一足先に帰宅の途についていた。濡れずに済んでいるだろうか、と少し心配になる。俺も残ると言っていた海を引きずるように連れて帰った水上の姿が思い出される。
自分も帰るつもりだったが、何故か水上に残った資料整理を手伝うように促され、居残ることになったのだ。
思いかけず訪れた二人きりというシチュエーションに、時々戸惑ってしまい、会話に詰まる事がある。しかし日ごろ仕事をしない表情筋のおかげで、いつもと変わりない状況を作り出すことができているのが救いだ。
「もう梅雨入ったんか?」
資料のまとめを隠岐が済ませている間に、生駒があり合わせで夕食を準備した。冷蔵庫の余り物で作ったとは思えない献立が食卓に並ぶ。メインは鶏肉の甘辛焼き。それにフライパンを蒸し器代わりにして作った茶碗蒸し。ほうれん草のお浸しと、薄揚げとわかめの味噌汁。女子にもてたいという動機で始めた料理だが、どうやら生駒の性分に合っていたらしくめきめきと腕を上げている。
他のメンバーが立ち去った後に比べて言葉数が少なくなったのは否めないが、ゆっくりとした時間を持って、生駒の手料理を平らげたところだ。
作ってもらったのだからと隠岐は自分から片づけを申し出て、現在食器洗いの真っ最中である。スポンジの泡で丹念に皿を洗いながら、隠岐はその言葉に苦笑を漏らす。
「とっくに入ってますやん。今年はだいぶ早かったみたいですわ」
テレビをあまり見ない生駒に、おおざっぱな情報だけを伝える。
それだけで納得したのか、生駒は窓の外を眺めながら、ホンマか、とだけ答えた。
水上達が抜けた空間は、無言が占めることが多くなってしまっている。
五人でいた時には饒舌だった生駒も口数が少ない。
「イコさん。コーヒーでも淹れましょか?」
「……おお。せやな」
コーヒー豆などの場所には困らない程には、通いなれた部屋でコーヒーメーカーをセットしながら、生駒の様子を伺えば、飽きもせずに窓の外を眺めていた。
また遠くから雷鳴が届く。
徐々に暗くなる窓外と雷鳴の他は、静かな空間がいたたまれない。
いつもと様子の違う生駒の態度にも戸惑ってしまう。
会話がないままに、こぽこぽとコーヒーメーカーの音だけが主張していた。
慣れない生駒の沈黙。
何か気に障る事でもしたのか、とか、先刻の話し合いの中で引っかかりがあったのか、と気を揉んでしまう。
ただの隊長と部下、それだけであったならこんな気づまりは無かっただろう。
誰にも言えない感情が胸の中にずっとある。
それを他人に言ったことは無い。
もう何年も隠岐の中で燻り続けているだけで、表に出たことがない感情。
自分でも持て余してしまう時もある。
そんな時は誰かに、同年代の隊員や、同隊の先輩である水上などに相談してしまいたくなる。その衝動はただの逃げだけれど、抑え込む度に考えてしまう。
吐露すればどうなるのだろう?と。
そう考える度に思い浮かぶ情景はひとつしか無かった。
拒絶。
そのうすら寒い思考に一瞬頭が冷えるが、それでも奥底から沸々と湧き出る感情を止めることはできずにいた。
何かの拍子で決壊してしまわないだろうか。
いつまで押し留めていられるのだろうか。
そんな膨れ上がるだけの感情を持て余し、一人眠るベッドで、枕に顔を埋めて叫んだ夜もあった程だ。
クラスでの恋バナしようぜ、なんていう気軽な話に乗れる訳もなく、いつぼろを出してしまうのかと不安ばかりだ。
隠岐は相も変わらず窓外を眺める生駒に視線を移した。
換装している時には見ることのできない目元に自然と視線が行く。
キリリ、と音がしそうな程に引き締められた口元と、それを補強するような目元の力強さ。
生駒に向けられる感情が“恋心”だと自覚したのはいつのことだっただろうか。
関西でスカウトされ、この三門市にやってきた。
それまではトリオンというものの存在も、それが自分に人並み以上に備わっているなどと思いもしなかった。戦闘など全く関りの無い生活を送っていたのだ。
初めて親元を離れる生活への不安もあった。
初めて握った銃の感触、引き金を引いた時の反動。
