2023年2月 不死身の杉元不死身の杉元、という男がいる。
俺が拠点にしているライブハウスの支配人に聞いたことがあった。この界隈では図らずも有名人、なんだそうだ。
身長はそれほど高くない。いつもキャップを目深に被り、顔の下半分が隠れてしまうようなネックウォーマーをしていて。更にその上からオーバーサイズのフーディを着込んでいるそうだ。ご丁寧にキャップの上にフードも被っているらしい。僅かに見える両の瞳はライブハウスのライトに反射して金色に輝いて見えるのだとか。パンツもかなりオーバーサイズのものを履いていて、見ようによってはズルズルだと支配人は言う。「でもな、俺分かるんだ」支配人は続けて言う。
「あれは身体の傷を隠すためのものなんだ」と。
不死身の杉元は全身に傷があるのだそうだ。その根拠は、僅かに見える皮膚…輝く瞳のすぐ下に顔を横断する大きな傷痕を見た者がいる、という根拠というにはやや曖昧な情報のみだった。
「それのどこが不死身なんだよ」
俺が呆れて鼻で笑ってやると支配人は「話は最後まで聞きな」と人差し指を立てた。
不死身の杉元が不死身である所以は、傷痕ではなかった。
「相手が何人であっても、必ず勝つんだよ」
界隈で有名人の、不死身の杉元を負かそうとして今まで何人もの男が喧嘩を仕掛け、不死身の杉元はその全てを退けてきた、一人で。
「気が付くと演者がケンカを煽るような楽曲を選び、オーディエンスがサークルで現場を取り囲む。恐らく不死身の杉元は周りの人々を惹き付ける何かがあるんだろうな」
支配人がまるで自分のことのように鼻息を荒くして話す。
ひっかくようなギターリフ、地を這うベースライン、破裂音を上げるスネアドラム、がなりたてるボーカル。金色にギラリと輝く瞳、残像のように軌跡を描く汗、僅かに見える拳に付着する血液…そうして静かになったライブハウスの中心はステージの演者、ではなく客席の真ん中でたった一人倒れず生き残る不死身の杉元、というわけか。それはきっと…かなり、興奮する。男なら誰しもが好きそうな話だと思う。
不死身の杉元に出逢ったら俺はどうするか…などと野暮なことを考える。恐らく戦争だ。俺は争いを好まない、というより肉弾戦に弱い。不死身の男と一戦交えようなんて一ミリも思わない。ただ、俺の思う不死身の杉元はきっと人の闘争心を刺激する何かを持っているのだ。たとえ俺のようなものでもそれは例外ではないだろう。
俺は不死身の杉元に殴りかかり返り討ちに遭う。仰向けに倒れた俺は鼻から咽頭へ流れる血の匂いを知る。それをわざと嚥下して、その味を身体に知らしめたい。図らずも滲み出る涙で天井のライトがいつも以上にキラキラと光って見えるに違いない。情けなくも動かない身体をまるで他人事のように鼻で笑ってやろう。同じ目線から今まで不死身の杉元に倒された名前も知らない男たちを同情してやろう。そして俺はそんな男たちと同じように不死身の杉元に見下ろされるんだ。その瞳は俯いているから光を映さず真っ黒であって欲しい。屍のような俺の姿を抑揚のない目で一瞥して欲しい。どうせやられるなら徹底的にやられたい。
不死身の杉元。早く逢いたい。いつしか俺はそればかりを考えながらこのライブハウスに足を運ぶようになっていた。
そして「その時」は不意にやってきた。
俺がいつものように箱に入りエネドリで割った酒を受け取って奥の壁にもたれた時。名前も知らないアマチュアバンドの、どこかで聞いたことのあるようなギターソロが始まった頃だった。客席のモッシュの中でそれは始まったのだ。明らかに曲のノリとは違った怒号とモッシュの動き。
来た、不死身の杉元!
