書きかけネロ晶︎︎ ♀長編小説導入部分 チン、と音が鼓膜を揺らして、晶は目を覚ますように瞼を開けた。
「────……賢、者さん……?」
一番最初に視界に飛び込んできたのは空色の髪をした男。
晶の背後にはエレベーターの扉。
────元・賢者、真木晶は、ふたたびこの世界に召喚されたのだった。
***
どうして。と。
晶はただ立ち尽くすことしか出来なかった。状況が理解出来ず、呼吸さえも止まっていた。
「賢者様……!? 何故、貴方がここに!?」
大きな声が耳に届き、我に返って彼女は声の主を見た。
「ドラ、モンドさ、ん?」
「そうです、ドラモンドです! 私のことが分かりますか、賢者様!」
ドラモンドは目に涙を浮かべながら胸元に手を添える。彼の隣には、やはりドラモンドと同じような表情をしたクックロビンが立っていた。
二人の背後には見知った顔が二十一個並んでいて、晶はそれを呆然としたままの表情で眺めていた。
そして、そのとき。蜂蜜によく似た色の瞳と、目が合った。
「賢者さん、」
心臓の真ん中を射抜くような声だった。空色の髪をした彼は、金の瞳を大きく見開いて晶の顔を見つめていた。
「ネ、ロ」
喉の奥で声が絡んだ。得体の知れない激情が晶のなかに込み上げる。今すぐに声を上げて泣きたくなるような、そんな感情が彼女の胸の内を支配する。
時間が停滞したような錯覚に陥っていると、コツコツと近付いて来る革靴の音が耳に届いた。
「やあ。久しぶりだね、賢者様。俺たちのこと、覚えてる?」
声の主はフィガロだった。しかし未だに状況が呑み込めていない晶は、ただ頷くことしか出来なかった。
「そう。良かった。じゃあ、ゆっくり呼吸をして。大丈夫だから」
背中をさすられ、晶は言う通りに深く息を吸って、吐いた。酸素が脳を巡っていくような、そんな感覚がした。
「魔法使い様、これは一体どういうことでしょう!? まさか貴方たちの魔法でこのお方を!?」
ドラモンドは青ざめた顔で魔法使いたちの表情を見た。晶の横でフィガロは首を振る。
「いや、魔法でもそんなことは不可能だ」
「では、何故彼女が!? 彼女は、その……五年前に────」
「ドラモンド」
牽制するような声だった。フィガロはいつになく鋭い視線でドラモンドを見ていた。そんな視線を受けた彼は蚊の鳴くような声で「すみません」、と謝るとその後ふたたび口が開くことはなかった。
「フィガロ……わたし────」
唇が震える。晶の心臓はバクバクと早鐘を打ち、受け入れたくない現実を確信に変えようとしていた。
「もう、死んでいますよね?」
魔法使いから、息を飲む音が聞こえた。フィガロは眉を上げ、目を見開いて晶を見ていた。
晶は速い鼓動を抑えようともう一度深呼吸をして、自分の記憶を整理する。
そう。己は前、この世界に召喚され魔法使いと出逢い、賢者になった。賢者として世界各地から届く依頼を解決し、世界の均衡を守ろうとする日々を送っていた。
そしてとうとう迎えた「大いなる厄災」との決戦の日に────命を落としたのだ。
「……っう、いた……っ」
「賢者様!」
ふらりと傾いた体をフィガロが支える。
頭にズキズキと鋭い痛みが走った。己が命を落とした瞬間の記憶を思い出そうとしたが、靄がかかったように思い出せなかった。思い出そうとすればするほど、頭痛はひどくなっていく。
「賢者様、大丈夫ですか!?」
そう声をかけたのはアーサーだった。晶は曖昧な笑みを浮かべて「大丈夫です」、と返した。
「賢者様、きみは……」
「分かりますよ。自分のことですから。あの日のことは思い出せないですが」
フィガロは目を伏せた。
「今の私は幽霊になっている。そういうことで良いんですよね?」
「……ああ」
彼がそう短く返すと、後ろの魔法使いたちは様々な反応を見せた。口元に手を当て傷付いた顔をする者がいれば、苦いものを食べたときのような、眉間に皺を寄せる者がいる。表情一つ変えない者もいた。しかし共通して、彼らは言葉を奪われたかのように何も言わなかった。
反対に、今の晶の心は凪いでいた。ああ、やっぱり、と。彼の肯定の言葉は簡単に彼女の腑に落ちたからだ。
「何故、そんなにも冷静でいられるのですか……っ!」
「ドラモンドさん……」
「貴方は、御自身が亡くなっているのだと分かって、何故、そんなにも……!」