次々と押し寄せる初めての生活は楽しさもあったが、不安と緊張がそれよりも勝っていた。
それを払拭してくれたのが、生駒という男だった。
突拍子もない話題の転換に、豪快な笑い。何より芯の通った信念があった。
生駒と初めて話をした時、隠岐は三門市に移り住んでから初めて、声を上げて笑う事が出来た。その時の事は今でも忘れることができない。
最初は好感、それが憧れに変わり、更に恋慕に変わるまでそう時間はかからなかったように思う。
くみ上げる水が無くなり、シューっと音を立てたコーヒーメーカーが我に返らせる。
いつものマグカップに注ぎ入れる。自分のコーヒーには牛乳を少し足す。
まだ注湯口に残っていた水滴が、ヒーターに零れ音を立てて弾けた。
最近では抱えていることが辛くなってきたこの感情も、弾けて気化すればいいのに、などとどうしようもない考えが浮かぶ。
「イコさん。コーヒー入りましたよ」
「おお。おおきに」
コーヒーを飲んでいる間、つけっぱなしのテレビからはワイドショーが流れている。会話の少ない部屋にはその音がやたらと響いていた。
芸能人の不倫報道の後は天気予報。おなじみの天気予報士が高気圧と梅雨前線の攻防を熱く語り始める。
どうやらこの雨は明日の昼過ぎまで続くらしい。
本格的な梅雨空ということだ。
テレビの中とは違い、この部屋に明るい会話は存在しない。
生駒は相も変わらず難しい顔をしている。他の人には識別できない表情の変化だろうが、常日頃から生駒を見続けている隠岐には容易に判別がつく。
どうにも居たたまれない。
何か話をしなくてはと思う度に、胸の奥に隠してある感情が膨れ上がる。
生駒との共通の話題など沢山あるはずなのに、どうにも頭が働かない。
どうにも嫌な展開になりそうだ。
「これ、飲んだら帰りますわ」
「……ん?」
悶々と蓄積される感情に、いつ飲み込まれてもおかしくないのだ。
とち狂った思考回路で、生駒に想いを告げてしまうかも知れない。
その先に見えるのは、生駒の困惑した表情と、ギクシャクとした隊内の空気。
ハッピーエンドなど程遠い。
同性で同隊。
上司と隊員。
それ以上でも以下でもない。
好きだという気持ちとは裏腹に、隠岐にはどうしても結ばれるという発想ができないままだ。拒絶。失望。そんな事ばかりが思い浮かぶ。
不愛想に見えるが、一本気で誠実で裏表のない生駒に、同性への恋愛感情がプラスに働くとは思えない。そんなマイナス思考だけがぐるぐると脳内を巡る。
この人には可愛らしい華奢な女の子との結婚とか、一姫二太郎なんていう、それこそ世間一般とされている幸せが似合う。
「いつ止むか分からへんし。早い目に帰る事にしますわ」
飲み終わったマグカップを片付けようと腰を上げる。
「雨が止むまでおったらええやろ」
それを遮るように生駒の言葉が届いた。
「言うて、イコさん。明日まで雨予報ですやん」
「そうやな」
「…え……せやから…」
何を言っているのだろうと今まで以上に思考がままならない。
予報では雨が止むのは明日の昼間。
止むまで、なんて、この部屋で一晩過ごせとでも言うのだろうか。
生駒の部屋で。生駒と二人で?
一気にあらぬ方向に思考がフル回転してしまう。
生駒は気を利かせて言ってくれているだけなのだろうが、自分はそうはいかない。
一晩なんて耐えきれるはずがない。
いつも張り付けているはずの笑顔が出てこない。頬に熱が集まるのを感じる。こんな自分は生駒にだけは見せたくない。
挙動不審にならないようにするのが精一杯で、頬の熱も治まらない。もう勘弁してくれと泣きそうになる。
「そんな迷惑かけれませんて…」
「ええから。雨が止むまでおったらええ」
立ち上がろうとテーブルに着いた腕を、しっかりと生駒が掴んだ。
伝わる熱に増々涙腺が緩む。頬が熱くて仕方がない。
そんな声でそんなことを言わないで欲しい。
感情も思考もなにもかもを無茶苦茶に掻き乱されてしまう。
「そんな顔されて、おとなしく帰すわけあらへんやろ…」
心臓の音がうるさい。
雷鳴よりも強く響く。