金魚 一二三さんが酔ったところを見たことがない。あのひとは、酔い知らずのうわばみだ。毎晩、水でも飲むかのようにすいすい酒を呑み、ボトルより客の財布が空になるほうが早いくらいだった。ナンバーワンともなると、それも技術のひとつとして身につけているものなのだろうか。だとしたら俺が一二三さんのようになれる日はあまりに遠い。いつだったか。カブキ町の酒を呑み尽くすつもりですかと冗談を言ったとき、あのひとは足りるものかと笑っていた。そういえばその話を同期にすると、あのひとはしょっちゅうなにか飲んでいるよと言っていたっけ。見かけるときはミネラルウォーターであることが多いから、はじめは酔い醒ましの水かと思っていたそうだ。でも、なんとなく見ているうちに、素面でも水は飲んでいるし、それが珈琲だったり紅茶だったりすることもあるのだと気づいたのだそうだ。ただ喉が渇いているにしては病的だ。どうしてそこまで。その瞬間、俺はカブキ町にはじめて足を踏み入れたときのことを思い出した。はちきれんばかりの欲望で肥えたこの町のうねりは、まるで巨大な生きもののようだった。俺も呑み込まれる。不安や緊張を凌駕する高揚感に誘われるまま眸に灼けつく光をたぐると、不意にざらりとしたものを撫でた。指先には、金色にかがよう花びらに似たものがついていた。この世のものとは思えなかった。あんなに美しいものは見たことがなかった。
そして真夜中を回遊する水棲生物の口のなかに飛び込んだときから、俺はずっとあのひとの虜だ。
*
時どき、海で眠る夢を見る。変な話だ。潮風のにおいを知らない。海鳥の声を知らない。広さを、深さを、優しさを、厳しさを。鱗に海の記憶がない。俺が生まれたのは、まあるい硝子の小さなお家だもん。だったら俺の眠っている場所はどこなんだろう。帰る海はない。硝子のお家もなくなった。水に呼ばれているんだろうか。それとも、おさまらない渇きに肉体の限界が近づいているんだろうか。もうずっと息が苦しい。溺れるという言葉の意味を、こうして俺は初めて知った。もはやこの身体には一滴の水分も残されていないと思っていたのに、むき出しの額にぽたりと汗が落ちた。ありがとうと愛してるの気持ちをこめて拭うようにくちづけると、独歩はひふみでいっぱいだと肩で息をしながら呟いた。かわいいやつ。頭も口もまわってないや。決して無理はさせたくないから、独歩の体調がよくて、ほしいと望まれたときだけその言葉が聞ける。あふれるくらい時間をかけた。いま、この薄い腹のなかは隙間がないほど満ちてる。ああ、いいな。うらやましい。俺もいっぱいになりたい。たくさん飲みたい。喉が渇いた。渇いたよ。喉が、身体が、鱗が、尾ひれが。どっぽ。たすけてどっぽ。気が付いたら、嚥下したものがゆっくりと喉を撫でていくところだった。そんなもの飲むなとか、吐き出せとか聞こえるけど、それどころじゃない。息が、できるんだ。渇きが消えた。どんなに水を飲んでも足りなかったのに、たったひとくちで満ち足りた。見つけた。俺の渇きを潤す、唯一のもの。俺は子どものように頭を撫でられながら目を閉じた。その日は、夢を見なかった。
(20211117 金魚)