首輪 なんだか最近、つけられている気がするのです。分かっています。気のせいだというんでしょう。たしかに振り返っても、歩いた道を引き返してみてもそれらしい者の姿はないのです。同僚たちに打ち明けたとき、疲れているのだと笑われました。勤め先がいわゆるブラック企業なので、確かに彼らの言う通り私はひどく疲れていました。しかし幻覚を見る程ではないと思います。そんな人間がいるとすれば、彼でしょう。職場には私の上をいくオーバーワーカーがいるのです。今日、同じ話を彼にもしたのですが、気の毒なくらいびくびく震えてしまいました。普段の立ちふるまいを思うに、怖がりな性格なのかもしれません。相槌代わりのように「すみません」と何度も頭を下げるので少し困りました。怖がらせたうえに、気を遣わせてしまったのでしょう。申し訳ないことをしました。そういえば、途中から聞き流していたのですが、最後に気がかりなことを言っていました。さて、なんだったかな。・・・すみません。思い出せないみたいです。それからそのまま彼と帰路につきました。ひとりで帰すのが心許なかったのです。そして十分ほど歩いた頃だったでしょうか。ふと、例の気配がしたのです。繁華街を抜けてひと気がない道を歩いていたので余計に不安になりました。こんな場所で危害を加えられたらひとたまりもありません。そのうえ今日は連れもいましたし、なさけない話ですが腕っぷしには自信がないので、たとえなにか起こっても自分の身を守るので精一杯だと思いました。緊張しながら歩いていくと、不意に犬の唸り声が聞こえて足が止まりました。この辺りは路地がたくさんありますし、獣のにおいもしたので、野良犬でも潜んでいたのでしょう。脱力しました。おそれるあまり、私は犬と不審者を勘違いしていたのかもしれません。そう自分を納得させて彼に追いつこうとした私は、しかしまた立ち止まりました。目の前にいるはずの彼が、いないのです。血の気が引きました。振り返ることができませんでした。だって背後から気配がするのです。ここのところずっと私が感じていた、得体の知れないあの気配が。そして首筋にひたりと冷たいものを感じて意識を失う寸前、私は彼の最後に言った言葉を思い出しました。
「潮時か」
彼は、確かにそう言ったのです。
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なんだか最近、つけられている気がするんです。分かってます。気のせいだって。自意識過剰だっていうんでしょう。同僚にも笑われました。働きすぎだって。まるで俺が望んで過剰労働しているみたいな言い方ですよね。人並みの労働で済むなら俺だってそうしたいのに。実は職場に俺と似た境遇の人がいます。だから、こんな俺でも仲良くなれるかもしれないと思いました。だから、どうせならこの人がいいと思ってしまいました。でも、俺は何事においても及び腰で心配性で意気地がないので、とうとう何も出来ないまま彼に悟られてしまいました。彼の話を聞いた俺は頭が真っ白になって、一二三からのメールに返事をする余裕もありませんでした。そんな俺を気遣って、彼は一緒に帰る提案をしてくれました。優しい人です。やっぱり俺は、一二三が駄目ならこの人がいいと思いました。生まれつき番を与えられなかった狛犬は、自らの意思で一度だけ望んだ相手に首輪をかけることができます。ただし一度でも番うと、今生では二度と離れることができません。彼には彼の人生があります。俺は彼に首輪ではなく呪いをかけるのだと思いました。罪悪感で吐きそうでした。どんな事情も免罪符になりはしません。でも、一二三の傍にいられなくなるのは嫌でした。どうしても、嫌でした。天秤にかけることさえ嫌でした。番を見つけられなかった狛犬は、文字通り神様の捨て犬になって消えてしまいます。俺にはもう時間がありませんでした。でも、いま思えば消えたほうがましだったかもしれません。他人の不幸を見て見ぬふりして、誰かの幸福を祈ってしまった俺は、神使失格ですから。
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俺じゃあ、だめなんだって。俺のことがすごく大事で大好きだから、他の人にするんだって。俺はね、独歩はいいやつだから、たくさん友達ができたらいいなって思ってる。職場の人との話を聞くのだってすげぇ好き。独歩が楽しそうに話すのを眺めてると俺まで楽しくなっちまうの。でもな、ずっと俺たち二人の人生だったんだから、そこにもう一人は入らないよ。俺は独歩の首輪がほしい。喉から手が出るほどほしい。お金じゃ買えない。一人しか選べない。一度しか使えない。一生離れないでいられる楔。そんなの、俺じゃないなら他の誰に使うっていうんだよ。今日、いつも来るはずのメールの返事が来なかった。俺には分かる。またあいつと話してたからだ。けど、俺は大事なことを聞いたんだよ。鮭は塩焼きとムニエルどっちがいいかって。だめじゃん。答えてくんなきゃ。だっていつまで経っても夕飯ができないもん。だから直接、聞きに来たんだ。俺は独歩の細い手首を握りしめた。ちょうど男に首輪を半分かけたところだった。俺はそれを、独歩が手放さないうちに自分の首にしっかりかけた。その時の多幸感は、死んでも忘れないと思う。俺だって独歩のことがすごく大事で大好きだけど、独歩みたいに他の誰かは選べない。自分の意思でスーツに袖を通したときから、俺が自分の力で掴み取ったもののすべてをかけて、独歩のことを幸せにするって決めてるから。ってのは、本音でもあり建前でもある。俺が独歩のそばにいてぇの。俺以外の誰かに明け渡すくらいなら犬になるのなんかワケない。一生離れずに済むなら器はなんだっていい。でも独歩は怒った。俺が大事にしたかったものを取らないでくれって。へんなの。俺はちゃんとここにいるし、これで誰も不幸にならないし、独歩はこれからもずっと俺を大事大事ってできるんだから無問題じゃん。俺が笑ってそう言うと、独歩は一頻り頭を抱えてから、「もう!」と吐き捨てて携帯でタクシーを呼んだ。
そして気を失ってころがったまんまの男に目をやって、これが俺たち最初の人助けだと言った。
(20211218 首輪/狛犬)