事実 長い髪が好きというわけではないようだが、ハン・ジュウォンは明らかに、ドンシクの伸び切った髪に惑わされている。
まだ恋人同士になる前に一度、このくらいの長さでビデオ通話をした覚えがある。
ドンシクにわざわざ顔を見せてくるのはミンジョンくらいだったから、嬉しいやり取りだった。残念ながらドンシクは話している間に眠ってしまったが、目覚めた時ジュウォンの寝顔が画面の向こうにあって、どうしようもなく愛おしい気持ちになった。
もう誰も喪いたくないという気持ちとは違う彼への愛情が溢れ、胸がいっぱいになった。
お互い電話をするにも遠慮がある状態を変えようと、あの時からもっと繋がれるように意識した。
「髪が長いの、見慣れない?」
ソファでニュースと天気予報を観ているドンシクを、風呂上がりのジュウォンが立ったまま、ぼんやりと眺めている。
「あ……すみません、じろじろ見てしまって」
見惚れているというのは違うのかもしれない。妙に真剣に何か考えている様子だ。
「好き?」
「えっ」
「好きなら秋冬はこのくらいにしとこうかな」
茶化して反応を見るのはあまり良くない手だが、ジュウォンの本音を引き出すためには有効だ。
「あの……」
「うん」
否定はされない。
まだ何か考えている。
「ちょっと、髪に触ってもいいですか?」
「うん?どうぞ」
触れたいだけならそうしたらいいのに。それともどこか乱れていたのだろうか。首を傾げたら、ジュウォンは改めてドンシクに向き直る。
「ヘアメイクをしたいって意味です」
「ヤー、なるほど。おしゃれ心がうずいて見てたのか」
「欲を言えば、着せ替えして撮影したいです」
はにかむようにするのは、笑顔を抑えているのか。
「あぁ、それか」
彼の前ではいつもより服装に気を使うことにしているのだが、そういうこととは別に、着せたいおしゃれな服というのがあるらしい。
「ドンシクさんに似合いそうだなと、選んである服があって」
誕生日に服を選んでプレゼントしたいと言われ、試着室をはしごして散々な目に遭った。
服を着替えることが意外と疲れると知った。
さすがに選んでもらった服は着心地も良く、手持ちの服にも合うし、ジファたちにも好評だった。ジュウォンからのプレゼントだと言うと納得されるので、彼の方がドンシクよりセンスがいいのは確かだ。
「選んであるって、わざわざ買ったの?」
「元々あった服も含めて……プレゼントにするほどのものではないので、泊まった日に着て帰ってもらおうかと思って」
そういえば確かに、泊まった時にジュウォンが置いておいてくれる着替えをそのまま着て帰ることはある。今着ているのもまさにそれで、いつもの場所に置いてあった服を着た。
襟ぐりが広くゆったりした袖の、黒いワンピースみたいな服だ。寝巻にしては高そうだなと思ったが、どうせすぐ脱がされるし、下をはくのが面倒で、それだけ着ていた。
似合うだろうと思って置いておいて、似合っているのを確認されていたのだ。
さっきみたいに黙って見つめている時は、ずっとそういうことを考えているのか。
「あなた、本当に俺のファンなんだな」
クローゼットから服を取り出しているジュウォンにそう声を掛ける。
「恋人ですから、当然では?」
茶化しても無意味だった。確かに今なら自分もジュウォンのファンといえばそうか。
初めはタイプじゃないと茶化した。外見ではなく態度の話だが、今はどちらも好きになれた。
「そんなに何着もあるわけじゃないなら……」
「……」
腕いっぱいに服を抱えたジュウォンと目が合って、くらっとした。
金銭感覚の違いはわかっていたが、まさか全部買ったのだろうか。
「待ってそれ、いくらすんの?俺が払える額なら買い取るつもりだったけど」
ジュウォンはベッドに次々と服を広げ、組み合わせていく。
「このジャケットなんかは僕には小さかったのを取っておいたものなので、そういうのはノーカウントです」
「それでも普段俺が着てる服より高そうだ」
「だって!似合うんですよ絶対に。僕はまた買えばいいから」
やっぱり安物ではなさそうだ。言う通りに着てみれば、驚くほど着心地がいいから困る。
