(水麿人魚ネタ)海からきた恋人 水心子は特別海が好きなのではなかった。記憶もないほど幼いころに波打ち際で波に飲まれかけた話を聞いていたので、むしろどちらかというと恐怖の対象だったのだが、最近は時折海を見たくなる。それは大抵落ち込んだ時だった。
今日も学校で空回りしてしまって、その自己嫌悪に押されるまま海にやってきた。浜辺は人が多いので、少しばかり段差の多い岩場に来ていた。
どうして僕はこうなんだろう。
僕、と人前で名乗ることも、気づけばあまりなくなっていた。小中学校と厳しいところだったということもあり、水心子は自分の心とは裏腹に『私』と自身を呼ぶことが多い。それは今では両親の前でさえそうだった。
一生懸命に何かを成そうとするたび空回り、躓き、人に笑われる。そんなことが最近特に多い。自分を好きになれず当然だろうと思う。
こんな己では、誰も好きになんてなってくれないだろう。
水面をぼんやり眺めていた時、ふいに水中に人影が見えた。目を見張る。
──人だ。確かに、人の上半身。まさか、……溺れて。
周囲を見回すが、人気のない場所を選んだのだから誰もいるはずもない。躊躇はした。……けれど、助けなければ、が勝った。
「──っ!」
学生服の上着を脱ぎ捨て、海に飛び込む。裸眼を開くのはやはり怖かったけれど、必死に目を開けた。人がいる。手を伸ばして、腕を掴んで、無我夢中で泳いだ。
辿り着いた岩場にその人を引き上げて、叫ぶように声をかける。
「大丈夫です、か……!」
そこで、目を見開いた。
上半身は裸で、しかし下半身が魚の少年が、困ったようにこちらを見ていた。
「……え、……人魚……?」
「……見つかってしまったね」
苦笑する唇から零れた声は、低く落ち着いていて酷く心地よかった。
「きよまろ、……というのか」
「うん。君はすいしんしなんだね」
下半身を海中に入れた彼と、岩場に座って話をする。清麿が水につかっているのは人魚だと傍目でばれないためだ。
「ごめんね。人だと思って助けようとしてくれたんだろう、……優しくて勇敢なんだね」
微笑まれて胸がどきりとする。そんなことは、としどろもどろに返すけれど、清麿はずっとにこにことしていた。
「水心子になら、食べられてしまってもいいなあ、僕」
いきなりそんなことを言うので、慌てて首を振った。
「食べる、なんて! するわけがない、なんでそんなこと」
「え、人魚を食べると不老不死になるから人には見つかるなって、僕ら小さいころから言われて育つのだけれど」
「……そういえばそんな話も聞いたことはあるけど……でも僕はしない、僕は君を害したりなんか」
そこまで言って、ふいに言葉を飲んだ。
──僕、って言ってる、自分のこと。
不思議そうに清麿が見上げてくる。すいしんし? と呼ぶ彼の髪の毛先から雫が海面に落ちた。その彼が急に慌てる。
「あっ、そうだよね、寒くないかい? 人は水中に入ると寒いし体力も奪われてしまうと……どうしよう、僕じゃあ温められないし」
そう焦って悲しそうにする。そうだろう、水中に生きる清麿では温めてくれたりはできるはずもない。
それなのに、この心地はなんだ。うっすらと熱を持った、この心はなんだ。
「……大丈夫だよ」
そっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。わあ、と清麿は感嘆の声を漏らした。
「あつい……! 水中だと気づかなかったけれど、人の手ってこんなに熱いんだ」
「あ、ごめ、やけどしたりする?」
「ううん、大丈夫。びっくりしてしまったけれど、心地いいよ……ふふ、水心子に触れられると、体温が移って僕も人になれそうな気がしてしまうね」
その言葉を、どうしてだかとても嬉しそうに話すものだから止められなくなる。両手で頬を包み込んで、ゆるゆる上下してやると、彼は手を添えてふにゃりと笑った。
