成就 独歩が「にゃー」と鳴いた。
ふつうの猫として生きてきた時間より、ひととして生きてきた時間のほうが長い独歩は、とっくのむかしに鳴き方を忘れている。起き抜けでぼんやりしながら歯をみがいていたから気のせいだったのかもしれない。「おはよぉ独歩ちん」。足もとをうろうろしている独歩に話しかけると、洗面台のふちに飛び乗ってきた。「すーぐ落っこちるんだから、あんまりあぶないことすんなよ」。顔のまわりを撫でながら言い聞かせたけれど、ごろごろ喉を鳴らすばっかりで返事のひとつもしやしない。ほんとうに分かっているんだろうか。やがて俺の手から離れた独歩は、じっと蛇口を見つめた。まるでみずを欲しがっているようだった。でも。「独歩ちん。いっつも自分で出してるじゃん」。独歩はふつうの猫にあらず。ひとのすがたでいなくたって、蛇口くらい自分でひねるし歯だってみがける。はみがきしながら首をかしげた俺を、独歩がふりむいた。ちいさな満月の眸のなかで、俺はなぜだか不安そうな顔をしている。なんだろう。胸のなかでわだかまる、このたとえようのない違和感は。すっきりしない気持ちを洗い流したくて蛇口をひねると、すかさず独歩がみずにくちをつけた。その様子をなんとなくながめているときだった。夢中になって目測を誤ったせいだろうか。流水を直接浴びた独歩が、とても嫌そうに前足で顔をこすったのだ。
「・・・独歩ちん。なんかいつもより猫っぽくね?」
俺が話しかけると、独歩は「にゃー」と鳴いた。
翌朝、俺は独歩の「にゃー」という鳴き声で目を覚ました。時計を見ると、起きる予定だった時間をだいぶ過ぎていた。やっちまった。繁忙期でもないのに寝過ごすようなことがあるなんて。あわててベッドを抜け出した俺に、独歩は「にゃー」と鳴いた。見下ろすと、スウェットを咥えている。「・・・そうだよな。とりあえず着替えなくちゃ」。着替えた俺は台所へ向かった。そのうしろから、つかずはなれず独歩がついてくる。独歩はむかしからずっとそばにいてくれるけれど、今日はいつもとすこしちがっていた。見守られているというよりは、見張られているようで。そんなばかなことを考えて、すぐにかぶりを振った。
朝めしを作るまえに、俺は珈琲を淹れることにした。眠気覚ましだ。あたまのなかが白白とかすんでいて考えごともままならない。昨日からずっとこんな調子で、どう過ごしていたかもあんまりよくおぼえていなかった。ずっと不安だ。違和感が消えない。先の見えない隧道を歩いているみたいだ。おもわず足もとでうろうろしている独歩を見下ろすと、やっぱり「にゃー」と鳴いた。俺はひとつ多く出してしまっていたマグカップを棚にしまった。独歩が教えてくれなかったら、二杯もコーヒーを淹れてるところだった。・・・あれ?そもそも俺はどうして二杯淹れようと思ったんだっけ。深く考えはじめるよりはやく、ふいに独歩が俺の身体を駆けあがってきた。おもわず喉のおくから細い悲鳴がもれる。
落とさないように抱えた身体は、骨までしみるほど冷たかった。
氷を抱いている気さえした。
なんだかみょうにおさまりが悪くて、まるで知らない子を抱っこしているみたいだった。
それ以来、気がついたら独歩を膝に抱いていることが多くなった。そういうときはいつも、うすぐらい午睡のさなかに沈んでいるかんじがして抜け出すのにだいぶかかる。ぼんやりしていてなにも手につかない。俺がそんなだから、独歩がなんでも「にゃー」と鳴いて教えてくれるようになった。「にゃー」と鳴いたら食事の時間。「にゃー」と鳴いたら風呂の時間。「にゃー」と鳴いたら仕事の時間。食べものも着るものも持ってきてくれる。俺はほとんどなにもしていない。こんなんじゃ、どっちが飼われてるのか分かんないや。でも、そんな暮らしも悪くないかもしれないな。なにもしなくたって、独歩がずっとそばにいてなんでもしてくれる。あんなにつのっていた不安もぜんぶどっかやってくれた。だから大丈夫。俺はようやく安心することができた。
シンジュクのまちが装いを変える時間。今日もまた独歩を抱いて過ごしたいちにちが終わっていく。明日も明後日もこんな日日がつづいていきますように。猫のようにまるくなって目を閉じた瞬間、スマホが鳴った。はっと飛び起きて画面を確認してみると、独歩からの着信だった。おどろいたおかげか、数日ぶりにあたまのなかが冴えわたっていき、俺はようやく気がついたのだった。
独歩はいま、出張でオオサカにいる。
こいつは、独歩じゃない。
聞いたことのない声で鳴く猫の正体を、俺はむかしから知っていた気がする。真夜中のくらがりに取り残された部屋のすみで暮らしていたころ。手放しであまえたりすがったりできる、決してどこへもいかないと約束してくれる存在がほしくてたまらない時期があったのだ。そのときの願いがいま、叶おうとしているんじゃないだろうか。やがて、みずから手放したはずの願いが、いま。
俺はスマホの「応答」に指を伸ばした。だけど、電話はすぐに切れてしまった。
「拒否」のボタンのうえには、前足が乗っている。
夜のあわいに佇んでいる、胡乱ないきものは「にゃー」と鳴いた。