薄暗い箱の中、人混みの中で何も見えないが俺には分かった。俺は近くの丸テーブルにドリンクのカップを置き、人を掻き分けてモッシュの中心に迫った。その間にステージのバンドはドラムとベースを主にした地を這うような音を奏で始め、箱のスタッフもライトをモッシュの中心に当てる。明らかにこの箱の主役が入れ替わった。
俺が輪に到達すると、そこは戦場だった。輪の中心には黒ずくめでズルズルの男-不死身の杉元だ―、それと五人ほどの若い男がいた。既に足元には倒れて身体を丸める男が三人、確認中もその数は増えていく。
不死身の杉元はそれほど喧嘩に強い風ではないように思えた。何度も男たちから攻撃をもらっていたから。不死身の杉元の「不死身」を支えるもの、それはそのタフさであると理解した。あれだけもらって倒れないのは尋常ではない。攻撃もかなり強力だがそれ以上の頑丈さに俺は僅かに戦慄した。
地を震わすような叫び声を上げて不死身の杉元が男を倒していく。その声に呼応して周囲の観客も叫ぶ。いつの間にか俺も叫んでいた。全身の産毛が総毛立つような興奮がそこにはあった。
キーン…
ギターの残響で我に返る。曲が終わり箱の中に静寂が生まれる。興奮で霞んだ視界が戻ってきた時、もう輪の中には倒れ込む男たちと…一人立つ不死身の杉元の姿。モッシュの外野も中心部の荒れ地を見て閉口していた。そしてただ、スポットライトだけがやけに煌々とその場を照らし続けていた。
「不死身の杉元…」
俺はその名を口にする。それほど大きな声ではなかったが静まり返った箱の中にそれはやけに大きく響いた。
「お前も来るか…」
乱闘の興奮が冷めずやや上擦った声で男、不死身の杉元が言う。その身体からは薄く湯気が立ち昇っていた。
「…」
俺は声が出なかった。動くこともできない。ただ、不死身の杉元に出逢えた興奮のためか下腹部が緩く勃ち上がるのが分かった。
「来ないのかよ」
小さく吐き捨て不死身の杉元が俺に向かって動き出す。遠巻きに見ているはずの観客が、それでもその動きに合わせて更に輪を広げ、乗り遅れた俺が輪から中に弾かれる形になった。ああ、不死身の杉元が俺に…俺を認識している。無意識にあふれ出す唾液を嚥下する。ごくり、と骨を伝い脳に音が響く。なのに何かが渇く。身体中がヒリヒリする。不死身の杉元が俺の前に…あと三、二、一歩。お互いの靴の爪先が触れ合いそうなギリギリの所で立ち止まった。
「さあどうする」
俺より少しだけ高い位置から真っ黒な瞳で俺を見る。
不死身の杉元…不死身の杉元!
「お前と…セックスしたい」
不用意に口から出た言葉だった。
「は?」
「は?」
俺は不死身の杉元に出逢ったらどうすると言っていた?戦争じゃなかったのか?徹底的にやられる覚悟だったはず。それなのに。それでも。俺が不死身の杉元に突き動かされたのは闘争心であることには間違いはなかった。それと同時に、それ以上の「生」を求めた結果がこれだった。
不死身の杉元と対峙した時、真っ先に思ったことは「死にたくない」だった。この現代日本でそう簡単に殺人はできない。分かっている。分かっていても手負いの獣を前にしたら本能がそう叫ぶ。今がまさにそれだった。この感覚がきっと今までこの男に倒された者たちの本質であったのだろう。行動原理は「恐怖」だ。だが俺はそれを諦めた。「死んでもいい」と思った。俺は、不死身の杉元に、殺されてもいい。そう思った。ただ、せめて。最期に「生」を味わいたいと。生きていることを味わいながら殺してほしい。そうして出てきた言葉が「生」で「性」。なんて陳腐。でもこの状況ではこんな言葉しか出てこなかった。
「そんなこと言われたの、初めてだ…あっ、」
俺の言葉に驚いて立ち尽くす不死身の杉元は、その瞬間「ただの」杉元になった。俺は杉元の被っているフードに潜り込むように顔を寄せネックウォーマーをそっと下げた。
ああ、両の頬にも縦に傷があるのか。
まだ誰も見たことのないその素顔。
生き残った俺だけの。
「不死身も一皮剝けば普通の男だ」
そう呟いた時、お互いの唇の表皮が僅かに触れ合う感触があった。微かに血液の匂いがしてまた身体がヒリヒリと渇いた。俺はそれを無視して杉元のネックウォーマーを元に戻した。
「さあどうする」
俺は不死身の杉元を見上げた。少し見上げる俺の瞳はきっと、スポットライトの光を受けて金色に輝いている。