ぱかりと瞼が開く。暖かい布団が心地良い。まだ朝は肌寒い季節、もそもそと潜り込んだ。右手に温もりを感じてそちらに視線をやる。白い透き通るような肌の美青年がこちらを向いてすやすやと眠っている。癖のある髪が寝癖でさらにぴょこんと跳ねている。それにふふと少し息が漏れた。吐息を感じてか、ごろりとミスラが寝返りをうって仰向けになる。眠ったままのようだが、ミスラの自由な右手がざり、と前髪をかきあげた。
その時不意に、晶の腰がくん、と後ろに引かれる。そちらは誰もいないはずで、さらに言うなら腰に腕が回っている。つまり、背後に誰かがいる。
ぞぞ、と背筋が粟立つ。悲鳴を上げるか悩んだ。これでムルであったりなどしたらただのお騒がせでしかない。尤もムルの場合はミスラが気が付かないはずはないのだが。そう、ミスラが気が付かずにすやすやと眠っているということは恐ろしいことの可能性もあるのだ。不用意に声をあげるのは良くないかもしれない。逡巡のすえ、そろりと首を動かす。
振り仰いだその先には、赤い髪の透き通るような白い肌の男が、やはりすやすやと寝息を立てていた。
「え……」
思わず漏らした声に背後の、ミスラに瓜二つの男がもぞりと身を捩って晶の髪にその頬を擦り寄せた。獣が懐くような仕草だ。その瞬間、注意を払っていなかった晶の右手がぎゅうと締まる。潰れるかと思った。
「誰ですかその男」
地を這うような声が晶の部屋にじんわりと落ちた。
「おはようございます」
晶の背後で恐ろしい形相をしているであろうミスラの方を振り返れないままに、ベッド下に座らされた男を見る。胡座をかいて、緊張した様子はない。男は背後のミスラと瓜二つの顔をし、声も実にそっくりであった。ぽりぽりと退屈そうに首の後ろを掻いている。黒いインナーに、晶には馴染みのある着物風の服を着て、何よりも目につくのはその赤い髪から映える、枝のような。
「角……?」
ミスラ似の男は首を傾げた。
「どう見たって角でしょう。変だな、竜に会ったことあるでしょう」
「竜……!!!?」
「オズに乗ったの、あなたでしょう?」
オズに……? 晶が首を傾げた時頭を誰かに掴まれる。誰に。そんなの考えるまでもなかった。
「誰が、誰に、乗ったんです?」
引き続きミスラの声が地を這っている。この場での対話は疑問しか生まないことがわかった。不毛だ。怖いから手を離してほしい。
なんとか引き摺るように移動してきた食堂にて。皆の力を借りながらも角の男に聞いたことによると。
目の前のミスラ似の男は、その名もまさにミスラで異世界から来たようだった。晶が少し前にみた薄く残る夢の記憶にもある、大きな桜の咲く妖怪の住む世界から来たらしい。同じ種族であり、最強のオズが世話を焼いた生き物というのが気になって、気配を追ってきたという。信じがたい話ではあったが、飲み込まざるを得なかった。
「パラレルワールド、つまり並行世界ということだね」
ムルが竜のミスラからひらりと落ちた花びらを拾いながら言う。晶にとって実に懐かしいその花びらは桜のものに違いなくて、じいと覗き込んだ。
「ムル、その花びらって」
「俺は知らない花だね。賢者様知ってる?」
にんまりと心得たようにムルが笑う。晶は懐かしくて、ちょっと泣きそうになって頷いた。
それをよそにとりあえず朝食を供された竜のミスラは不思議そうにその食事を見下ろしている。ふかふかのパンと、スクランブルエッグと、厚切りのベーコンと、サラダ。正面に据えられたこちらのミスラはすでに食べ終わっていた。
「……初めて見る食い物ですね」
「あ、そうですよね」
魔法使いたちが遠巻きに見る中、晶が竜のミスラの隣に腰掛ける。晶はパンを手に取って、ちぎる。
「これはこうやって食べて」
「へえ」
それを見たミスラが手を伸ばしてスクランブルエッグを摘む。でろりと下に落ちてミスラが顔を顰めた。
「あ、それはスプーンを使ったほうが……」
「面倒ですね、この草は? 飾りですか?」
「それはフォークが良いかもしれないです」
これとこれと示しながら晶が伝える。ぎゅ、とミスラの眉間に皺が寄って訝しげに晶の手元を見た。
