「あふ……」
目をゆるゆると開いて連動するように出てきた欠伸をかみ殺す。窓から日が差し込んでいて朝だと理解した。少し窮屈なのは昨日一緒にベッドに入った大きな猫ちゃんのせいだろうと振り返ると人型の大きな猫ちゃんがいた。
厄災との戦いが終わった後、なぜか帰れなかった晶は中央の国で喫茶店を開き、その2階に住居を構えている。あのころ悩まされた「傷」も皆徐々に癒えているはずだ。ところが、この大きな猫ちゃん、ミスラは賢者ではなくなった晶の住居や職場によく顔を出した。というかほぼいる。
あの頃と同じように手を握って、でもあの頃では考えられない速やかな入眠。抱き枕のように癖になってしまっているのだろうか。
ベッドを降りて、魔法舎ほど上等ではないフローリングに置いたルームシューズを履いて、洗面台へ。寝ぐせではねた髪を撫でつけて軽く梳く。
1階の喫茶スペースとは屋内階段でつながっているのでそのままぱたりぱたりと下へ降りる。冷蔵庫をあけて、カフェメニューでは出番のないおおぶりのベーコンを4枚と卵をとりだす。パンをトースターに入れている間にコンロの上でフライパンにベーコンを放り込んで、卵を割り入れた。これは晶が元の世界でみた映画に出てきたのと量は違えどそっくりな朝食で、実はこのメニューを作れる日を楽しみにしていたのは内緒である。なぜかミスラは晶のもとの世界の話を嫌がるから。
ほどなくして焼きあがったものを2枚の皿に分ける。片方はベーコン3枚だ。パンも焼けた音がしたのを聞き届けながら階段をまた上がる。
ベッドで掛布を抱え込んでぴったりと瞼を閉じる端正な顔を覗き込んだ。晶は知っている。ミスラが本当に寝ているときは、ここまでぴったり瞼を閉じていないことを。気づいてないふりをしてベッドに腰掛けて肩をゆする。
「ミスラ。おはようございます、ご飯ですよ」
「……」
「ベーコン、おいしいって言ってたから今日はミスラ用に3枚も焼いたんですよ」
少し心惹かれたのか瞼を開けた。きょろ、と常盤色の目玉だけ動いて晶を見上げる。
「ね、ミスラ」
「……今日、俺の用事に付き合ってくれるなら、起きてもいいですよ」
形のいい唇をむい、と突き出して幼児のような、遠回りというには近すぎるおねだりをされる。晶は少し考えるように視線を下ろして、お昼前までならいいですよ、と返した。思わず浮いてしまったような上機嫌な声でしょうがないですね、と言われ、ミスラがあっという間にベッドから降りた。その時は寝間着だったのだが、次に振り返るといつもの黒いシャツを着て濃紺のパンツを履いていた。
晶は店の開店時刻を少し遅らせる旨のプラカードをドアと、ドアに続く階段の入り口に下げ、ミスラと並んで歩く。今日は空間移動魔法を使わないらしく、ミスラは普段は広い歩幅を調節しながら歩いてくれる。
「どこに行くんですか?」
「べつにどこでもいいでしょう」
「まあいいんですけど……」
店のある街中を少し歩いて、飲食店が並ぶ通りを行く。他愛ない話をしながらミスラがきょろきょろとあたりを見回す。そして片手で食べられる焼き菓子屋の前で止まって、これ2つください、と勝手に注文していた。晶が慌てて財布を出す。
食べ物が入った袋を持ったミスラはくるりと踵を返し、ずんずんと街の中心から遠ざかるように歩を進めた。のこのこついていく晶は少しミスラの考えていることが分かってきていた。この先は散策ができるように簡単に舗装された道があるのみの雑木林がある。
雑木林の道なぞそもそもないかのような踏み外しっぷりで、林の中に入っていく。ひときわ大きな木とその木を避けるように拓けた芝生。木に寄りかかるようにミスラが座り、晶もそれに倣って右隣に座った。
「はい」
「えッ、いいんですか? 2つともミスラが食べるんだと思ってました」
「いらないならいいですけど」
「食べます食べます」
そもそも晶の支払いである。カステラにも似た焼き菓子を二人で頬張って、ぽつぽつと話をしたりしなかったり。食べ終えたミスラはさも当然のようにそのまま体を横たえて、晶の足の上に赤い頭を乗せた。晶も手慣れたようにふわふわとおでこから前髪をかき上げたり、戯れ程度に片手で頭皮をマッサージしたりなどしてみる。リラックスした猫のようにうっとりと瞼を半分下したミスラを見て、思わず晶は笑みを深めた。
「ミスラの用事って、これですか?」
「そうですよ。最近あなた、店にかまけてばかりなので」
「だってお店って基本的に毎日続けてやるものじゃないですか。ネロもそうだったって言ってましたし」
ゆるゆるとしていた常盤色の目が急に剣呑な光を帯びる。ご機嫌を損ねたらしい。
「ネロがあなたのなんなんです。俺がそう思ったのに」
実を言えばミスラとて、晶の何かという肩書はないのだが、そう言い放ってしまえない程度に晶の情は深く根差してしまっていた。晶は苦く笑って、ミスラの剣呑な目を右手でそっと覆った。
「すみません、ミスラ。こういう風にミスラと出掛けるのも楽しくて好きですけど、ちゃんとお店はやりたいです。ミスラが寂しい……変な気分になるならその時は優先します。それじゃだめですか?」
目を覆った掌がくすぐったい。どうやら瞬きをしているようだ。密度の濃い赤いまつ毛が思い起こされる。
「しょうがない人ですね。許してやります。生き物の中では俺を最優先にしてくださいよ」
「ふふ、そうですね。わかりました」
目を覆われたままのミスラが体を起こして、顔を晶に寄せた。
ちゅ、と軽い水音がしたのと、自身の唇が何かに触れているのを知覚して晶はようやくキスされたことを知った。感覚が離れて今更のように、ミスラの目を覆ったままの手をそろりと外すと色の濃い緑の瞳が現れ、じっと晶を見る。剣吞な色はもうない。ぶわ、と顔が熱くなった。当のミスラはなんでもないようにすらりと立ち上がって空間の扉を出している。
「北へ行ってきます。2,3日は戻らないです」
「え、あ……はい。いってらっしゃい、ミスラ」
「では」
扉を開いて、ミスラがくぐって、閉じる。さらさらと下から消えていく扉を呆然と晶は見ていた。
「あ、お店開けないと……」
ミスラが戻るまでの数日間、このキスを何度も思い返して頬を熱くしたことは意地でも内緒にしたい晶だった。