ふしぎなねずみその画家の男は頭を悩ませていた。売り出し中の身である為稼ぎも少ない。それなのに顔料の高騰で思うような色を出せない。美しい青マリンブルーの原料となるラピスラズリを買う為に美しい金髪を短くなるまでバッサリと切って売りに出したが、ほんの僅かしかないラピスラズリは小さく細かく砕いても減ってしまう。考えなしに髪なんて切るものではなかった。この髪がまた伸びるまでどれだけ時間がかかるのだろう。何枚も絵を売った所で高価なラピスラズリには届かない。
「なぁ!そんなにマリンブルーを使いたいのかい?」
足元から小さな声が聞こえてきて男は驚いて周囲を見回した。
「……誰だ?」
「此処だよココ!オイラはここだよぉ!」
チュウ、と時折鳴くそれを男の目が捉える。
頭部の一部の毛が緑色の不思議な鼠がちょこんと男を見上げていた。
「――オレは幻覚でも見てんのか?とうとう喋る鼠なんか見ちまうなんて」
「酷いぜアンタ!折角恩返しをしにやって来たのに!」
そう言えば。画廊にしようと使われなくなったこの屋敷を買い取った時、弱っていた鼠になけなしのパンをあげたような気がする。
「おい。恩返しなんか要らねぇ。オレのギャラリーを荒らすな」
画家が鼠をつまみ上げると鼠はじたばたと足を暴れさせた。
「そ、そんな事しねぇよぉ!あんたが困ってるみてぇだからあん時のお礼に助けたいだけなんだ!」
「ハン!そこら辺のモン齧るしか能のねぇ鼠がかよ?」
画家の男、プロシュートがパレットの上に鼠を乗せると鼠は鼻をひくひくさせて得意げに腰へ手を当てた。
「これでも先代此処に住んでた芸術家から色々教わったんだ!そんな暮らしがずっと続くと信じてたのによぉ。気づけば1文無しになってここを出て行く羽目になっちまって……。だからオイラ、あんたまでそんな目に遭わせたくねぇんだ!」
小さな鼠の訴えに画家の男は根負けした。
「分かった分かった。オメーの事情なんか知ったこっちゃねぇがオレだってこの屋敷を追い出される羽目になったら困る」
「オメーじゃねぇやい!オイラはペッシだ!」
「だったらオレにだってプロシュートって名前があんだ。で、ペッシ。おめぇに出来る事はあんのかよ?」
するとペッシは森から集めてきたらしき小さな木片を前歯で齧り見事な木製コースターへ仕上げた。
「組み立てさえしてくれりゃミニチュア家具だって作れるぜ!」
ペッシの言葉にプロシュートはやれやれと溜息を吐いた。確かに出来はいいし素晴らしい作品ではあるが大した価値の付かなさそうな代物ばかりだ。
「ペッシ、オメー大道芸鼠に転身した方がいいんじゃねぇか?」
「ちょっと!同じ芸術家として聞き捨てならねぇぜそりゃあ!オレ達は互いに切磋琢磨し合いながら、栄光を目指すんだよぉ!」
プロシュートは半信半疑でパトロンの元へ自分の絵とペッシの作品を見せに行った。するとパトロンは大いに気に入ってしまったらしく高値で買い取って貰った。このままではペッシの方が才能のある芸術家として売れてしまうのではないかとプロシュートは焦った。意外と身近に居たライバルの存在に男はその金でラピスラズリを手に入れ、理想の青で最高の絵を描き出してみせた。感謝の意味を込め絵の隅にこっそり鼠を付け足して。
プロシュートは少しずつ画家として成功するようになった。ペッシもまた姿なき芸術家として名を馳せた。ペッシが居る事でずっと孤独だったプロシュートの生活はすっかり変わった。もっと良い場所で暮らさないのかと屋敷の主から持ち掛けられたのを拒んだ程だ。
それからどれ位経ったのだろう。ペッシは何故かプロシュートが呼び掛けても壁の穴から出て来ない事が増えてきた。そもそも自由気ままなペッシの事だ。きっといつかはふらりとギャラリーに戻って来るだろう。画廊に置かれたキャンバスのベッドはペッシのお気に入りなのだから。
ある日プロシュートはそのベッドを滅茶苦茶にしているペッシの姿に固まって絵筆やブラシを落とした。その音にびくりと毛を逆立てるペッシ。
「ふざけんなよペッシ!オレがお前の為に作ったやつだろうがそれは!」
かっとなってペッシを手で掴むとペッシはポロポロと泣き始め、チュウと悲しげに鳴いた。
「ご、めん、なさい……。オイラ、オイラーー。もうすぐ人間の言葉を話せなくなる」
プロシュートは息を飲んだ。嘘をついてるようには見えない。
「オイラに掛けられた魔法だったんだ。プロシュートが画家として成功するまで、人間の知恵を与えて言語能力を授けるって」
プロシュートは強く握りかけた掌をそっと緩めた。
「何でだよ……どうしてそこまで、」
「あんたの、ラピスラズリのような瞳が好きだから。一目惚れだった。笑っちまうだろ。オスの鼠が人間の男に恋をするなんてよ。でももうお別れだ。オイラはただの鼠になって、きっとプロシュートの事も忘れちまう。こっそり居なくなろうとも考えたけど、あんたと過ごしたこの屋敷から離れるのが辛いって思っちまった」
手の上で蹲るペッシをプロシュートは指先で撫でた。
「お前にその魔法を掛けた野郎は?」
「へっ?」
「そんな制限無効だ無効。そんな中途半端な魔法があるならよぉ。おめぇを人間にしてやる事も出来る筈だ。オレはな、おまえが居ねぇ人生クソ喰らえなんだよ。ペッシ。オメーが雄だろうが、オレの事愛してるってんなら、オレはちゃんと応えてやりてぇんだ」
こうして、プロシュートは遂に屋敷を手放し、ペッシと共に外の世界へ飛び出した。
ペッシに魔法を掛けた魔法使いを探す為に。
もし、貴方が鼠を連れて画材を肩へ下げた旅する男と擦れ違ったのなら、ひょっとしたら彼らなのかも知れない。