「持ち替えるんですか? 面倒ですね。箸はないんです?」
「……」
しばし硬直したように晶が竜のミスラを見つめる。はく、と口を動かしてガタンと席を立った。周りの様子を見ていた魔法使いも俄かにざわめく。
「箸!!!!」
「? はい、箸。ないんですか、ここ」
「ないんですよぉお……あの、もしかして竜のミスラ、箸使えるんですか?」
「馬鹿にしてます? 普通使えるでしょう」
先ほど手で食べていた癖、さも当然のようにミスラがいう。晶は感極まったように天を仰いだ。はたと気がついたように視線を戻す。
「もしかして、おにぎりご存知ですか?」
「握り飯ですか? 別に、知ってますけど」
「本当ですか!? じゃあお昼に握って良いですか?」
「はあ、構いませんけど」
「具は何が良いですか? といってもあまりリクエストに答えられないかもしれないですけど……」
「賢者様」
わくわくと明らかに浮き足だった晶を咎めるように、とげのある声が呼び止める。正面から不服を描いたような表情のミスラが晶を睨んでいた。
「なんです、そんな得体の知れないやつに親切にして」
「得体の知れないって……でも、理由もなく冷たくはできないです。どうせ食べるなら馴染みのあるもののほうがいいでしょうし」
「へえ。なら俺だって馴染みのあるものが食いたいです。消し炭、作ってください」
「わかりました。お昼に作りますね」
「今がいいです」
「今ですか!? い、良いですけど」
困惑を隠しきれない晶がミスラを見上げた。返事を聞いたミスラが晶の腕を乱雑につかむ。引きずられるようにして晶がキッチンに連行された。残された竜のミスラはそれを見やって、息を一つ吐いて、拙いフォーク遣いで食事を再開した。
「ここが談話室、あっちがさっきいた食堂です。ここから隣の棟に行くと私たちの部屋があって……」
「あなたの部屋は?」
「二階です」
「ふうん」
晶を辿ってきたためか、竜のミスラは基本的に晶のそばにいた。親鳥についてまわる雛のようであり、少しの微笑ましさが見えるような、そんな距離。いつまでいられるのか、どうやって帰るのか、それは本人もわからないらしく、さあ、の一言で片付けられた。
「腹が減りました。握り飯作ってくれるんでしょう、食べたいです」
「そうですね、ちょっと早いですけどお昼にしましょうか」
「さっきの、森で食べます」
顎でくい、と中庭を示す。晶もにこりと受けて頷いた。
キッチンへ向かい、炊いておいた米の入った蒸し器の蓋を開ける。ふわりと独特の香りがして、知らず二人揃って深く吸い込んだ。安堵したようにはあ、と吐き出す。
「炊き立てのお米はいい匂いですよね」
「まあわかりますよ。ほら早く」
急かすように竜のミスラが晶の背を押す。晶も強く頷いて手を水につけた。
木の葉の隙間から日が差し込む中、木の幹を背にして並んで座る。日がちらちらと差し込む竜のミスラの肌はこちらのミスラと相違なく白く透き通るようだった。晶の持つ包みを受け取って、広げる。
「あなた、案外不器用なんですね」
竜のミスラが形が少し歪なおにぎりをおかしそうに見つめる。はぐ、と意外にも大きく開く口で半分以上食べていた。その歯列にこちらのミスラにはない牙のようなものが見えて思わずじっと見てしまう。
「なんですか? こちらをじっとみて」
「あ、すみません……。ちょっと、牙が珍しくて」
「竜ですからね」
はぐはぐとおにぎりを食べ尽くす。見上げた先の首に縫い目がないことに気がつく。思わずそちらもじっとみた。
「今度はなんですか?」
「あ、いえ。なんでもないです」
慌てて手元の自分のおにぎりをみた。急いで作ったため具材はない、白い断面だ。木漏れ日がちらちらと反射して輝いている。その時、にゅ、と手が伸びてきた。その手首に縫い目が見えて、あ、と晶がそちらを見ると同時、おにぎりが抜き去られた。竜のミスラと反対側だ。
「ミスラ!」
「味しないですね、これ」
「ご、ごめんなさい」
もしゃりもしゃりと晶のおにぎりが咀嚼される。二口で食べられた後にミスラが指をぺろりとなめとった。そうしてじとりと晶を見下ろした。
