(水麿家族パロ)不倫に誘おうものならば 水心子に見つけてもらって、抱きしめられたとき、清麿は本当に嬉しかった。心から安堵をした。彼から逃げたのは自分なのに、ずっと会いたかった。
結局己の帰るべき場所を、あのときすでに清麿は理解していたのだと思う。水心子もわかってくれていた。だから広い日本列島で再会できて、足掻きがうそのようにきちんと結ばれることができた。
運命はあのときからずっと笑顔で傍にある。
「ママ、かいわすれなんてめずらしいねえ」
「うう……ごめんね……」
コンビニの入口をくぐって、清麿は肩を落とし牛乳のコーナーに歩み寄る。娘のまひろが先にパックを重たそうに手に取って、清麿の持ったレジかごに入れてくれた。
「一本では足りないよね……もうひとつ買う? まひろたくさん飲むよね」
「のむ! でもね、ママ、あのね、のむヨーグルトものみたいの……」
牛乳のすぐ横に置かれた飲料のヨーグルト。清麿は微笑んだ。いいよ、でも残ってはいけないからこっちの小さいやつにしようか、と半分のパックを手に取った時だった。
「……源?」
もうずっと呼ばれていない、旧姓が呼ばれた。瞬いて振り返ると、背の高い男性がこちらを見て『やっぱり』と笑顔になった。
「源だろ、源清麿! 俺のこと憶えてない? 大学で一緒だっただろ、〇〇だよ」
「あ……あの、調理のほうに途中で移った、〇〇?」
記憶から湧き出た存在を挙げると、その男性は『そうそう!』と嬉しそうにする。
「なに、源家このへん? 元気だったか? 大学辞めたって聞いてたから、どうしてるかなってすげー思ってて」
母の元同級生の顔をじっと見上げたまひろが、清麿の脚に掴まってくる。それでやっと男はまひろを視界に入れたようで、不思議そうに目を丸くした。
「……その子は?」
「……僕の子供だよ。水心子との」
そう言った途端、男が目を眇める。へえ、と苦笑いのような、すこしの嘲りを含んだような笑みがまひろに向けられ、彼女は清麿の脚を抱く腕に力を込めた。
「水心子か。そっか、結婚したのか。あいつ、源のことめちゃくちゃ自慢して歩いてたもんな。……ふーん」
ふいに、男が名刺入れを取り出す。抜き出された一枚が差し出され、清麿に押しつけるように渡してきた。
「俺、この店で働いてんだ。今の店長が引退したら継ぐことになってる。源、遊びに来ねえ? ひとりでさ」
「……え」
「子供なんざ置いてきちゃえよ。どうせ水心子も仕事ばっかで構ってくんねえだろ?」
清麿は、慌ててまひろの耳を塞いだ。娘に聞かせたい話の流れではなさそうだった。
「どういうことだい。君は僕になにを期待しているの?」
「わかるだろ、俺ら、もういい大人じゃん。……色気取り戻す手伝いしてやるって言ってんの。このままじゃ、水心子にだって飽きられちまうぜ?」
わかって、いる。聞くべき言葉ではない。耳を傾けていい相手ではない。それなのに、水心子に飽きられる、と言われたとき、清麿は動けなくなった。
自分にかけられる時間が減って、元々ありもしなかった魅力もどんどん底辺をくぐりつつあることだって自覚していた。そんなときに、そう言われて、反論できなかった。
まひろの耳を塞いでいるから名刺も突き返せない。男はにやりと手を振って、煙草を買って去っていった。
「……ママ、あれ、なに」
まひろが渋面で問いかけてきたので、はっとして耳を解放する。泣き出しそうなのがわかって、清麿はレジかごを持ったまま彼女を抱き上げた。
「ごめんね、……なんでもないよ。怖いお兄さんだったね、まひろ、ごめんね」
首筋に腕を回して、彼女はすすり泣き出した。申し訳なさを抱きつつ、会計に行く。
心の靄は晴れなかった。
自宅に帰り、眠ってしまった娘をソファに横たえる。ポケットに入れていた名刺を取り出して、清麿はため息をついた。
あれは不倫の誘い、だったと思う。乗るわけもなかったけれど、押しつけられた紙切れ一枚に込められた醜悪さと、かけられた言葉への反論のできなさが清麿から動きを奪った。途方に暮れたまま、ぼうっとその紙を見つめてしまう。
「なにそれ?」
「うん、名刺……」
そう返して、続けて『誰の?』と問いかけられるのが届いた時にやっと我に返った。弾かれて振り向くと、水心子がそこにいた。
「え、あれ、おかえり、ずいぶん静かに帰ってきたんだね」
「普通だったけど……清麿、どうかした? お出迎え、なかったから、何かあったのかもとは思ったけど」
もしかして、その名刺のことじゃないか? そう、続けられて、清麿は視線を伏せた。なんだかまっすぐ顔を見られない。
水心子に、手首を掴まれた。下から覗き込まれる。大きな翠が、隠し事を許さない真剣さで見つめてきていた。
「清麿。なにがあったの、教えて」
かすかに沈黙して、持っていた名刺を彼に手渡した。瞳が名前をなぞるのを、罪悪感に似た感情を持って見ていた。