「あたたかい……ねえ水心子、水心子のことをもっと聞かせてよ。僕、君とたくさんお喋りがしたいな」
「……僕のこと? ……つまらないし、人魚の世界で怒られたりするんじゃないのか」
「怒られることはまあ、あるかもしれないけれど、つまらなくはないと思うよ。それに僕がどう思うかを先に君に判断されてしまうのは、少しだけさみしいな……」
言われてみればその通りだ。ごめん、と謝るとううんと首を振られた。清麿が手に擦り寄ってくる。
「ね、聞かせてくれないかい」
なんだかじりじり焦げる心を自覚しながら、そっと今日の空回りについて口を開いた。
転んだ女子生徒がいたのだ。スカートの下にはジャージを穿いていたけれど、とても恥ずかしそうに俯いたので水心子は手を差し伸べてしまった。大丈夫か、怪我は、と尋ねた時、彼女は真っ赤になって泣き出した。
『水心子、女子泣かせてんの』
そう揶揄われて、自分がなにか間違えてしまったのだと思った。しかし清麿に話しながら、でもその程度といえばその程度のことだな、と何もされていないのに気持ちが浮上していく。
それをさらに彼の言葉が後押しした。
「うーん、からかう理由がわからないけれど、僕だったら水心子が手を差し伸べてくれたら喜んで立ってしまいそうだなあ。水心子に問題があるのではなくて、その子の心がそれを受け入れられなかっただけだと思うよ。君は間違えていないよ」
「そう、……だよな」
「そう思うよ」
不思議だった。清麿に言葉をかけてもらうと、心が簡単に軽くなる。これも人魚の力なのだろうか。
「いいなあ」
清麿が笑う。
「人間の学校に水心子と通えたら、きっと楽しいよね」
「……僕と一緒にいても、楽しいかは」
そこまで言ってから、先程先に判断されてしまうのはさみしいと言わせた時と同じ流れだと思い至って言葉を止める。少しだけ悩んで、台詞を変えた。
「……清麿と一緒なら、僕は楽しいな、きっと」
「僕だって楽しいよ。水心子とたくさん一緒にいられるの、いいな……」
その日の出会いから、水心子は毎日海岸に通うようになった。
清麿が悪意あるものに見つからないように、いつも岩場で会った。下まで降りて行って水面を覗き込むと、彼が飛び出してきてくれる。驚いてしりもちをつく水心子に、ごめんごめんと言いながらも笑う清麿が、すこしずつすこしずつ、心を染め上げていく。
「ねえ」
──僕は、きみをすきになってしまったのかも。
ひと月ほど通ったころ、そう見つめられた。
どくん、と胸が鳴る。ばくばくと暴れ出す。彼の側頭部から頬を撫でた。
「……たぶん、僕もそうだ」
けれどそんなことはあってはいけないだろう。そう思った。世に知られる人魚姫の話を思うからだ。彼女は恋が叶わず、海のあぶくとなって消える。思えば人魚の話というのは悲しい結末ばかりだ。
「傍にいられたら嬉しいけど、……君に、悲しい思いなんてさせたくないな……」
「悲しい? どうしてそう思うんだい」
「だって……」
水心子は思ったことをそのまま話した。人間の世界での人魚の話は悲劇ばかりなこと。それが人と関わることによって起こるものなのなら、自分の恋心だけで清麿を巻き込むのは心が痛みすぎるということ。
清麿がふいに笑んだ。柔らかな笑みだった。
「……優しいなあ、水心子は」
人に見つかったら最後、身体を弄り尽くされて食べられてしまうと聞かされてきたのに。そんなことを言うので、再度僕はそんなことはしないと返した。すると清麿は、だからね、と穏やかに紡ぐ。
「僕たちの世界で、人と関わることが何もかも怖ろしいことだと伝えられたように、君たちの世界でも人魚と関わると不幸なことがあると教えられたんじゃないのかな。それは過去に僕たちのように出会った双方が、自分の種族を守るために広めてきた迷信みたいなものなのかもしれない」
「守るために……」
「子や孫をね。……けれど僕、水心子となら、その迷信も打ち破っていけるような気がするのだけれど」