「賢者様、寝ますよ」
「え? 今ですか? 朝まで寝てたのに」
「良いからほら」
ミスラが焦れたように晶の手首を掴む。引きずられるようにして晶の体が持ち上がった時に背後から晶の腹に腕が巻き付いた。こちらの手首に縫い目がない。ぐ、と下に引き寄せられる。
「へえ、こっちの俺は一人で眠ることもできないんですか? 幼児なんです?」
煽る、というよりは純粋に不思議そうな言い方だった。晶がそちらに視線をやると、気に入りの玩具を取られそうな不服が顕れた顔の竜のミスラが晶越しに向こう側を見ていた。その視線を辿って腕を引くこちらのミスラを見上げればまたこちらも似たような顔をしていた。むい、と口を尖らせて不服そうである。
「ちょっと、離してください。図々しいな」
「図々しいのはあなたでしょう。俺が先にこの人といたのに」
「ただ握り飯食べてただけでしょう。一人でも食べられるじゃないですか」
「別に二人で食べてたっていいでしょう。同じもの食べてるんですし。一人で寝られない方がよほどどうかと思いますけど」
「はぁ? 俺だって好きでこの人を連れてくわけじゃありませんけど」
しん、と不自然なほどに静まり返る。ざああと葉が擦れる音だけが三人の間に響いた。
口論をどう収めるかオロオロしていた晶の脳内が白くなった。何を言っていいかわからなくて、手首を自分の方へ引いた。握っていたこちらのミスラがはたと気がついたように、また力を込めて引こうとした時、ぱしんと乾いた音がした。
「あ……」
「……あなた」
手を大きく振り払った晶本人が驚いたような顔をしていた。ぎゅ、と眉根を寄せて払った手を抱き込んで、ミスラからそっと目を逸らした。
その様をみたミスラもまた不愉快を露わにする。ふわりと箒もなしに宙へ浮いた。
「あなたがその気なら良いですよ。もうあなたの手なんか借りません」
傍らに魔道具を浮かせて一つ、呪文を唱えた。一抱えほどの火球が幾つか現れて晶たち目掛けてそれが降り下される。火球の熱をすぐそばに感じて熱くて仕様がないのに鳥肌が止まらない。これは死んだ、とすんなり受け入れかけた時だった。
晶の腰を抱いたままの竜のミスラが手を空に向かってかざす。平に水が吸い寄せられるように集まった。水鉄砲のようにこちらのミスラ飛ばした火球を迎え撃つ。あらかた迎え撃ったところで本体へも攻撃が飛ばされ、それをミスラが呪文一つで凍らせてまた飛ばしてくる。そうして飛んできた氷を竜のミスラは水に戻して地面に落とした。
そうして湯気が満ちた頃に、どちらも明らかに本気ではない攻撃は止まった。
蒸気のなかから晶が見上げた魔法使いのミスラは意外そうでもなく、つまらなそうな顔をして口を曲げていた。防がれるのをわかっていたように。
「俺の肩を持つといったくせに」
ちいさな声でそう呟いてミスラは姿を消した。魔法舎で暮らし始めた頃、誰かと揉めたときはミスラの肩を持つと言ったのは晶だった。今回それを違えたことになるだろうか。その真偽の程はわからないが、ミスラを傷つけたらしいことは、確かだった。
竜のミスラが何も言わないままに手のひらを返すと浮いたままだった水球が下に落ちる。晶にも少し水がかかる。興味なさそうに踵を返して魔法舎の方へ歩き出した。残り香のように後ろ姿からひらりひらりと桜の花弁が舞い落ちていく。
「あ、桜が……」
「妖術を使うと出ます。竜は大桜から妖力を分けられているので。まあ、桜なんてなくても俺は強いですが」
少し先を歩くミスラが振り返って言う。本当に、こちらのミスラと同じ顔だ。
それから数日、日常に少し非日常を混ぜた日々が続いた。任務はいつも通り忙しない。竜のミスラは、晶が魔法舎を空けるときはついて行ったり、行かなかったり本人次第。行かないときは魔法舎で適当に過ごしているようだった。
「あ、おかえりなさい賢者様」
「ただいま戻りました。あの、ミスラは?」
食堂にいたミチルとリケに尋ねる。二人は同時に答えた。ミチル曰く。
「さっきまで食堂にいたんですけど、ちょっと前に飛んでいってしまって」
リケ曰く。
