狐の窓 みおぼえのないハンカチ。俺が買わない造花。一二三の趣味からはほど遠いアクセサリー。匂いさえべたつくあまい香水。俺たちの家の端端で目につく、他人が一二三に贈ったもの。俺は、いったいどうしてしまったのだろう。そういうものを見ると、ひとつ残らず捨ててしまいたくなる。
最近の俺は、なんだか変だ。
みょうに嫉妬深くなっている気がする。
どんな些細なことに対しても、胸がつぶれそうなほど苦しく思うのだ。一二三が俺の知らないひとと話をするのはおろか会うことさえ嫌でたまらなかったし、俺がそばにいない時間どこでなにをしているのかぜんぶ教えてほしかったし、俺以外の誰かに与えられたものをふたりの家に入れないでほしかった。へん、といえば。一二三からのメールが、文字化けしていることがある。一部だから読めなくもないが、せっかく一二三が俺に送ってくれたメールなのに、すこしでも分からないところがあるのはとても悲しかった。一二三に理由を尋ねると、ときどき間違えるのだと苦く笑っていたが、いったいなにを間違えるというんだろう。分かってる。ほんとうは、俺と話したくないからなのだ。俺以外へ送るメールやSNSではふつうみたいだし。嫉妬深い俺のせいでくたびれて、俺のことなんか嫌いになってしまったからそんな意地悪をするのだ。一二三が文字化け部分になんて書いていたか教えてくれなかったのも、俺への不満だったからに決まってる。いつか直接伝えるからって。そんないつか、いつまでも来てほしくない。
俺はきっと、おかしくなってしまったのだと思う。今日だって、仕事のために家を出る一二三をおもわず引きとめてしまった。口をつぐみ袖を握ったまま離さない俺は、拗ねた子どものようだったろう。そんな俺を、一二三は店に誘ってくれた。ここのところ元気がないからごちそうすると。「そうしたら僕に、いつものかわいい笑った顔を見せてね」。そこまで言わせてようやく、俺はうなずいて手を離したのだった。最低だ、最低だ。こんなの俺じゃない。一二三を困らせたくなんかないのに。もしかしたら、違法マイクや強力なアビリティでもくらって精神的に参っているせいかもしれないと考えたこともある。でも、最後にマイクを握ってからすでにひと月が経とうとしていた。
「ごめんね、独歩くん。しばらくひとりにするけれど、いいこで待っているんだよ」
そう言って一二三は他の誰かのもとへ行ってしまった。料理も酒も文句なくうまいし、一二三は目の届くところにいてくれるけど、俺は早く帰りたくてたまらなかった。だってここにいると、最低なことばかり考えてしまう。俺が俺じゃなくなっていく。
やがて俺は、とうとうひとりで帰ることにした。一二三にはあとできちんと謝るつもりだ。仕事の邪魔になるし、ひとこと声をかけるよりそのほうがいいと思ったのだ。でも、帰るためにグラスや皿を空にしても、次次と新しいものが運ばれてきてしまう。俺が手をつけなかったものの行く末を思うと、立ち上がることは憚られた。ボーイを呼び止めて、帰りたいから新しいものはもういらないことを伝えると、困りますと言われてしまった。念を押すように「お願いします。分かるでしょう」と言った彼の切実なまなざしのさきには、一二三がいた。ずいぶん楽しそうだった。骨の髄まで灼かれるような思いがして、すぐに目を逸らしてしまった。気のせいだろうか。俺が一二三を困らせれば困らせるほど、あいつの機嫌がよくなっている気がする。
それからようやく俺のところへ戻ってきた一二三と、たくさん話をした。仕事の愚痴も聞いてくれた。いやな目に遭った話も聞いて慰めてくれた。むずかしい相談にも乗ってくれた。聞き上手な一二三が相手だと、みんななんでも話してしまいたくなるのだ。言わないほうがいいことも、言うべき相手が違うことも、言ってはならないことも。俺も例に漏れず、口をすべらせてしまった。最近、自分がへんなのだと。言うべきではなかったと思ったときには、もう遅かった。どういうふうにへんなのか聞かれてうつむいた俺に、一二三は言ってごらんとなでるようにささやいた。テーブルのした。ひそやかに重ねられた手からじんわりぬくもりがにじんで、俺たちふたりのさかいめが曖昧になる。一二三はそうやっていつも俺に隠しごとをさせない。そして俺は、ゆるせないことが増えた気がするのだとこぼしてしまった。
一二三は、とてもうれしそうに笑った。
「僕と、おなじだね。ねえ独歩くん。僕らは子どものころからたくさんのおそろいを持っていたよね。えんぴつ。ストラップ。ミサンガ。かさ。スニーカー。音楽プレイヤー。名刺入れ。たくさん、たくさんあったよね。でもね、おなじではないものもあった。当然さ。僕らは血の繋がった家族より長い付き合いだけれど、血や言葉では語りきれないもので繋がってもなお、結局は別別のニンゲンなんだもの。分かっているんだ。でも。でもね。それでもどうしても君からほしいおそろいがあったんだ。待てなくて、ごめんね」