気のせいかな? そう、こてんと首を傾げられる。微笑んだまま。
「……どうする気だ?」
「僕が、人間になるだけだよ」
「でも、何か対価が必要になったりするんじゃ」
声を失うだとか、人魚の話には人になることの対価がついて回ると記憶している。清麿のこの声が聞けなくなったらと思うと顔が歪んだ。たくさん話したいと言ってくれたのに、話せなくなってしまったら。
「そんなの、特にないんだよ」
しかし清麿が笑い飛ばすので、逆に驚いてしまった。
「な、ないのか?」
「まあ、二度と人魚には戻れないけれど。それくらいかな? その言い伝えって、もしかしたら人間側が人魚を守ろうと広めた話なのかも」
──だとしたら、人間って意外と優しいのかもしれないね、君みたいに。
「……怖くないのか?」
出会ったばかりの人間のために、今までの生活を捨てるのだろう。そんなのは負担が大きすぎないだろうか。
人の世界だっていいことばかりではない。そこに彼を巻き込んでいいのか。何が起こるかも分からない未知に、踏み出させるのは正しいことなのか。
しかし清麿は、きょとんと見上げてきた。
「どうして怖いんだい? 水心子がいるのに?」
そう言って彼は少し言い淀む。
「……実はね、僕、婚姻の話が進められているんだ」
反射で手を掴むと『僕が進めたかったことじゃない』と明言して、それから視線を伏せた。
「人魚の女の子との婚姻を……一族の人魚たちに進められていて。でも僕はそんなの嫌だった。……嫌だった、ところに、君が現れてしまったら、……今更戻りたくなんてないよ……」
俯いてしまう彼を見つめる。
大変なことだ。人魚が人間になるなんて、困難しかないと言っても過言ではないだろう。
それでも清麿がこの手を離れて、望まない婚姻をするなんて考えただけで胸が張り裂けそうだった。たとえそのほうが彼にとって安泰な選択肢だとしても。
決断に時間はかけられない。今決めなければいけないのだ。思い悩むべき選択。
──けれどそんな逡巡も躊躇も訪れはしなかった。水心子は清麿の両肩を掴み、まっすぐに瞳を覗き込んで口にした。
「おいで。僕と、一緒に暮らそう」
彼が目をまんまるに見開く。いいの、と小さな声。水心子は微笑んだ。
「こっちこそ、いいの? だよ。君を幸せにできる保証なんてない。僕はまだ成人もしてない。できることはものすごく限られてる。……でもさ、清麿」
──君が僕と生きることを望んで、選んでくれたなら、きっとどんな難しいことでも立ち向かっていけそうな気がするんだよ。
自分でも己がこんな力強い物言いができるとは知らなかった。なんだか無性に胸を張りたい心地だ。
清麿は輝くような笑顔を見せて頷いてくれた。そっと抱き寄せる。
「……でも、人間になるって具体的にどうするんだ? 対価がないにしても、もし君が痛い思いをしたりするなら」
「簡単だよ、大丈夫。痛みもない。そちらでは正しく伝わっていないのか……。ええと、ね」
彼は頬を染めながら、周りから僕たちの頭を隠してくれないかなと言った。頭を隠す。ぴんと来ないなりに考えて、とりあえず学生服の上着を二人で頭から被った。
「これでいい? きよまろ」
「あ、ありがとう……あの、人間になる方法、ってね」
人間とのキスなんだよ。──そう囁かれて、服の陰で暗い視界の中目を瞬く。
「……そ、それだけ?」
「そうだけどそれだけっていうことじゃないよ! 僕らの世界では、キスをしたら子供ができてしまうくらいすごい行為なんだから!」
拳を振る様がなんだかやたら可愛らしい。そうか、下半身が魚な彼らでは繁殖方法も違うのだ。そしてそんな『すごい行為』だから隠してほしいなんて言ったのか。頭が沸騰しそうで、熱いであろう手を彼の頬に持っていく。
「……していいの?」
「……うん。はじめての相手も水心子になるから、優しくしてはほしいけれど……」