「お風呂に入るといっていました。大浴場ではないでしょうか」
同時に二人のミスラの情報をそれぞれ話した。竜のミスラは和風の世界観の場所から来ただけあって、風呂が好きなようだった。こちらのミスラは晶を避けている。顔を合わせるのもここ数日ほとんどなく、合わせてもすぐに向こうが立ち去ってしまう。傷つけてしまったこちらのミスラに謝りたいと思っても、中々近寄らせてももらえなかった。
階段をあがって大浴場へ向かう。ちょうど向かい側からブラッドリーが階段を降りてきた。晶を見つけて深々とため息をついた。
「おい賢者。あいつ早くなんとかしろよ。ゆっくり風呂にも入れねえだろうが」
「え、ご、ごめんなさい」
言うだけ言ってブラッドリーは階段を降りて行った。しっかり改善策を求めているというよりは愚痴をこぼしただけといった有様だ。事実晶に竜のミスラをどうこうということはできない。本人も帰る気があるのかないのか、判然としない。
大浴場の出入り口が見える頃、その扉から一人、出てくるのが見えた。赤い濡れた髪がぺたりと首筋に張り付いているのが見える。
「あ、ミス……ラ」
声をかけた瞬間に、その髪が張り付いた首に縫い目があることに気がついた。こちらのミスラだ。ミチルとリケに話を聞いた時に勘違いしたのだ。声をかけた晶のあからさまな驚愕と困惑を含んだトーンダウンに気がついたように、疎ましい色を含ませたミスラが晶をみた。実に数日ぶりに、視線を寄越す。
「へえ。ずいぶん珍しい人が声をかけてきましたね」
眠気もあるのだろう。嫌味を言うほどに機嫌が悪い。正直なところ、少し晶は怯んだ。
「あの、ミスラ」
「何です」
「ミスラを悲しませてしまって、ごめんなさい」
「悲しくなんかないです」
「あれは、肩を持たなかったわけじゃなくて……ちょっと、びっくりして」
「賢者様」
拗ねた様子だったミスラがじいと晶を見据えた。話を遮るような強い声に、晶も押し黙る。
「あなたあの男と俺とどっちが大事なんですか」
どこかのフィクションで聞いたようなセリフだ。感動し拍手をしそうな晶とそんな場合ではないとそれを御す晶が一瞬共存し、後者が勝った。その傍ら、ひんやりと思考が冷えるような心地がする。あのミスラに睨み据えられて、何かを言い返すなんて他の魔法使いが聞いた肝を冷やしそうだが、そこの部分に関しては冷静ではなかった。
「どっちのミスラも大事です。でも、ミスラは私のことはなんとも思ってないじゃないですか」
「は……はあああ? あなた、あんなに俺が面倒見てやったのに……。わかりましたもういいです」
ミスラの眉が不愉快に釣り上がる。き、と睨んでくる晶の視線を振り切るように一人で足を進めた。
「あなたなんか知らないです。金輪際話しかけないでください」
その夜、晶は落ち込んでいた。どう考えてもいらないことを言ってさらに傷つけた。普段であれば多少の面倒な卑屈さも可愛らしく思えただろう。何がそんなに平静を失わせたかといえば、やはり、ミスラに好かれているわけではないとはっきり言われたせいだ。そんなの、ミスラの勝手で、そのせいで晶がへそを曲げるのは門が違う。
「賢者様」
「ッ……あ、すみませんシャイロック。何か話してましたか?」
「さて。なんの話だったと思います?」
にっこりとカウンターの向こうで悪戯に白皙が笑う。上の空の晶の隣で、竜のミスラが琥珀色の液体を揺らしていた。酒があるなら飲みたいとの要望に応えてここにきている。
「気になってたんですけど、あなたケンジャサマなんですか?」
話の風向きを変えるように竜のミスラがのたりと切り出した。かくかくしかじか。魔法使いをまとめ導く役目を担った、異世界から召喚された存在。ナッツ類をぽりぽり咀嚼しながら竜のミスラは首を傾げた。
「あなたも違う世界の人なんですか?」
「そう、ですね」
「なら。俺と一緒にあっち行きますか?」
「へ?」
「あなたといるの、悪くないですよ」
グラスを傾けて口端を少し上げたその顔が、とても魅力的に見える。それが恐ろしくて視線をカウンターから外して泳がせて、また戻した。
「私はここにいます。賢者の仕事を全うするまで」