「じゃあそれ着て外でご飯食べよう。奢るから」
「食事は僕が作りたいです」
「その食材だって結構するよね?」
「僕の趣味ですから、予算は気にしないでください。無理や無駄遣いはしていません」
むくれている顔も好きだが、一方的過ぎるといつか歪みが生じる気がする。
「ジュウォナ。一緒に買いに行って、自分のは俺が払えばいいだろ。食材は割勘で」
「じゃあ……次からそうします」
不満ではなく、自分が加減を間違えたことを反省している顔になる。
「迷惑なわけじゃない。俺だけもらいすぎな気がして」
ファンか――確かに、自分は彼にどんどん甘くなるし、彼もそうなのだ。
褒め過ぎではないかと思うが、悪い気はしない。浮ついた口説き文句などではなく、全部本心から言っているとわかるからだ。
不幸に見舞われた間に得られたはずの日常や幸福を埋めてくれようとしているのだと。
「僕がしたいことと、あなたが欲しいものが噛み合っていないなら、あなたが欲しいものを優先します」
「でも俺、基本的にあんまり物欲がないから。車関係だともっと高くなるし――」
何かお礼をしたいと言われても何も浮かばない。
大体、この部屋に泊まりに来れば何不自由なくジュウォンが用意してくれて、ホテルに泊まるよりずっと快適に過ごしている。贅沢過ぎると思うが、ジュウォンの性質上、ドンシクが下手に動くのも気が引けるから仕方ない。
「知ってます。だから、着るものと食べるものならと」
なるほど。一応、実用的な物に絞ったというわけか。
「そっか。ちゃんと考えてくれてたんだね。あなたが楽しそうで、嬉しそうなのはいいんだけどさ。俺は何もあげられないのが少し心苦しい」
「僕はあなたから……無償の愛をもらっています」
不意に、真っ直ぐな愛の言葉が囁かれる。
彼はもっと愛されるべきだと思って、自分が愛を注げるとわかったから、そうしているだけだ。そう望まれているなら、それに応えたいとも思った。お互いそうなのだ。
少し困って見つめる、ジュウォンのその目に弱い。
「着心地のいい服と美味しいご飯か……確かに、あなたの愛って気がするな」
根負けして、少し譲歩する。自分だって確かに、自宅にジュウォンが来れば同じようにしたくなる。
「自分の美しさの力を知ってほしいのかもしれません」
いい声で真剣にそう言われ、驚いて呆れる。
「凄いこと言うなぁ。情熱的」
照れはいつも遅れて来る。
「事実ですから」
「事実」
成人してから、自分を不細工だと思ったことはない。はったりの利く顔なのはある程度は自覚して、武器にもしているが、この整った若者に断言されるほど『美しさの力』があるとは思えない。
「あなたの選んだ服も、あなたらしくて好きです。それはそれで魅力だと思うし……僕がいろんなドンシクさんを見たいだけです。僕が選んだ中でも、あなたの気に入るものがあればそれが一番なんですけど」
思ったより考えてくれているようだ。きっかけを待ち過ぎたのかもしれない。
髪がこの長さになるまで虎視眈々と機会をうかがっていたなら、相当の執念だ。
「表現の幅ってこと?誕生日に買ってくれた上着は凄く気に入ってるよ」
「それも嬉しいです。ごめんなさい。いつも加減がわからなくて」
過剰に思えるのは、それだけドンシクに夢中ということだろう。性格上、止められないのもわかる。そういう極端なところも否定したくはない。
「わかった。とりあえず着るだけ着てみる。髪切ったら似合わなくなるかもしれないけど」
「それは僕も考えたんですが、多分、額を全部出すかどうかがポイントです」
ジュウォンはてきぱきとクローゼットから姿見を出し、ドンシクの前方に置いた。おもむろにオイルのようなものを手に取って、ドンシクの髪の分け目を変えていく。
「へぇ、なるほど」
額にかかっていた髪が周囲に流れ、確かに清潔感が出た。
髪を整えてもらうのは、思ったより心地好い気がする。
納得したのを確認すると、さきほどベッドに広げていた服を何枚かソファにかける。