「大学の時の同級生に、たまたま会ったんだ。まひろと一緒だったから、結婚した話もして……そうしたら、その、一人でお店に来るといいって。……色気を取り戻すお手伝い、してやる、って、名刺押しつけられて」
「な、……それ、不倫しようってことだろ」
「……そう、だよね、やっぱり」
「きよまろ」
彼の手が伸ばされて、腰と後頭部に回り引き寄せられる。その体温に触れたら、なんだかずっと張り詰めていたものが融けて、泣き出しそうな心地で縋るように抱き返した。
水心子が舌打ちをする。本当に腹立たしいときだけの仕草。
「……なんだよ、色気を取り戻す? そんなこと君に言ったのか、まひろもいる前なのに……なんだよ、なんだよ、それ」
「水心子、ごめんね、僕が突き返せばよかったんだ。僕が自信をもって、いらない、って言えたらよかったのに」
そう、清麿は毅然としているべきだった。守るべき娘がいるのに、揺らぐべきではなかったし、それを悟られてはいけなかった。
なにもかも己が悪い。自分が嫌いで、言葉を飲んで、俯く。
やっぱり僕は、君の妻でいる資格も、娘の母でいる資格もないのかもしれない──。
「きよまろ、自信がなかった、ってどういうこと? もしかして、自分に色気がないとか思ってたってこと?」
水心子に肩を掴まれて、また覗き込まれた。数度躊躇して、ちいさく頷く。
彼はひどく悲しげな顔をした。またなにか間違えてしまった、と思ったとき、強い力で掻き抱かれる。
最愛の夫の、すこしだけ汗のまじった、大好きなにおいがした。
「……ごめん、そんな、悲しいこと思わせて」
「……え、……ちがうよ、すいしんしは、」
「違う。僕が、清麿が昔から今まで変わらずずーっとかわいくてえっちで、いつだって抱きたくて堪らないくらい魅力的だからすこし綺麗じゃなくなってもらわないと不安で仕方ないって、君に伝えてなかったのが悪い」
息継ぎもろくにされず放たれた言葉に、目が白黒する。内容が遅れて頭に沁みて、着火されたように熱くなる身体で狼狽していると、彼がそっと身体を離した。
水心子は名刺を両手の指でつまみ、びり、と破いた。清麿が目を見張るうちに、破り去ってごみ箱に捨てる。
「……すいしんし」
「ね、君があんまり綺麗だから、こういう声をかけてくるやつがいただろ?」
そう言って、彼は笑った。すこしだけ眉を下げた、せつない笑み。言葉を飲むうちに、また抱き寄せられる。
「何度でも言うよ。清麿はかわいいし、色っぽいままだし、むしろすこし妖しい感じが年を重ねるごとにちょっとずつ増してて、僕はいつだって心配でたまらないんだ。君が他の奴を選んで、他のやつに許しちゃったらどうしようって」
「……そ、そんなこと、しないよ! 水心子以外に、僕」
「うん。わかってるけど、周りのやつは誘惑されちゃうってこと。……だから、僕に守らせてね」
たとえずっと年を取って、えっちすることがなくなっても、僕以外を選ばないでね。
涙が瞳に、盛り上がってこぼれた。水心子がぎゅうと抱きしめてくれる。
「……ありがとう、」
不安をすべて打ち消してくれる、そんな夫に選んでもらえたことを、本当に幸せだと心の底から指の先まで思う。
「あのよそのおとこ、ぜったいママのことすきなんだよ、むかつく~っ」
起きた娘が、食卓で珍しくも荒い言葉を使って憤慨している。こらこら、と清麿は彼女の口の端から垂れたスープを拭ってやった。
「むかつく、とかお友達には言っちゃだめだよ」
「おともだちにはいわないもん! むかつくひとにしかいわない!」
「まあ真理だな」
水心子は特に咎めもせず頷いている。彼は共感しかしないようだが、清麿としては嬉しい気持ちもあるが彼女の教育的に心配なのである。よそのおとこ、という言葉もあまりよろしくない。これは水心子が教えてしまった言い方だけれど。
「大丈夫だよ、まひろ。僕はパパとまひろが大好きで、二人を好きでいることで精一杯だから、他の人なんてどうでもいいから……ね、落ち着いて、ごはんは美味しく食べよう」
まだすこしの憤りを見せつつも、彼女はこくんと頷いた。
「パパのおくさんで、わたしのママにてをだすとは、いいどきょうだ」
夫婦揃って吹き出してしまう。どこで覚えた台詞なのか。なんだかおかしくてたまらなくて口を押さえて笑う清麿をよそに、水心子が大きく頷いて娘の手を取る。
「その通りだ、まひろ、すごい! そうだよ、僕たちが守るママを欲しがろうなんて、百年早いよな!」
「ひゃくせんねんはやい」
おぼつかない数の数え方でフンフン鼻を鳴らす彼女は、興奮したままスープを口に運んでまた端からこぼした。怒った顔が、拭いてくださいと言わんばかりに『ん!』とこちらを向くので、おかしくて、幸せで、清麿も嫌だったことを忘れ去った笑顔で娘の頬を綺麗にする。
テーブル越し、水心子が、嬉しそうに笑ってくれていた。