「そうでしょうね」
特に落胆した風でもなくミスラがまたグラスを煽った。その真意を図りかねた晶が口を開きかけた時シャイロックが声を上げた。
「賢者様、明日の出発が早いと聞きましたよ」
「あ! そうでした」
「明日はどちらへ?」
「ええと、守り神のはずの魔物が暴れ狂う村へ。北の魔法使いたちと行ってきます」
ごおおおと耳が痛い度に吹雪が吹き荒れる。守護の魔法で寒さは大丈夫だが、それでいても過酷な環境だ。ブラッドリーの箒の後ろにお邪魔した晶が身を縮こませた。それからほどなくして前方から声がかかる。
「おら、着いたぜ」
ブラッドリーの肩越しに前方を覗き込む頃には吹雪も小降りになっていて、こじんまりとした集落が見えた。少し後ろを飛ぶオーエンを見ると面倒そうに視線を逸らされた。少し前の双子は二人で何か思い出を話し込んでいる。今日、ミスラは来ていない。
到着し、集落の長に挨拶をする。その後、てんやわんやで事情をなんとか聞いた。村の守り神として敬い、大事にしてきた魔獣が凶暴化し、村人を襲うという。何か原因かがあるに違いないからそれを探って欲しいとのことだった。くれぐれも。
「くれぐれも無闇に討伐しないで欲しいとのことです……」
「面倒くせえ……」
「帰っていい?」
「「こらー!」」
「本当、面倒ですね。この集落ごと燃やしたらどうです」
「まあ皆さんそう言わ……え?」
気だるげな声に連なって、今日欠席の魔法使いの声がした。首を痛めそうな勢いで晶が振り向くと、魔法使いの方ではなく、竜のミスラが悠然と立っていた。北の魔法使いたちの訝しむような警戒する猫のような視線を受けても、竜のミスラは素知らぬ顔だ。こちらのミスラの強さを認めているだけあって、竜のミスラへの当たりは決していいものではない。
隣に立っていたブラッドリーが警戒しながらも話しかけた。
「お前、どうやって来たんだよ」
「どうって。普通に飛んできましたけど」
「飛ぶって? 寒さも凌げないのに?」
「まあ、少し寒いくらいですよ。俺は水の妖怪なので雪とか氷ではなんともないです」
平然といつも通りに立っているので、嘘ではないのだろう。不眠ではないのに眠たそうなミスラの目が爛々と瞬いた。
「そんなことより、討伐はまだですか。いい加減退屈になってきました」
「まだちょっと待ってください……!」
さくさくさくと雪道をすすむ。幾分吹雪も和らいで少しだけ光もさしていた。村から三十分程歩いてみれば、なんだか物々しい雰囲気の洞窟の入り口に辿り着く。この奥が守り神の住処らしい。入り口に双子曰く北の国では豪勢な部類の供物が置いてあるのを踏み越えて中に入る。魔法で明るくした洞内は影が濃い。晶はオーエンの影を踏むような踏まないような距離で足を進めた。
「ふむ」
「どうしたんですか? スノウ」
「入った時から思っておったが、とても頻繁に村を襲うような気配ではないと思ってのう」
「それはどういう?」
首を傾げた晶の背後から、問いに答えるように気だるい声がした。
「弱ってます。死にそうなほどに」
それ以上の答えを誰も話すことのないまま最奥に辿り着く。少し広い空間になっているそこの真ん中に狼に似た魔獣が横たわっていた。一行に気がついた様子はあるものの、薄く開いた瞼から瞳をわずかに動かすのみで襲ってくる気配などはなかった。
「ほれ、オーエン。話を聞いてやってくれんか」
「話せるのかなこいつ」
オーエンが足を進めて顔を寄せた。それをみた竜のミスラが感心したように言う。
「へえ、あの人獣の言葉がわかるんですか?」
「そうなんですよ! 猫ちゃんのいうこともわかっちゃうんです」
「なら、俺の考えることもわかるんですか?」
「は? お前は獣じゃないだろ。ん……?」
「そんなことより、なんと言っておった」
魔獣のそばから戻ってきたオーエンが竜のミスラを見て怪訝そうに眉を顰めた。
その様子に気づかずか、気づいて流してか、ホワイトがせかした。
「途切れ途切れでよくわからない。ただ、『吸い取られてる』って」
「吸い取られる……?」
