拝啓、冬のような貴方へ「……あ……」
目が覚めて視界に飛び込んだのは、白い天井だった。寝惚けた頭でそれが自分の部屋のものだと気付いたとき、ピピ、とスマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響いた。
指先でうるさい音を消して、目を擦る。目元は涙でしとどに濡れていた。
夢を見ていた。
もう二度とは会えないヒトと会う夢だった。
不思議な感覚だった。夢の中で私は、自分が夢を見ているのを分かっていた。
分かっていたから、ずっと言えなかった想いを告げた。夢だから良いだろうと、そして夢の中でも彼はどんな反応をするのだろうと、そんな考えがあったから、告白の言葉が口をついて出た。
だってあれはまるで、夢でありながら夢ではないように、リアルだったから。
『ねえ、どうして? どうして僕の頭の中からは、消えてくれなかったの?』
『さっきだって、ようやくミスラに痛い目見せてやれるかもってところで、おまえに邪魔された。今回だけじゃない。おまえが帰ってからずっと、おまえが僕の中にいるんだよ!』
感情を爆発させて、震える声で言葉を紡ぐ様子は、私の心をひどく突き刺した。あんな姿はあの世界にいるときでも見たことがない。
夢の中なのに、傷付く心がちゃんとあった。
自分のことを覚えておいて欲しいなんて、そんな我儘は言わない。
言わないだけで、思っていないわけではないが。
手紙を挟んだのは、「運」に身を任せようと思ったから。想いは告げられない。けれど完全に隠しておくのは、無かったことにするようで寂しい気がして。
見つからなかったらそこで諦める。もし見つけてもらったら、「貴方を愛する誰か」がきちんといたのだということを知ってくれれば良い。
かける望みはその程度だ。
まさか本物の彼が、夢のように自分のことを覚えているなんて思わない。だからあの夢は、きっと自分の願望からくるものなのだろう。じゃなければ、あんな都合のいい夢なんて、きっと見ない。
私は朝日の射し込むカーテンを開けて、窓にもたれ掛かる。
そうして大事な記憶を思い返すように、そっと目を閉じた。
『私は明日、元の世界に帰るんです。だから、貴方とはお別れです。オーエン』
「大いなる厄災」との決戦を控えた前日、オーエンは厄災の傷の彼の人格を現した。私は慌てて彼の手を引いて、魔法舎の裏の森へと連れて行った。
そして二人でのんびりと森を散歩しながら、傷の彼にも事実を告げると、オーエンはショックを受けたような表情を浮かべた。
『賢者様、帰っちゃうの……? もう賢者様とは、会えなくなる……?』
私が静かに頷くと、彼はいっそう傷付いた顔をした。今にも泣き出しそうだ。その態度は本当の子供のように見える。
『寂しい……やだ、賢者様と、ずっと一緒がいい』
縋るような表情で見つめられて、胸の奥がズシンと重くなった。
結局、私がこの世界にいるうちには彼らの傷は治せなかった。スノウとホワイトは今年の厄災を倒せたら、治す方法が見つかる可用性が高いと言っていたが、果たして本当に治るのかはまだ誰にも分からない。保証さえない。
まるで幼い子供のような彼を置いていくこと。彼を治せなかったこと。罪悪感で押し潰されそうになる。
願わくば、彼らの傷を治せるまでこの世界にいたかった。私は賢者として、己の役目を全う出来た自信がない。
けれどこの世界と元の世界を繋ぐエレベーターの扉が開くのは、厄災との闘いを終えたその日の晩というほんの一瞬の隙間だった。タイミングを逃したら最後、私は元の世界に帰れなくなる。
本当はもっと彼らと一緒にいたいのだ。私はオーエンに恋だってしている。しかし自分の全てを投げ捨てて、この世界を選ぶことは自分には出来なかった。やはり私が帰るべき場所は、元の世界なのだ。
『その寂しささえ、すぐにきっと消えるものだから。大丈夫ですよ』
言っていて私はひどく泣きたくなった。最低な慰め方だと我ながら思う。
彼は首を傾げた。
『どうして? 寂しいが消えるって、どういうこと……?』
『貴方たちは、賢者のことを覚えていられないからです』
鼻の奥がつんと痛い。目の奥がじんとあつい。涙をこらえるのは、こんなにもつらいものだったか。
『わす、れる? 僕は、賢者様のことを、忘れちゃうの?』
震える声で、彼は私の顔をじっと見ていた。『……はい。きっと』
『っ、そんなの、やだ!』
オーエンは目に涙を浮かべて、縋るように私の手を握った。ぱさりと彼の被っていた帽子が地面に落ちた。