俺と一二三がそろいで持てなくて、一二三が俺からほしがっているもの。待てないくらい、ほしいもの。分からなくてなにも言えないでいると、一二三はまた呼ばれてしまい、すぐに戻ると席をはずした。すぐっていつだよ。だれのところへいくんだよ。おれがいるのに、どうしてそっちにいくんだよ。おれのそばにいて、もうどこにもいかないでくれ。ここにいればいいじゃないか。おれのて、おまえがにぎっていないと、すぐにつめたくなってしまうんだ。そんなの、おまえがいちばんよくしってるくせに。ひふみ、ひふみ。おれのひふみ。一二三のすがたを追って顔を上げると、ふいに誰かと目があった。顔のまえで組んだ両手のまんなか。ひしがたの窓から常盤色の眸がのぞいていた。まるでなにかを暴くようなまなざしに冷や汗が背をつたった。気がつけば息をころしていた。やがてしりぞけられた両手のむこうからあらわれたのは、静かにほほえむベストセラー作家だった。「お隣、構いませんか」。夢野幻太郎は、俺が返事をする前にはすむかいに腰かけた。「それにしても厭ですねぇ。こうもケモノくさくては、せっかくの美酒も不味くなってしまうというものです」。浮いていた。ホストクラブという場所からは、あまりにかけはなれたたたずまいだった。彼のことはあまりよく知らないが、さわがしいところで楽しく酒を呑むタイプには見えないし、望んでやってくるような理由があるようにも思えない。ここには、一二三もいるし。「小説の参考にしようと思いまして」。心臓が跳ねた。俺の考えていることを見透かしたかのように、夢野幻太郎はそう言った。ひしがたの窓からのぞく眸が、まだ俺を見ている気がした。「ここは面白い町だ。昼と夜とで装いを新たにするが、しばしば中身もろとも変わってしまうことがある」。「・・・」。「どうです?読者の心を掴むにふさわしい書き出しでしょう」。彼の言うとおりだった。夢野幻太郎の述べた冒頭はたしかに俺の心を掴んだが、すぐにものすごい力でふりほどかれた感じがしてどうでもよくなってしまった。そんなことよりも、俺は一二三のことが気がかりだった。だって、いま、どこで、おれいがいのだれと、どんなふうに、ひふみ、ひふみ。「観音坂さん。貴方はいま、あわいに立っているのです」。はやくもどってきてくれ。はやくおれのところに。そうでないとおれ、おれ、さみしくてこわれてしまいそうだ。「ただしそこは、うすらいのような場所です。次の瞬間にはこなごなになっているかもしれません。いいですか。決して差し上げてはいけませんよ。それはほしいと望まれて差し出すようなものではないのです」。
・・・・・・あ、れ?
俺、なにを考えていたんだっけ。気がついたら、冷や汗をかきながら肩で息をしていた。窓越しではない夢野幻太郎の眸が、俺のほうを見ている。どこにでもいる人間の、ありふれたまなざしだ。それで俺は、ようやくすこしだけ安堵することができた。しかし、それも束の間だった。「おや。ナンバーワンのお出ましですね」。夢野幻太郎はうたうように呟いた。顔を上げると、わらっているのに不機嫌そうな一二三が立っていた。・・・あれ、見間違いだろうか。俺はぼんやりしながら両目をこすってみたが、そこにいたのは俺の知っている一二三に違いなかった。でも、いま、たしかに。「僕の親友を困らせないでほしいな」。「困らせているのは貴方のほうではありませんか」。「・・・たとえそうだとしても、君には関係のないことだ」。「ええ、小生には関係のないことです。・・・しかし、アナタはご存知ないかもしれませんが、ひとの世には袖振り合うも他生の縁というはた迷惑なことわざがあるのですよ」。夢野幻太郎は両手で向かい合わせのきつねをつくると、耳の部分を互い違いにからませ、指をほどいた。組んだ両手のまんなかに、あのひしがたの窓ができあがる。きつねでつくった窓。そこからいったい、なにが見えるんだろう。すこしまえに俺をのぞいたとき、そこにはたしかに俺がいたのだろうか。俺が見つめかえしたものは、果たしてほんとうに夢野幻太郎だったのだろうか。俺はふたたび窓越しにまなざしを向けられるのが恐ろしくて、目を逸らしてしまった。しかし、夢野幻太郎が目をやったのは、俺ではなく一二三のほうだった。
窓を通してのぞきあうふたりにはいま、互いが何者に見えているのだろう。
やがて、この夜を端から端まで凍てつかせるような声がひびいた。
「見たな」