晶が首を傾げた時とほぼ同時、何やらいいようのない緊張感が走った。魔法使いたちの表情が少し硬いものになり、晶の背後にいた竜のミスラが洞窟の入り口に向かって歩きだした。晶も慌てて後を追う。
「ミスラ! どこへ」
「外に何かいますよ」
振り返った竜のミスラの表情は仄暗い陽の光を背負ってよく見えない。しかしその翡翠の瞳が爛爛と輝いているのが、よく見えた。
雪原の眩しさに目を閉じる。少しずつ瞼を開いて視界が慣れた頃、竜のミスラの白い着物の背中を見つけた。裾が粉雪と共に靡いている。
「み、ミスラ!」
「ほら、見てください。大物ですよ」
なんだか心なしか弾んだような声色のミスラが示す方を見る。オーエンとブラッドリーがマイペースに、でも魔道具は抱えて追いついてきた。そこには先ほど遭遇した守り神とされた魔獣と同じ姿の、でも大きさが五割り増しでずいぶんと大きい。
「なるほどな。面倒なやつに目をつけられたもんだ」
「ブラッドリー、これは一体……。さっきの魔獣と同じ、なんですか?」
「賢者様には同じに見えるの? いいね、お気楽で」
オーエンに鼻で笑われる。双子が箒で追いついてきた。
「厄介じゃ。あれは実体をもたぬ。あそこまで大きいのは初めて見た」
「他の魔獣の生気を吸い取って自分の姿とし、いずれ吸い切って糧とする」
「実体がない? でもあの姿は……」
「分が悪くなるとすぐに空気に融けて逃げる。一撃で仕留めるのが理想じゃが、まあいけるじゃろ」
からりとスノウが笑い、魔法使いたちは巨体の魔獣へ足を進めた。
四方八方から北の魔法使いたちが攻撃を行う。狼のような四足の獣の姿をしているが、攻勢を受け獣らしからぬ形に歪んだりしてる。
討伐を楽しみにしていた様子の竜のミスラは晶の背後に立ってその様を見ていた。そっと晶が振りあおぐと視線が合う。
「なんですか?」
「いえ、その、ここにいてくれるんですね……?」
「あなたを死なせるとおそらく戻れないので」
それは確かに十分考えうることだった。心の中でうなずきながら視線を前に戻す。もう大分四足の獣というには様子が違っている。
その時だった。魔獣から耳を塞ぎたくなるような耳障りな音が鳴る。咆哮だったらしいそれが地平に溶ける頃、巨体であったその体が、分裂した。数えるのも面倒なほどの数に分かれ、晶も魔法使いたちもしばし絶句する。それぞれが一ツ眼の四足の獣の様相を呈しており、普通の犬より少し大きいほどだ。それも各自が意思を持つように魔法使いたちをそれぞれ襲い始める。
「めんどくさ……」
オーエンが思わずこぼした。トランクを掲げてふわりと浮かせる、その白いコートの背が晶からはよく見えた。晶の視界にちらりと素早く動くものが写り込む。オーエンの背後を狙うその個体を認識するなり、晶は駆け出した。かけだして中途半端なところで止まる。理性と本能の間だ。
「オーエン! 後ろにいます!!」
「わかってるよそんなこと。邪魔だから後ろで震えて……」
疎ましげにオーエンが晶を振りかえる。オーエンには心配そうに自分を見る賢者と、突然駆け出した晶に驚いたような竜のミスラが見える。間抜け面だな、と少しおかしく思うその刹那だった。
大きな、先ほどまでオーエンたちが戦っていた大きな姿の魔獣がひと回りほど小さくなったもの。それが横から晶を食いちぎろうと飛びかかっている。このちらちら走っている小さいのが囮であったこと、狙いはどうしたことか賢者であったこと、電気が走るようにそれに気がついたオーエンが反射的にトランクを開く。そしてその瞬間、晶のすぐ後ろからよく響く声が雪原に落とされた。
「『アルシム』」
晶は訳もわからずその声を聞いた。
不相応にオーエンの心配をして思わず中途半端に数メートル駆け出し、呆れたように振り返ったオーエンの顔色が一瞬で変わる。え、と思う間もなく、晶の足元が翳って、見上げると大きな獣の姿の魔獣がいた。やばい、そう思った時だ。少なくとも、晶だけは安堵の象徴だと思っている呪文が聞こえる。背後から扉の開く音がしてぐ、と腰を引き寄せられ、その人の暖かい温度が背中に当たった。晶の視界に入るところに水晶の髑髏が見えた。
「『アルシム』」