「あなたが好きそうだと思って買ったのは、この黒いサルエルパンツと、白いチュニックです。着替えも楽だし、くつろいでも大丈夫。生地が柔らかいので着心地もいいです」
言われるままに着替え、姿見の前に立つ。髪の長さに合うというのがわかってくる。
「カンフースターみたい」
着心地もいいし、何より足が楽だ。さっきまで意固地になりかけていた自分を反省する。
ドンシクの無頓着なコメントにも特に気分を害した様子はなく、ジュウォンはやんわりとドンシクの袖を七分袖くらいの長さに巻いた。
「手首を出すと少し垢抜けます。着けないでしょうけど、こういうブレスレットとか、アンクレットを着けるのもいいと思います。袖をのばすなら、襟元は開けると素敵です」
次々と実践して見せて、いちいちその通りになることに感心する。
「おぉ……おしゃれだな。でも、出掛けるならポケットがもっと欲しい」
ドンシクはバッグを持たない。冬場は上着に何でも入れるし、夏場はボトムのポケットに物を詰め込んでいる。
「じゃあ、このジャケットを。肩幅のバランスがいいものならなんでもいいですが、僕にはちょっときついけど、これがちょうどいいと思います」
「わ〜、型破りな指揮者っぽい」
かなり上級者向けな装いだが、モノトーンで揃えているので気恥かしさは無い。多少ドレスコードを気にした方がいい場所にも行けそうだ。
少し楽しみ方がわかってきた。
「気温によってはこれを首に……足元は涼しげで軽いものがいいので、あなたの持ち物なら、デッキシューズかレザーのサンダルがいいかな。浅くて柔らかいローファーがあるとベストなんですが……似合いますね、本当」
細かい柄の薄いストールを首に巻かれ、ファッションの力を目の当たりにする。
「これが『事実』かぁ。でも、喋った瞬間台無しになるな、胡散臭くて」
「それもまたアーティストっぽくていいですよ」
「他は?」
オーバーサイズのざっくりしたニット、白いジャケット、黒いシルクのシャツ。次々と着せ替えられるが、確かにどれも似合ってしまった。
ジュウォンはドンシクが姿見に映る自分を眺めている隙に、何やら撮影しては満足げな顔をしている。
ひと通り試着してから、湯上りに着ていた服に戻ったところで、ゆっくり隣に座った。
「どうでした?」
「俺の負けです。言いたいことはわかった。最初に着たセットとニットなら、自分でも照れずに着られそうかな。あと今着てるこれは、湯上りにちょうど良くて好き」
晴れやかな顔で口角を上げられ、素直にかわいいと思う。最近、隙と笑顔が増えた。
「ポケットが必要なら、夏はカーゴパンツかサファリパンツでも合うと思います。あ。この前言っていた俳優っぽいサングラスも、良かったら使ってください」
着せながら妥協点を探った結果、『使ってください』に落ち着いたようだ。
ジュウォンの柔らかい表情が眩しくて、自分も表情を和らげる。
「以前ビデオ通話した時、黒のVネックでしたよね。あの時、鎖骨がきれいだなと思って」
「鎖骨?」
急に自分の身体のパーツに言及され、どきりとした。
「え?」
「……ごめん、急に照れた」
「すみません。そういう目でばかり見ないようにはしていますが」
「恋人に服を買うのは脱がせたいからとか言うけど、あなたは着せる方が好きみたいだな」
「……」
失言だったか。だが面白い。
「無言?あははは!健全な男子だな。どれ?どれが好きなの」
「なんですか急に、うるさいな」
照れるついでに、思い切り笑い飛ばしてしまうのがいい。
「萌え袖好きならニット?あ、でも彼シャツっぽいのはチュニックだ。で、この服はどっちも押さえてる。さっき固まってたのは、下はいてなかったからだ。わかりやすいな」
「自分もそれを選んだでしょ」
赤くなった耳がかわいらしくて、愛おしい。
彼のこういう表情を独り占めできるのなら、プレゼント攻撃を受け入れるのも有りだ。
「うん。参りました。あなたは俺より『事実』を把握できてる」
ジュウォンといると、純粋できれいな自分でいられるのは確かだ。
ひとしきり笑ってから幸福感に任せて身体を寄せると、ジュウォンはドンシクの髪を耳にかけるように梳いて、ゆっくり口付けた。