ドラモンドの目には涙が浮かんでいた。その涙を見て、晶は無性にやるせない気持ちになった。そんな顔をさせたかったわけじゃないと、叫びたくなるような衝動に駆られた。
ドラモンドを止める声はなかった。魔法使いの彼らはただ、晶の言葉を待っている。
晶は息を吸って彼らの顔を見渡した。
「確かに、最初はとても驚きましたよ。でも……死んだときのことは思い出せなくても、あまり良いお別れじゃなかったんだなってことは、何となく分かるんです。だからこういった形でも、また皆さんに会えて嬉しいって気持ちが大きいから、落ち着いていられるんだと思います」
晶は小さく笑うと、北の双子たちが互いに顔を合わせたのが見えた。そして晶のほうを見ると、同時に彼女に飛び込んでいった。
「け、賢者ちゃん〜! 良い子じゃのう、そなたは!」
「賢者ちゃん〜! また会えて我らは嬉しいぞ!」
「苦しいです、スノウ、ホワイト……」
晶は両脇にいる双子の背中に手を回す。久しぶりのその感覚に、思わず笑みが零れた。
「お二人共。話の腰を折らないでくださりますか?」
「だって〜」
「嬉しいんだもん〜」
双子が口を尖らせる。
「賢者様。きみには俺たちに聞きたいことが山ほどあるはずだ。何から聞きたい?」
「では、まず最初に。皆さんが私を喚んだのですか?」
フィガロは首を振った。
「いいや、違う。確かに「大いなる厄災」との戦いまで残り一ヶ月。決戦に備えて新しい賢者様を召喚するはずだったんだけど、これは完全なる想定外だった。きみを幽霊にしてこの世に現界させたのも、俺たちは関係ない」
「戦いまで、もうすぐ……。なら私は、もしかして……」
「ああ。「大いなる厄災」が近付くと異変が起きやすくなる。きみが幽霊になったのも、厄災との関係があるだろう。……だが、きみが賢者として召喚されたことの原因は分からない。これにも厄災が関わっているか否かまでは、ね」
「そう、ですか」
「これはまた……不可思議なことが起こりましたな」
ドラモンドが額に手を当て呟いた。その横でクックロビンが「報告はどうされますか、ドラモンド様」、と問うた。
「アーサー殿下。状況はとりあえず城に報告させていただきますが……国民には混乱を招かぬよう、このことは秘匿にさせて頂きます。宜しいですか?」
「……ああ。頼んだ」
少しだけ寂しげな表情を浮かべてアーサーが応えた。
「賢者様には、外に出るときは俺が認識阻害魔法をかける。構わないかな?」
「はい。ありがとうございます、フィガロ」
晶は小さく笑った。
「何か他に聞きたいことはある?」
「そうですね……」
私が死んでから何年経ちましたか?
と、問おうとして、先程ドラモンドが五年前に、と言っていたのを思い出した。
晶は静かに皆の顔を見渡す。
スノウとホワイト、フィガロやミスラを見ると月日はそれほど経っていないように思えるが、ミチルやリケが視界に入って、そんな考えはふっと消えた。二人は背が伸びて、手足もすらりと長くなっていた。特にミチルはまだ少年のようなあどけなさを残しながらも、ルチルによく似たうつくしい顔立ちをした青年になっていた。二人だけではない。シノやヒースクリフ、アーサーも少年から、立派な青年の姿へと変わっていた。
五年の月日は、短いようで長い。人間だった晶にとっては、尚更に。
「私はどれくらい、ここに残れるのでしょうか」
ふと口をついて出た言葉だった。晶は自分でも驚いて、はっとした表情のままフィガロを見上げた。
「……ごめんね、それは分からないんだ。こんなことが起きたのは初めてみたいだから」
「そ、そうですよね! ごめんなさい、困らせるようなことを聞いてしまって」
晶は俯いた。
「賢者様」
そのときふとフィガロに呼ばれ、顔を上げた。灰色の瞳が真っ直ぐに晶を見つめていて、彼女は思わず肩をひくりと震わせた。
「きみが望むなら、成仏させてあげることはできるよ」
「え……?」
喉の奥で吐息が掠れた。困惑の表情を浮かべる晶を前に、フィガロは双眸を細めて続ける。
「ここにはファウストがいる。ファウストはそういう類いの専門家だからね。この世を彷徨う魂を成仏させることなんて、朝飯前だ」
「な……、それは……!」
ファウストが何かを言いたげに口を開いたが、今は出るべき場面じゃないと判断したのか、すぐに口を噤んだ。
「成、仏」
晶は言葉を詰まらせた。
「ああ。死者は蘇らない。その理に反してきみは今ここに立っている。その事実に思うところがきみにはあるはずだ」