また一つ呪文が唱えられて、見てるだけで黒焦げになってしまいそうな熱が雪原に落とされる。
「ミスラ!!」
「話しかけないでくださいと言ったでしょう」
そう言いながらも腰に回った腕は弛む気配がない。むしろ抱き寄せるようにきつく締まった。
晶を襲った大きな個体はミスラの魔法を受けて姿を消し、いつの間にか細々と散っていた小さな個体も姿を消していた。ミスラが顎を上げて雪原を見ると同時にそこに元の大きさと同程度の、もはや四足ではないスライム状の何かが鎮座していた。
晶を抱えたままのミスラが背後にいた竜のミスラを振り返る。口をへの字に曲げて居心地悪そうな佇まいだ。
「この人のこと、大人しいと思ってたでしょう」
ミスラは同情の色が濃いため息を吐いて、そういった。程なくして一斉に魔法使いたちの攻勢が強まり、雪原は見るも無惨なことになった。
「あの魔獣を倒したらすぐに守り神も元気になって良かったですね」
晴れやかな顔で晶がいう。無事に任務完了だった。帰路につくに当たって双子がミスラに空間転移の扉を頼んだが、「気分ではないです」と一蹴され、これから箒で北の国のエレベーターに向かうところだ。
「えーっと……」
晶はおろおろと周りを見た。往路がブラッドリーの箒だったため、復路は違う魔法使いに頼もうかと思うが、双子かオーエンかミスラ。なんとなし北の双子とはいえ、子供の箒に乗せてもらうのが抵抗があり、ここ数日のこともあって、晶はそっとオーエンを見た。ちょうど視線がかちりと合う。
「あの、オーエン」
「嫌だ」
すっぱりと言われて、落ち込んだ。続いて、ミスラを見る。
「……ミスラ」
「なんです。泣いて頼むなら聞いてやりますよ」
「お前ら……」
あまり大人気ない千歳越え達に呆れたブラッドリーが声を上げようとした時だ。竜のミスラが声をあげる。
「俺の背に乗りますか?」
「い、いいんですか!?」
はい、と軽く返事をした竜のミスラは、着物の一枚でも脱ぐような気安さで尾が生えて、体が徐々に伸びていく。程なくして、赤い鱗の長い竜体を見せる。晶の記憶に薄ら残る長い竜の姿だ。晶が安堵し近寄って、いたわるように鱗を撫でる一方、ミスラは惚けたようにその姿を見ていた。ぱちぱちと目を瞬かせている。
「わ、ミスラは赤い鱗なんですね」
「やっぱり獣だったんだ」
「ちょっと……は? 聞いてないですけど。それが本来の姿なんです?」
「聞いてない……? 竜だって、言ってましたよ……?」
「リュウって、これなんですか?」
信じられないとばかりにミスラは晶を見る。竜といえば、こちらでいうところのドラゴンに近いものに晶は自動的に分類するが、こちらで『竜』という言い回しを聞かない。つまりは、ミスラは『竜』が何かわかっていなかったのだ。
晶が合点したすぐそばでミスラは瞳を爛々と輝かせて鱗の体を見上げていた。
「俺も乗りたいです」
そう言い出すのに時間はかからなかった。竜のミスラはやや渋ったが憧れの視線が心地よかったのかこちらも程なく了承した。
北の国の凍てつくような風を切って竜が泳ぐ。黄昏時の空に赤い体が馴染んだ。沈みゆく太陽と反対側の空が紺に染まり始めて星がちらちらと見える。晶がその景色に感嘆を漏らせば、白い息が背後にたなびいた。魔法で寒さは感じないが、息が白くなると寒いような心地がして、ふるりと身体が震える。その振動が伝わったか、背後の気配がそろりと近寄った。暖かい。
「……話しかけてもいいですか?」
「……いいですよ」
「助けてくれて、ありがとうございました、ミスラ」
「ほんとですよ。もっと感謝してください。あなたが死なないでいられているのは、俺のおかげなんですから」
背後から伸びた縫い目のついた手首が、晶の手をひらりと捕まえる。同時、晶の首筋にすり、と赤い髪が懐いた。
「いいかげん眠いです」
「もう一週間くらですもんね……。帰ったら寝ましょうか」
「……眠れないのは腹が立ちます。あなたの手を借りないといけないのも嫌です」
ぽつりぽつりと今にも寝てしまいそうな声で、晶の肩に顔を埋めながらこぼしていく。晶は起こしてしまわないように握られた手をきゅ、と握り返して返事をする。
