守り神 乾いた音が路地裏に響きわたる。私は握りしめていた大事なものを取り落としてしまった。いま、なにかいた。すぐに周囲の様子を窺ったけれど、怯えるまなざしは宵闇を彷徨うばかりだった。でも、気のせいじゃない。いまもどこかにいて、私をじっと見ている。まるで針の雨を浴びているようだった。痛いほど鋭利なそれは私をその場に縫い留め、ほんのわずかでも動くことを許さなかった。私にできるのは、震える手を握り締めて息を殺すことだけだった。でも、探さなくちゃ。私はもう一度、眸を動かして身のまわりを確認した。薄汚れた建物の壁。転がった空のビールケース。ゴミの溢れる使い古されたポリバケツ。新聞紙と雑誌の束。濡れてぺしゃんこになった段ボール。外れて傾いた雨樋。潰れた自転車。どこにもいない。どこにもいないけれど、絶対にいる。だけど、私が落としたものはどこにもない。どうしても必要だったのに。私の思いの全てだったのに。思わず噛みしめた唇の端が切れた。それにしても暗い。表通りから溶けだしたネオンの光は逃げ水だ。私まで届いてはくれない。いつまで経っても夜目が利かないのも変だ。路地裏に降る宵闇が、私と外界を断つヴェールになっているみたいだ。さっきからずっと室外機の音がやけに耳についてうるさい。苛立ちが募っていく。私はつい舌打ちしながらねめつけた。室外機は埃まみれのがらくた同然の状態で、配管が外れていた。それならばこの音は一体なんだろう。だんだん大きくなっている。嵐の前触れかもしれない。なんだか海鳴りに似ている気がするから。身構えた私の視界の端で、ふいになにかがにびいろに光った。やっと見つけた。私の思いを直接届けてくれる大事なもの。私は駆け出した。ああよかった。どうにか退勤時間には間に合いそうだ。しかし伸ばした手がナイフに届く寸前、私の目のまえに大きな月がふたつ昇った。海鳴りが獣の唸り声に変わる。ナイフよりも鋭い牙が剥き出しになる。見上げても正体が分からないほど大きなばけもがそこにいた。
全身が焼けるように熱い。指先からこぼれた灰が夜風にとけていく。
苛烈に燃える眸のなかに、私がいる。
*
「家で僕の帰りを待っているはずの君が、どうしてここにいるのかな」
うしろからこっそり見守りながら、家までついていこうと思い立ったのが間違いだった。俺の尾行は店先であっさり見抜かれて、逃げる間もなく一二三に捕まってしまった。
「忘れてしまったのかい。店に来るのなら、ドレスコードを守らなくちゃ」
つまり一二三は、俺に猫のすがたで繁華街をうろつくなと言いたいのだ。スーツにネクタイを締めたいつものすがたなら直面しないような危険があふれているから。でも、俺はふつうの猫とは違う。いざというときに自分の身を守るくらいの力はあるし、めちゃくちゃ強い猫ぱんちだってできる。何度もそう力説しているのだが、一二三はちっとも聞く耳をもたない。それに、好きで毛玉になっているわけじゃないときだってある。俺は燃費が悪いのだ。力を使いすぎるとたちまちガス欠状態に陥るし、回復までそれなりに時間がかかる。そうなると、いまのようにひとのすがたに化けることはできなくなってしまう。
「ふうん。ずいぶんと不服そうじゃないか。まったくもう。魚料理は当分おあずけだからね」
「そんな…!で、でも冷蔵庫に鮭の切り身が!」
「明日の朝食に焼こうと思っていたけれど、下味をつけて冷凍保存しておくことにするよ」
「せっかくの新鮮な鮭になんてむごいことしやがる…」
「はいはい。帰るよ」
一二三はジャケットの内側にちいさな俺を抱きなおした。ふだんはモップだの一年中冬毛だのと馬鹿にするくせに、いざとなるとこうして俺を気づかってくれる。俺が爪を立てる可能性なんか微塵も考えていないし、思いがけず傷つけられたって平気だと笑ってみせるだろう。一二三は誰に対しても、そんなふうにやさしい。たましいの奥深くまで傷つけられる痛みを知りながら、みずからを犠牲にすることにさえためらいがない。その献身がたやすく裏切られるところを、いままで何度見てきたろう。だから決めたのだ。俺が守ろうと。たったひとつしかない俺の寝床、あるいは世界の中心を。
一握の灰さえ残さない。