初めての推し――あなたのその見方、180度変わるわよ
主任先生の言葉を私は痛感することになる。
私の好きなものは『小さな子』。特定の誰かというわけではないから、『推し』とは言いにくいのだけれど、小さな子は一日中見ていたいし、何時間見ていても飽きない。ちぎりパンみたいな腕の赤ちゃんもかわいいし、ハイハイしようとして後ろに進んでいくのもかわいい。1歳児クラスのトコトコ歩けるようになった子も、2歳直前でおませにたくさんおしゃべりしてくれる子もかわいい。そんなに変わらないのに、幼い子が0歳の子を見て「あかちゃん」と指さしてるのを見ると、あなたも赤ちゃんじゃない!って悶絶しちゃう。
私が保育園で働き始めて数日経った。小さな命を預かる仕事は緊張感もあるし体力も使うし、毎日ヘトヘトだけれどやりがいがある。私は顔を覚えるのが下手なので、この数日で覚えれたのはほんのひと握り。やっぱり目立つ子というのは覚えやすくて、私が最初に覚えたのは一歳児クラスのある男の子だった。金色の髪がふわふわしていて、泣くと園内いっぱいに声が響く。目立つ外見と大きな泣き声で一発で覚えられた。でもこの子の容姿と言動から、私は密かに危険視もしていた。
保育士のお仕事には問題のある家庭のサポートもあると習った。ひどいものだと児童相談所へ通報するケースもある。勤め始めて間もないからまだ誰にも話してはいないが、最初に覚えたこの子が、もしかしたらこれに該当するのではないか、と思っているのだ。泣き声、それも朝に送ってきた直後の泣き方が異様。超音波かと思うほど高くて、そして汚い。それだけじゃない。あの髪の色もおかしい。色素が薄くて茶髪に見える子はいる。髪が細いから明るい髪色になってる子もいる。けれど、あの子のは金髪だ。ふさふさしているけど黒くなりそうな髪がない。日本人らしい顔立ちだし、両親の名前は善逸と禰󠄀豆子でやや古風だし、子供にはパパから一字同じものが入っていて名付けにもお堅い印象が強い。なのにあんなに髪の色が明るいのだ。あんなに幼い子の髪の色を抜くなんて普通の親のすることじゃない。きっと痛くて泣いているのを無理やり脱色したに違いない。パパまで金髪ということはパパのブリーチ剤の余りでも使ったんだと思う。ママも同罪。
それだけじゃない。お散歩カートに乗せて園外をお散歩した時のことだ。あの子がたんぽぽを指さして「ぽぽ!」と言った。私は「たんぽぽ」が言えなくて「ぽぽ」と言っているだけだと思ったら、どうやら「パパ」と言っていたらしい。隣にいたベテランの主任先生の「そうだね~パパだね~」という返事にあの子はニッコリと笑った。あの子にはパパがたんぽぽみたいに見えるらしい。たんぽぽに似ているだなんて、どれだけ髪色が明るいのだろう。メッシュを少し入れるというレベルではなくて髪全体が金なのだと思う。
虐待を疑った私はいつでも通報できるよう児童相談所の電波番号をスマホに控えた。けれど、アザがあるわけでもなければ、ケガもない。泣くのは朝だけであとはケロッとしている。人懐っこくて友達も多いし先生の中でも甘えたでかわいいと言われている。でも、やっぱりあの髪と泣き声は異様だと思う。
という経緯があって、私は今朝の早朝保育をいつもとは違う緊張感を持って臨んでいた。昨日までは通常保育だけの担当だったからほとんどの親御さんには会えていない。もちろんあの子のパパにもママにも会ったことがない。あの子の親が「子どもにはよくない親」だったらそれ相応の対応をしようと思っている。私はエプロンの大きなポケットの中で拳を握った。
私の顔が強ばっていたからか、緊張をほぐそうと主任の先生が話しかけてくれた。この先生は経験豊かで新米の私にもよくしてくれる。
「まぁ忙しいけどあなたならすぐに慣れると思うわよ」