「でも」
すう、と息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。呼吸がゆっくりになっていく。
「あなたの匂いと体温で、ねむるの、すきですよ」
のっしりと晶の背に重さがかかる。手も暖くて、力が抜けている。眠ったらしい。晶は思わず頬を緩ませて、自身の手を掴む手首の縫い目をすりすりと撫ぜた。
それからさらに一週間ほど。二人のミスラが正面から小競り合いをするようになったころ、新月の夜に帰ると竜のミスラは言った。満月の夜にこちらに来たから戻るときは新月がいいと思うんですよね、のようなふわりとしている理屈で当日というあまりに突然その日は決まった。
この世界に来た時、入り口の代わりに晶の部屋の窓枠を通ったということで、晶の部屋に入った竜のミスラは窓枠に腰掛けてその時を待った。いつにも増してよく見える星を眺めている。
「竜のミスラ、ありがとうございました。あちらでも元気で」
「言われなくても。こっちはおぞましい世界でしたね。オズやフィガロやあの双子と同じ屋根の下で暮らしてるなんて」
「それは同感ですね」
魔法使いのミスラが心底うんざりといった様子でつぶやいた。晶は苦笑する。あちらでも仲が良くないらしかった。竜のミスラは外に向かって長い腕を伸ばした。手のひらから桜の花びらがひらりひらり舞い上がる。夜桜の花見ができそうなほどに花弁が落ちたころ、「いけますね」とただけ呟いたミスラが腕をおろし、晶を振り返った。
「晶」
「っ……はい」
まっすぐ翡翠の目に見つめられて思わず声が上擦る。未だに花弁が溢れかえる手のひらを上に向けてくいと指で晶を招いた。とたとたと素直に寄ると、晶の頭を抱き込んだ。袖の袂が揺れて、こちらのミスラとも違う香りがする。
ひそりと竜のミスラが顔を寄せて囁く。
「一緒に来ますか?」
意外な言葉に晶が弾かれるように顔を上げた。返事がわかっているようにわずかに口端を上げた竜のミスラが溢れる花弁を晶の手に握らせる。
「しょうがない人ですね。まあ、呼ばれたら来てやってもいいですよ」
「呼びませんけど」
晶の肘が強い力で引っ張られる。たたらを踏んで、もう一人のミスラの腕の中に収まる。脱臼するかと思った。魔法使いのミスラがじとりと竜のミスラを睨む。
「ほら。さっさと帰ってください」
「ああ、眠たいんですか? 幼児ですからね、あなた」
「いえ。眠くはないです」
いつになくきっぱりと言い切るミスラを晶が見上げる。続いて竜のミスラを見やると心底不可解そうな顔で首を傾げていた。
「ふうん」
それだけこぼして、窓枠に足をかけた。
「では帰ります。次に会うときは絶対の絶対に俺の背中で乳繰り合うのはやめてください」
な、と晶が顔に熱を集めて反論しようという時に花びらが舞い上がって窓枠が見えなくなる。まもなく無風になったように花びらが床にひらひらと落ちて、そしてそこには誰もいなかった。
木の葉の隙間から日が差し込む。晶は大きな木に寄りかかって、焼き鮭を埋め込んだおにぎりを頬張る。美味しい、と思わずこぼすと下からにゅと腕が伸びてきた。膝に横たわったミスラだ。
「あ! ダメですってミスラ! ミスラのはこっちです」
「はあ」
横の包みからおにぎりを一つ取り出して、ふらふらしている手のひらに握らせる。牛肉を砂糖と醤油で煮込んだものを具に詰め込んでいるものだ。
包みを剥いてはぐ、とミスラがかじる。一口で半分いった。ちらりと晶を見上げて。
「なかなかうまいですよ」
「本当ですか!? よかったです!」
木漏れ日を受けた晶が嬉しそうに微笑んだ。木漏れ日が髪触れて水面のように輝いた。おにぎりを咀嚼したミスラはその光を弾く髪を下からさらりと梳く。数回そうして、晶の後頭部を撫で上げる。熱を孕んだ視線が絡んで、そろりとどちらともなく顔を寄せる。
息が触れるほどの距離で、ひたりと止まって。
「あ」
晶はミスラの頬にご飯粒を見つけて、それを指で摘む。体を起こしてその境界線の上にあった一粒をぱくりと口に放り込んだ。