キスに優しいも何もあるのかなあ。こちらとてはじめての身である水心子はそんな疑問を抱えつつ、当たり前だと頷いた。
そっと、唇を寄せる。清麿が目を閉じた。震えている睫毛がいじらしくて、そうだこれ、子作りしたいって言われたようなものなのかあ、と甘酸っぱく思いながら恋心がはじけるように口づけた。
柔らかさに触れて、一瞬その冷たさに驚いたけれど、熱を移してやるつもりで何度も啄んだ。唇をわずかに開き合って、舌を合わせる。背筋にぴりりと走る感覚ははじめてのもので、それをもっと感じ合いたくて、たくさん絡めて吸い合った。
「わ」
短い声を上げた清麿が、頭まで海に沈んでしまう。慌てて手を伸ばして引き上げると、彼はぽかんとしていた。
「ど、……どうしよう、泳げない」
また沈みかけるので、水心子は一度水中に飛び込んでから彼を抱き上げるようにして岩場に戻った。
「きよまろ、だいじょ……」
そこで、目を背けた。清麿も気づいたのか、あ、と声を漏らす。
魚だった彼の下半身は、人のものに変わっていた。真っ白な脚が、覆いなく伸びていて、一瞬見ただけでもとてもきれいだけれど、その。
「水心子、人になっている、僕! この身体って水心子と一緒?」
「うっ、い、一緒、というか、ちがうというか……っ」
「え、違ったの……? 僕、人間になれていない?」
「いや、人間、だけど……と、とりあえず僕のジャージあるから着て! たぶんサイズ合うから!!」
岩の高いところに置いておいたバッグのところまで戻る。ファスナーを開ける手が震えた。
人になった清麿は、水心子と同じように肉と骨の脚を備えた。……けれど、まるっきり同じかといったら、やっぱり個人差というか、細かいところは違って。
簡潔に言う。──きれいすぎるんだってば!!
「ジャージは上下あるけど、下着はさすがに持ってなかった……でもここにいるわけにいかないし、コンビニで買うから、とりあえず今は素肌にジャージで我慢して……!」
目を逸らしながらジャージを差し出すと、彼は『なんだかよくわからないけれど』と頷き受け取ってくれた。それで一旦安堵したけれど、すぐに黙り込んでしまった彼に気づく。
「……きよまろ?」
「これ、どうするの?」
そうだ、人魚として海の中で生活していた彼には、服という概念がないのだ。こうやって足を通して、と説明してもおぼつかない様子なので、結局水心子が着せてやることになった。
その間、至近距離に美しすぎる彼の肢体があるのである。目の毒、とは、このことだ。頭を抱えたい気持ちで着せ終えると、清麿が抱きついてきた。
「き、きよま」
「ありがとう、水心子、……僕、大好きな君に人間にしてもらえて、すごく嬉しいよ」
だから、──きみがいやになってしまうまで、よろしくね。
瞬く。そうだ、目を逸らしている場合ではない。これから彼は水心子の心ひとつで立場が変わる。彼を守れるのは己しかいない。恥ずかしがるまでもないのだ、彼は、子作りと同等の行為を許してくれたのだから。
「……嫌になることは、永遠にないよ。それは誓うからさ」
──だから、僕の、伴侶になってくれないか。
「人の世界では、男同士でも婚姻できるのかい?」
「いや、そうではないんだけれど……」
「子供ができるの?」
「子供もできないんだけど……」
それでも清麿がいいってこと! そう片づけてまた唇を奪ってやる。清麿は目を丸くして、頬を染め上げて、ええと、と狼狽して。
「……子供は、ほんとうにできないんだよね?」
そんなことを聞いてくるので、キスじゃ男女でもできないよ、と返すと、表情をきょとんと変えた。
「じゃあ、何をしたらできるんだい?」
頭が熱い。今すぐ海に飛び込んでしまいたい。そうしたら冷えるんじゃないのか。そんな馬鹿を考える。
そのうち教えてあげる。その言葉が含むやましさを、君は受け取ったのかどうなのか、とろっと笑って『うん』と頷いてくれた。