『僕は賢者様のこと、忘れたくない……!』
『オーエン……』
『忘れられるより、忘れるほうが、僕はずっとずっと、寂しい……』
はっと息を飲んだ。
もう限界だった。ぼろぼろと私の瞳からは、涙がこぼれ落ちる。
『賢者様との思い出は、僕にとって大切な宝物だから。暗くて何も見えない世界でも、きっと蝋燭の火みたいに、僕のことを照らしてくれるんだ』
その言葉で、「彼」と過ごした日々が頭の奥でちかちかと星のように瞬く。恋をしながら過ごす日々は、これまで生きてきた人生のなかで一番、輝いていた。
その恋を、私も忘れたくなかった。
そう。忘れられるよりも、忘れるほうが、ずっとずっと寂しいのだ。
『…………』
あの少し意地悪で可愛い彼も、同じことを言ってくれるだろうか。
忘れたくないと、そう言ってくれたなら、それにまさる喜びなんてこの世にない。
『賢者様、泣いてる。賢者様も、痛い?』
『え……』
『僕、ずっと、胸がぎゅーって痛くて、苦しいんだ』
心臓をおさえて眉を下げるオーエンに、私は涙を零しながら頷いた。
胸が痛い。張り裂けそうなほど、心が悲鳴をあげていた。
『おあいこだね、賢者様』
『はい。……はい、そうですね。オーエン』
私は彼の頬を撫でて、宝石のような雫を拭いとった。まさか最後の日に傷の彼に会うだなんて思っていなかったが、きちんと彼にもお別れは必要なものだろう。
『私、貴方のこと、忘れません。貴方が私との思い出を大切にしてくれたように、私も貴方との思い出を、大切にしていきます』
『あ……』
『そうしたら、遠い世界にいても繋がっていられます。ひとりぼっちじゃないんだって、思えます』
私が泣きながら精一杯微笑むと、オーエンは目を見開いた。
『僕、ひとりぼっちじゃ、ないの……?』
『ひとりぼっちじゃありません。私がずっと、貴方のことを覚えています。覚えていたいんです』
息を飲む音が耳に届き、彼は頬を染めて笑った。それがあまりに幸せそうな笑顔だったから、私はその顔に見蕩れてしまった。
『嬉しいな。僕、本当に嬉しい。たとえそばにいなくても、僕はひとりぼっちじゃないんだ……』
私が触れる手の上に彼は自分の手を重ねて、猫のように擦り寄った。
『……賢者様の手、あったかいね。春みたい』
そして手を重ねたまま、彼は真っ直ぐに私を見て言った。
『僕も、賢者様のこと、絶対忘れない。覚えていたい』
『オー、エン……』
『もし、この世界に僕以外のオーエンがいるのなら……きっと、同じことを言うと思うんだ』
私は呆然と目を開いた。
声が胸の中心を穿って、そしてじんわりと熱をともす。
彼の言葉が本当になるかは分からない。過去の賢者の魔法使いは皆、賢者のことを忘れている。
けれど、もしかしたら彼は本当に、なんて思うくらいに、その目は本気だった。
そうなったらいいのに、なんて思ってしまう。
だってそうだろう?
好きな人に自分を覚えていて欲しいなんて、人間ならきっと誰もが思うことだ。
……嗚呼、けれど。
もしも呪いのように、あの意地悪な彼を苦しめてしまうくらいなら、忘れて欲しいのもまた事実。
恋というのはいつだって矛盾だらけで、振り切る勇気なんてものは持ち合わせていない。
この先どうなるか分からない、その現状に身を任せるように、私は何も言えずに彼の頭を撫で続けた。
「大いなる厄災」を無事に倒し、エレベーターに乗って元の世界に帰ってきたのは、それから本当にすぐの話だ。
そっと手紙を残して、私はさようなら、と彼に手を振った。
目を開ける。そして、「オーエン」、と彼の名前を呼んだ。
忘れられないヒト。忘れたくないヒト。今もこれからもずっと、残り続ける恋心。
本当は私は彼を、本当の意味で救いたかったけれど、自分程度の人間では何も出来なかった。
私は短くため息をついて、窓を開けては空を見上げた。透き通るような青い色が、視界いっぱいに広がっている。
もしも恋に温度があったなら。
しんしんと、雪のように彼に降り積もる不幸を、今すぐ溶かしてあげられればいいのにと、そんなことさえ思うのだ。
私は静かに微笑んだ。
────拝啓、冬のような貴方へ。
「……貴方を、愛しています」
囁くように、呟くように、私はこの言葉を捧げ続ける。
────もしもあの手紙を見つけ、そして読んだなら、返事は紙飛行機にして、空にでも飛ばしてください。
そうしていつかその紙飛行機が届く日が来るのかも、なんてことを思いながら、私は今日も、窓を開けて待っている。