これはキスじゃないまだすぐには落ちないであろう夕陽が教室を燃やすように染め上げている。
先刻の授業が よほど退屈だったようで、猪里は自席で すやすや眠りに落ちている。
連日の部活による練習疲れもあるのだろう。周りの誰もが そう自然と察して、起こされないまま、授業が終わっても猪里は そのままの姿で居た。
しばらくはテストの予定もない。クラスメイト達は それぞれ皆違うペースで、でも確実に帰っていって、最後に猪里だけがポツンと教室に取り残されていた。
それがさっきまでの事なのに、なんだか今は酷く遠く感じる。
「…猪里」
薄いオレンジに染まった教室の中に 自分の その声だけが響いた。
声の反響を自分の耳で受け止めて、改めて確認する。2人きりである事と、猪里が きちんと熟睡している事。
それだけの事で、教室がいつもより広く感じた。
まるで教室ごと、別世界に転送されたみたいだ。何からも隔絶された2人だけの世界に。
「猪里ちゃん。」
…あんまり連続でこう呼ぶと怒るんだよな。
起きてたら、だけど。
「猪里」
オレは"いのり"って名前がすきだ。語感が良い。だから口からつい滑り出ていってしまう。
「猪里…」
自分の中では努めて優しい声を出したと思ったそれは、口から出たら なんだか弱々しくて縋るようだった。
それが少し嫌になって、すぐにかき消したくて顔を近づけた。
当たり前だけど、本当に寝てる。
鼻腔を擦る呼吸音だけが微かに聞こえてくる。規則正しい呼吸の度に、少しだけ身体が動くが、それ以外はぴくりともしない。深い眠りだ。目にうすく瞼を乗せ、唇が少しだけ開いた安らかな顔。
鼻先が触れるくらいまで近付くと、微かな猪里自身の匂いがした。
よく目を凝らすと、首筋の血管が脈打っているのが見えた。猪里が生きてる証拠の脈。もしここを噛みちぎったら、と思うと何だか不思議な気持ちになった。
少しだけ息を止めて、猪里の首筋に そっと自分の唇を押し当てる。
唇はすぐに自分とは違う皮膚の新しい触感を得た。
瞬間、自分と猪里の少しだけある体温差が、バターみたいに溶けて混じり合っていくのを感じた。
まるで、自分の一部が猪里になったみたいだった。そうすることが自然かのようにすっと目を閉じてみた。ただ暖かくて柔らかな場所。
きもちいい。
ずっとこうしていたい──・・
そんな気持ちが通じたみたいに、眠り続ける猪里。
まるで永遠みたいに。
これはキスじゃない。
心のなかでそう思う。
何度も何度も、呪文みたいに繰り返す。
そう、これはキスじゃない。
これはキスじゃない。
これは恋じゃない。