菊田は、渋くて暗い萌黄色をした洋傘がお気に入りだ。特別に仕立てさせたものだそうだが、職人が死んでしまったので、もう同じ物は作れないと言う。気に入ってはいるが大切に仕舞うのではなく、雨の日にはよく差している。杉元を拾った夜にも差していた。
他にも、菊田は物を集めるのが趣味なようで、日本刀やら外国製の短銃やら、いろんな物を所有している。だからきっと、自分も収集物のひとつなのだろうと杉元は思っている。滅多にいない特別な性を、しかも菊田と対になる性を有する存在だから。珍しいもの好きなのだ。
「あのコートもなかなか良いもんだぜ。どこの仕立屋に作らせたんだ」
「さあ、俺は知りません」
杉元が着ていたとんびコートは濃い鼠色をしていて、本当は少し丈が長くてサイズが合わない。元はあの人のものだったから。
顔を曇らせた杉元を、菊田は黙って見つめていた。今日は曇天で、太陽の光が差さない冬枯れの道に吹き渡る風はとても冷たい。新しく買い与えられたコートの裾が、強い風に煽られて揺れる。
そばに置くようになってから、菊田は杉元を建設現場では働かせず、補佐として侍らせている。用心棒だとかうそぶいているが、手元に置いておきたいだけなのだろう。雨の日以外も隣にいるから、近頃ではお気に入りの洋傘よりも一緒にいる時間が長い。
「今日は蕎麦が食いてえなあ。ノラ坊は好きか? 蕎麦」
「俺は食えるもんならなんでも好きですよ」
「ははっ、おもしれえこと言うなあ」
菊田は杉元をノラ坊と呼ぶ。世間一般に揶揄されている「犬」を彷彿とさせるのに、なぜだか嫌ではなかった。臭い物に蓋をせず、面と向かって犬と呼ばれているようで、いっそ清々しい気分になるからかもしれない。
近くの蕎麦屋で遅い昼食を摂り、屋敷に戻る。杉元の存在にすっかり慣れた部下が、いつものように出迎えに現れた。
「おかえりなせえ」
「おう」
部下は杉元には見向きもしない。これもいつものことだ。囲い者だと知られているわけではないが、本当の囲い者(傍点)だと思っているのだろう。そう思われていた方が都合が良い。
「おい」
だが、今日は珍しく声をかけられた。不機嫌そうな顔をしているが、杉元を疎んじているわけではなく、人相が悪いだけだ。
「今夜は幹部だけの会食がある。当然、お前は出れねえ。メシは離れに運ばせるから、勝手に外に出るんじゃねえぞ」
部下に言われて、杉元は主の方を見た。菊田が黙って頷く。
「菊田さんがいなくても、ちゃんとメシ食わせてくれるんすね」
「あ?」
人相の悪い部下の眉間に皺が寄ると、さらに不機嫌そうに見える。嫌味っぽい言い方をした自覚はあったが、単に杉元は己の立場を改めて認識しただけだ。食いっぱぐれることなく、雨風を凌げる屋根と温かい寝床がある環境に、飼い馴らされている。
「わかってんなら、大人しくしてろ。メシが食えるだけでもありがたいと思え」
「わかってますよ。俺は仕事も与えてもらえない穀潰しだって」
そう言って、杉元は離れの方へと足を向けた。離れは正面玄関から母屋に入り、中庭の見える廊下を渡った奥にある。外の通りからは全く見えない、閉ざされた場所。菊田が外に出る時以外は、そこに囲われている。
「生意気なガキだ」
「元気が有り余ってんだろ」
仏頂面の部下へ、菊田は楽しそうに笑ってみせた。