私が緊張しているのは初の早朝保育のせいではないのだが、まさか虐待が疑われる親への対応で緊張しているとは思ってもいない風だ。虐待をする親へは初動を間違えたら子供にも危害が及ぶ可能性がある。学校でもその点は口酸っぱく指導された。
「あの……私……あの子のお家危ないと思うんです……」
私は勇気を出して言ってみた。同じ考えならいざという時に助けてもらえる。ベテランならこういう修羅場も経験しているだろうし、もしかしたら今は親御さんの様子を園全体で見定めている期間なのかもしれない。
「え?あの子?……ああ、善くんのお家?」
私があの子の机に貼られた名前付きのスズメのマークを指さしたことで誰のことか気づいたらしい。
「髪とか泣き方とか……虐待ってことは……」
言いかけだったが、ベテラン先生は全てを察してくれた。これで安泰だと思ったのも束の間、ベテラン先生はふくよかなお腹をよじって大笑いを始めた。笑いが止まらなくて、深くなった目尻に涙がしみこんでいる。
「今日が早朝保育初めてだったわよね?あなたのその見方、180度変わるわよ」
予言めいた一言にぽかんとしていると7時半のオルゴールチャイムが鳴った。開門だ。門が開くと同時に何組かの親子が入ってきて、中にはダッシュで教室に駆け込む親子もいる。「おはよぉございまぁす」と子供たちの声が響く。
一団の後ろの方に金色の髪が見えて来た。私が一番気にかけている親子だとすぐにピンときた。
長い黒髪にオフィスカジュアルのママさんとびしっとスーツを着たパパさん。確かにたんぽぽみたいな髪のパパだ。抱っこ紐にこれまたよく似た髪色のあの子を抱えている。
「ごめんね、荷物重くない?わたし持とうか?」
「大丈夫だよ~禰豆子ちゃんが荷物持ったら手繋げなくなっちゃうし♡」
二人の間を見れば確かに手を繋いで歩いている。
「毎朝、ありがとうね。スーツ、シワ大丈夫かなぁ?」
「スーツなら買えばいいし」
深みのあるチャコールグレーのスーツには抱っこ紐以外には変なシワがない。体に沿ってるところを見るとオーダーかセミオーダーに見える。バイトで何着も見てきたから間違いない。顔も引き締まっていていかにも仕事ができそうなパパさんだ。奥さんも子供も大事にしていてイクメンの手本みたいだ。
「そう?」と答えたママさんの方だって、保育園にいるから一児の母だとわかるが、駅で見かけたらキレイなお姉さんだ。朝から前髪を編み込んでいるし、肌もツヤツヤしている。理想の夫婦として取り上げられそうなほど絵になっている。大体、パパの方が抱っこしているだけでもポイントが高い。
朝から手を繋いでるなんてもう推し活でいうところの「てぇてぇ(尊い)」だ。
二人揃って靴を脱ぐと、パパは子供を抱っこ紐から出す体勢に入り、その隙にママがタオルやオムツ用のビニールを定位置に整えていっている。パパは子を下ろすと、慣れた手つきで靴下を脱がせ、入り口近くの靴下用ウォールポケットに入れた。そして、我が子の名前の書かれた引き出しを開くと
「明日、オムツ足した方がいいかも。俺、忘れてたら言ってくれる?」
「オッケー」
連係もバッチリだ。お見送りのために今度は私が子供を抱っこする。パパもママもニコニコ、私もニコニコ。いい時間だなと思う。
「あ、先生!ウチの子がちょっと前から『おー!おー!』って歌うんですけど、なんて曲かわかります?ネットで調べたいんですけど全然わかんなくて……」
パパが歌ってくれたのだが、そんな歌詞の歌があったかすぐに思い出せない。そもそもこの数日の間このクラスで何を歌っているかさえもパニックからド忘れしてしまった。
「『バスにのって』かもー?バスにのってゆられてる〜♫」
奥でお昼寝布団を整理している主任が口ずさむ。
「おっー!おー!」
腕の中の子も、ブロックで遊んでる子も、同じ合いの手を入れた。この曲は子供たちも大好きな歌で一日に何度も歌っている。「GO!GO!」が「おー!おー!」になっていてすぐに気づかなかった。
「あー!それです!それ!」
「わ〜よかった。これで一緒に歌えます」
