遭難 潮風のにおいが、かき消されていく。
底の深い夜だった。いたいほど静まりかえった暗い住宅街が、隧道のようにどこまでも伸びている。振り返ると、ネオンの残滓が彼方に見えた。もう、二度と戻ることのできない場所だ。ふとそんな確信めいた予感がよぎって、一笑に付した。しかし実際、迷ってはいた。呑み屋を探してそぞろ歩いているうちに、気がついたら繁華街から外れてしまっていたのだ。それからどう歩いても、街の中心に戻ることができないでいる。スマートフォンは圏外だった。歩き続けるよりほかなかった。やがて、公園の前に差し掛かった。そこだけ妙に明るくて思わず足を踏み入れると、桜が満開になっていた。こっちでは、もう咲いているのか。左馬刻は、花明かりでぼんやり霞む公園を進んだ。
あなたも一杯どうですか。
麻天狼の、観音坂独歩だった。白くけぶる桜の下のベンチで、缶ビール片手にふにゃふにゃ笑っている。普段なら返事もしなかったろう。しかし、左馬刻は独歩の誘いに乗った。どこにも行けないよりはマシだった。
「溢してんなら溢したって言っとけやダボが」
隣に腰掛けると、ベンチが濡れていた。肌まで凍みるような冷たさだった。跳ね上がった左馬刻は思わず独歩の胸ぐらを掴んだが、「こわがっているのでやめてください」と言われて舌打ちしながら手を離した。仕方なくベンチの端に腰掛けて、プルタブの開いた缶と膨らんだコンビニの袋に目をやった。どうやら独歩が手にしたビールは二本目だったらしい。左馬刻は袋をまさぐった。缶ビール。サラミ。ナッツ。スナック菓子。マヨネーズ。・・・マヨネーズ?首を傾げて呷ったビールは生ぬるかった。一体この男はいつからここにいるのだろう。本当はもっと早く家に帰るつもりではなかったのだろうか。尋ねてみると、「いきとうごうしてしまったので」と締まりのない顔で笑った。言いすぎだ。一杯どうかという誘いに乗っただけだ。頭の中にまで花が咲いているのかと目を眇めると、独歩は「おびえているじゃないですか」と語気を強めた。とてもじゃないが、そういうふうには見えなかった。それから左馬刻はビールに口を付けるのも忘れて独歩の様子を眺めた。こちらのほうに身体を傾けてぽつぽつとしゃべっては笑っているが、どことなく目が合わない感じがするし、会話も噛み合わない。思えば、はじめからそうだった。だからふたりで呑んでいる気がしないのだ。ふと、濡れた座面にぽつんと置かれている空の缶ビールを手に取った。飲み口は、赤く色づいている。おそらくあれは、二本目ではなかったのだ。
もうひとり、いる。
面倒に巻き込まれるのはごめんだった。左馬刻はベンチから腰を上げた。しかし夕食の席で寂雷が言っていたことを思い出して、その場から動けなくなった。明日のシンジュクは、名残の雪が降るだろうと。このまま置いて帰れば、寝覚めの悪いことになりかねない。左馬刻は独歩のポケットから携帯電話をひったくった。発信ボタンを押すとすぐに、突き抜けるように明るい男の声が、酔いつぶれてうとうと船を漕ぎはじめた男の名前を呼んだ。
「五分以内に迎えに来ねぇとブッコロス」
それだけ伝えて電話を切ってようやく、圏外の文字が目に入った。もしかしたら迷い込んだ場所がおかしいのではなく、自分がおかしいのかもしれない。左馬刻は缶を握りつぶして呻いた。先程からずっと、桜が香ってやまない。梅は香りに桜は花というくらいだ。桜はほとんど香らない。それなのに、むせかえるような桜の香りで眩暈がする。堪えるように噛んだ唇から滲んだ血は味がしない。くらくらしてなにも考えられなくなる。白くけぶってなにも見えなくなる。頭の中に花が咲いているのは、自分の方だったのだ。
しかし次の瞬間、電話で聞いたばかりの声が響いて花が散った。
それは、たった一輪でありながら、満開の桜をしのぐほどうつくしい花だった。
五分と経たず、保護者がやって来たのだ。
「さまちん。独歩ちんの相手してくれてありがとね」
一二三は着ていたスプリングコートを独歩の肩に掛けた。ひと肌のぬくもりを宿したそれは、冷えきった身体をすぐにあたためてくれるだろう。そして未だに握っていた缶ビールをそっと取り上げると、わずかに残った中身を飲み干した。胡乱な夜ごと、白い喉が嚥下していく。左馬刻は目を細めた。こいつがいるから、きっとあの町はいつも星や月の光が及ばないほどまぶしいのだ。散らかったベンチの上を手際よく片付けていき、一二三は最後にマヨネーズを手に取った。おつかいできてえらいじゃん、いいこいいこ。心の底から愛おしむように呟くと、独歩の頭をやさしく撫でた。
「・・・つぅかよ、場所言ってなかっただろ。よく分かったな」
圏外だったことは、言わなかった。
「分かるよ」
ほほえんだ一二三は、さも当然であるかのようにそう言った。左馬刻を見据える琥珀色の眸は、花明かりを帯びて金色に照り映えている。聞かなければよかった。心がふるえたのは、そのうつくしさに胸を打たれたからではなかった。とりはだが立つほどの極致に立ったとき、うつくしいものは恐ろしいものと表裏一体になる。
こいつの不可侵領域だけは、決して侵してはならない。
「ほーら独歩ちん!おっきして!迎えに来たよ。俺っちとかえろーね」
しゃがんだ一二三は、独歩の冷えた両手を取った。握って揺さぶっても、独歩はむにゃむにゃ寝言を呟くばかりで起きる気配がない。まさか、こいつらいつもこうなのか。辟易した左馬刻は、苛立ちをビールの残りとともに流しこんだ。それからすぐだった。一二三はとつぜん細く短い悲鳴を上げると、独歩にしがみついた。
「・・・さ、さまちん。ふたりで、呑んでたんだよな」
左馬刻は濡れたベンチの座面を一瞥したが、ほかに誰がいんだよと吐き捨てた。
呂律のまわらない口で「ひふみがおせわになりまひた。おやすみなしゃい」と頭を下げた酔っぱらいは、今夜の出来事を明日にはすっかり忘れているだろう。先生、苦労してんだろうな。深いため息をつきながら、左馬刻は公園の出入り口に向かうふたりの背中を見つめた。ぽつりぽつりと街灯の灯る道をたどり、不夜城へ帰っていく。そこはもう、左馬刻のよく知るシンジュクだった。
誰とも分かちがたい夜は、ここに置いていく。しかし立ち上がるにはまだ早い。ふたりを追いかけるように、再び桜が強く香りはじめたのだ。面倒だが、知らぬふりをするわけにはいかない。あのふたりには、恩がある。
「待てよ。テメェは俺様にもう一杯付き合えや」
二度も地獄はごめんだろ。
(20220301 遭難/桜の木の下には)