「…………」
見透かされて、晶の指先が震えた。
冷静でいられている、なんて嘘だ。それは未だに現実感が湧かないからであり、死したことも幽霊になったことも、本当は内心驚いている。
驚きだけじゃない。恐怖もある。
「きみは、どうしたい?」
屈んで視線を合わせてきたフィガロにそう問われ、晶の心臓はドクン、と大きく鳴り響いた。
「わたしは……」
絞り出した声は震えていた。自分の心に問い掛ける前に、賢者の魔法使いたちの顔を見た。
そうして、ああ、と息が漏れた。
彼らのことが、好きだな。と。そう思った。
皆が自分を見ている。一人一人と目が合って、顔を見ているうちに彼らとの思い出が脳を駆け巡った。それはかけがえのない大切な記憶。思い出すだけで胸があつくなるような、そんな宝物。
己に問う前に、答えなんて既に決まっていたのだ。
「私は、皆さんと一緒にいたいです!」
真っ直ぐに言い放ったあと、腹の奥からあついものが込み上げてくるのが分かった。溢れ出しそうな激情が、涙へと形を変えて視界を滲ませる。
「だって、またせっかく会えたんですから。私は死んでしまって、もう誰とも会えなくなるはずだったのに、奇跡が起きて、こうしてまた大好きな皆さんと会えて……だからすぐにお別れなんて、寂しいです。私はもう一度、賢者の魔法使いの賢者として、ここにいたいです!」
晶は胸に手を当て、彼らの顔を一人一人見た。息を吸う。
「皆さん。いつかまた、消えてしまう存在でも、また一緒に過ごしても良いですか?」
フィガロは数回瞬きを繰り返すと、ふっと笑った。
「勿論さ。賢者様」
「そうだぞ! またあんたに会えて俺は嬉しいよ。晶」
「やったあ! これからは晶と一緒にいられるんだね! 嬉しいな、嬉しいな!」
「カイン、クロエ。ありがとうございま……ぶへっ」
「にゃーん! 賢者様、会いたかったー!」
ムルに飛びつかれ、晶は噎せる。
咳き込んでいる様子を、フィガロは優しい眼差しで見ていた。
「きみが望むままに、きみはここにいていい。魔法舎はきみの居場所なんだ」
「フィガロ……」
居場所、と口の中で呟いて、止まっていたはずの涙がほろりと零れた。
晶は皆と再会出来た悦びのなかに、確かな不安があった。死者は蘇らない。その当たり前な自然の道理から外れてしまった自分の存在は、果たして許されるのだろうか。自分で自分を許せないような、完全に世界の異物になったような、そんな気持ちがあった。
だがフィガロとやさしい笑みと、再会を喜ぶ魔法使いたちの顔を見て蝕むような不安感は何処かに消えていった。ここにいてもいいのだと、そう赦してくれたから。
「またよろしくお願いします、皆さん」
晶が笑うと、彼らは笑みを浮かべて頷いた。ふと彼女の手を、ホワイトが包み込む。
「賢者ちゃん。我も幽霊だけど、今ここにおる。世界の道理が何じゃ。そなたは一人ではない。我ら賢者の魔法使いは、ずっとそなたの味方じゃよ」
消え入るような、そんな儚い笑みだった。
「……はい。ありがとうございます、ホワイト」
晶は滲む世界でふっと笑い返した。
「さて。まだ色々と説明することはあるけど、今日はもう遅いし続きは明日にしようか。きみの部屋は残してあるから、今日はゆっくり休むといい」
「はい、そうさせて貰います」
フィガロの言葉に頷くと、「明日、たくさんお話しましょう、賢者様」、とルチルがにこやかに微笑みながら言った。
「では私たちも城に帰らせていただきます。こちらもこの件に対する詳しいことは明日、アーサー様と会議で話し合いわせていただきます」
「ああ。また明日の昼に会おう。ドラモンド、クックロビン」
アーサーが彼らにカンテラを渡すと、二人は魔法舎をあとにする。その姿を窓から見送って、晶はふと満月を眺めた。
うつくして恐ろしい、「大いなる厄災」。それは人類の脅威。晶の命を奪ったものだ。
彼女はそんな大いなる厄災と目が合った気がして、ぞわりと肌が粟立った。
早く眠って、身体を休ませたいと思った。
「では、私は先に休ませて貰いますね。おやすみなさい、皆さん」
晶は皆に一礼する。おやすみ、と魔法使いたちが挨拶を返す。背を向けて彼女は歩き出した。
「ああ、最後に一つだけ。大切なことをまだ言っていませんでしたね」
「何でしょう?」
アーサーに呼び止められ、晶は振り返った。
「────おかえりなさい、賢者様」