謎が解けてご夫婦ともに笑顔いっぱいだ。お家で歌っているのも、なんて曲なのかを探してるのも、一緒に歌おうとしてくれてることも、全部グッときてしまって私は言葉を失った。こんなに大切に育てられている子が虐待されてるなんて思えない。
「じゃあ、パパとママ行ってくるからな」
目線を合わせて「たっちー」と手のひらを息子に向ける。我が子と手のひら同士を合わせると、親子揃って白い歯を見せてニカっと笑った。
「じゃあお願いしますー」
夫婦揃って私たち保育士にお辞儀すると、足早に保育園を後にしていった。門を閉じたところからまた手を繋いでいるのがここからも見えた。パパさんの大きなスマホの画面には動画サイトのトップページらしきものが見える。出勤中に『バスにのって』を探すのだろう。パパさんがママさんに何かを耳打ちして、二人で笑っている。見てるこっちまで幸せになる。
――180度変わるわよ
ベテラン先生の言った通りで私は呆気に取られていた。「いってらっしゃい」をちゃんと言ったかさえ定かじゃない。予想外の景色の連続だった。ガテン系のヤンチャした金髪パパとヤンキーなママを想像していたし、まさか夫婦で現れるとは思わなかったし、子供も荷物もパパが担当しているなんて思いもよらなかった。それも今日だけ取ってつけたような様子がひとつもなかった。保育バッグの中身も引き出しも把握していたし、抱っこ紐を外すのも流れるような動きだった。そして極め付けは子供が好きな歌探し。子供との時間を大切にしているのが伝わってきた。
「全然ちがったでしよ?あのお家はいつもああなの。ここ何日かはパパが出張でいなくてそれで朝泣いちゃったけどね。ほら、今日は大丈夫でしょ?」
見ればあの子はお友達とブロックを並べて遊んでいる。
「あんなご夫婦もあるんですね……スゴイ子煩悩。都市伝説かと思ってました」
「あなた面白いこと言うのねぇ〜。我妻さんのところはパパさんがママさんのこと大好きなのよ〜。子供全般が好きというよりは奥さんが好きで、その子だから我が子も大好きっていうタイプね」
なんだかわかる気がした。朝からあんなにラブラブな夫婦見たことがない。子供との時間も大切にして、二人での出勤も楽しんでいた。少女マンガもビックリなイクメンパパさんときれいなママさんだった。
「あのパパさん、食事も作ってくれそうだし、着替えとかも手伝ってそうですね」
「あらっ、あなたするどいわねぇ〜ほんとにそうみたいよ」
主任先生の言葉で奥さんの髪型を思い出した。抱っこ紐をするなら髪を下ろせない。肩紐に引っかかるし、子供の目に刺さる。朝から編み込みなんて手の込んだヘアスタイルをするには時間も余裕も必要だ。家の中で子供の世話を一気に引き受けてるパパさんが思い浮かぶ。うん、あのパパならやってくれそうだ。
「あ、あとね、あの髪色は遺伝よ。なんでもパパさんが昔雷に打たれたとか」
「それ本気で言ってます??」
「奥さんに初めて会った時も雷が落ちたって」
「主任、真に受けすぎじゃないですか?」
「あらやだ、手厳しい。そんなに言うなら、あなたから確かめてちょうだいよ。私、あの夫婦のファンすぎて話しかけられないのよ。まぶしすぎて。さっきみたいなのが精一杯」
主任先生は話しながらも手は止めない。イスまで並べ終えると私にテーブルを拭くのを促した。濡れぶきんで拭きながら、私はあの子のパパとママを思い出していた。きっと帰ってからも家事と育児をうまく分担して、こんな風にテーブルを拭いているのだろう。明日の朝には『バスにのって』を完コピしている気がする。家族で歌いながら登園する姿が思い浮かんで、私はふふっと笑ってしまった。
この一件で、私に初めての『推し』ができた。『我妻夫妻&ファミリー』だ。もちろん仕事は仕事としてキッチリこなすけれども、推しのおかげで私の生活は潤いに満ちたものになるはずだ。
さぁ、今日も一日がんばろう!