友人「お隣に入って行った人、誰だったかなぁ」
パク・ジェヒョクはそう言いながら靴を脱ぎ、部屋の主であるチェ・ヒョンスを振り返った。
「ドンシクさん、ですかね」
ジェヒョクを迎え入れた時、隣家の方でも話し声が聞こえた。多分、彼だろう。
「ん。そう呼ばれてたな」
エレベーターから一緒だったなら、数分考えても思い出せず、もやもやしているのか。
「知り合いじゃなくて、ニュースか新聞で観たんじゃないですか?ほら、警察庁の――このマンションにもマスコミが来てたから。あなたが好きそうな事件だと思ってました。権力を恐れず汚職を暴く人が好きだったでしょう」
隣家に住むのは件の長官の息子、ハン・ジュウォン。その後の展開も含め、ドラマチックな事件だった。イ・ドンシクはこのところよく、ジュウォンを訪ねて来る。
「あー!それだ。二人で逮捕だなんだってやってた警察の。でも、そんな確執があるようには見えなかったな。あれは、どう見ても自宅デートの雰囲気だろ。彼氏だな」
ドンシクを迎え入れるジュウォンはいつも、はにかむような顔でいる。普通に笑むより恋慕を思わせる独特の表情だ。
「事情と人間関係は複雑だけど、恋人同士だそうです。よく泊まって行くし」
ヒョンスにも同性の恋人がいることを明かしたら、ジュウォンは色々と打ち明けてくれるようになった。
「へえ。そういえば前に見た。早朝にお隣さんを見送る気だるい感じのドンシクさんを――あの時は髪が長くて、その事件の人だと気付かなかった」
なるほど、髪型が聴聞会の頃と同じくらいになったから気付いたのだ。
「エレベーターで何か話したんですか?」
「いや、挨拶しただけ。何度か会ってるし、向こうもなんとなく様子をうかがってくれてたから、あれ、もしかして知り合いか?って思って」
向こうは向こうで、ジェヒョクをどこかで見たと思っていたかもしれない。あるいは、もう誰なのか理解しているのではないだろうか。
「気が合うかもしれませんよ。あなたと少し似てる。服の趣味とか」
二人とも、ヒョンスとジュウォンがあまり着ない、ミリタリー系のジャケットを着ているイメージだ。
「じゃあ、お隣さんとお前は男の趣味が近いってことかな」
ジェヒョクはそう言ってにやりとし、ヒョンスに軽く口付けた。
ヒョンスが自然な振りをして応じても、内心はどぎまぎしているのに気付かれているだろうか。釣り合っていないと思われるのが嫌で、動じないように背伸びしているのを、見透かされている気がする。
「そういう……飄々としてて食わせ者っぽい感じが似てます」
ドンシクは確かに好みのタイプだと思うが、あくまでも基準であるジェヒョクに近いところがあるから、というだけだ。
ジェヒョクは酒に弱いヒョンスでも飲める果実酒と、見舞いの時のようなちょっと高めのアイスクリームをいくつか買ってきてくれたようだ。流行り物ではなく定番で、賞味期限が気にならないちょっとした手土産の上手さは、歴代の恋人から学んだものか、天性のものか。何にせよ、自分には無いスキルだ。
「お前とお隣さんの方がタイプは似てるんだろ。同じマンションに住んでるんだし」
今日は外で軽く食べてから部屋でゆっくり過ごす予定だが、まだ明るい。ジェヒョクはすぐにソファに座らずシンクに寄り掛かって、ヒョンスがコーヒーを淹れるのを眺めている。そういう距離感で親密な空気を大事にするところも、昔から変わっていない。
「そうですか?あんまりピンと来ないな」
「ほら、世間的には恵まれた生活をしてきたエリート育ちの好青年だろ。他人にあんまり興味無さそうで誰にも期待してないから、わざわざ言ってやる必要もないと思って黙ってる」
「そんなの、見るだけでわかりますか?」
やはり、見透かされている。
ジェヒョクはカップが二つ満たされたのを確認し、自分の分を手にソファに向かった。
「お前は人付き合いが下手なわけじゃないけどな。優し過ぎるだけだ」
「下手ですよ」
いつだって触れたいと思って目で追っているのに、触れられるのを待つ癖が抜けない。
隣に座ったら、ヒョンスの腿にジェヒョクの手が触れた。
「でも好かれてる。あの坊っちゃんは、正直過ぎて敵を作るタイプかな。でもまだ若いし、かわいいもんだ」
「僕たちも、もっと前にうまくいってたら、あんな感じだったんでしょうか」
「さぁなぁ。同じくらい仲は良かったろ。俺はいつでも馴れ馴れしかっただろうし」
片想いだと思って踏み出せなかった頃を悔やみつつ、今だからうまく付き合えるのだというのはわかっている。
「僕はあんなにかわいくなかったな」
「充分かわいくて爽やかだったし、俺ははっきりお前にもそう言ってただろ。本当に、自己評価の低さに関しては頑固だ。まあ、そこがいいんだが」
「あなたってたまに、担任の先生みたいなコメントしますよね」
それだけ見守ってくれていたのだとわかるが、もう少し大人扱いしてほしい。
「うるさいな。隣はドンシクさんがボトムかな?ふとした表情が妙に儚げで色気あるし、雰囲気ある」
当たっているが、直球のセクハラだ。
「そういうの失礼ですよ。そんなに彼に興味があるんですか?」
「お前が似てるって言うからだ。妙に親近感もあるし。しかし、うまそうな匂いがしてたな。今日、何食べる?俺たちも魚介にするか」
「お隣は今日はブイヤベースですよ。さっきお土産を渡しに行ったら味見を頼まれました。美味しかったです」
「え、そんなに仲がいいのか」
ジェヒョクは驚いて、まじまじとヒョンスを見つめた。
「彼はいつも自分で作ったお菓子とか、凄く凝った料理をお裾分けしてくれるんです。その代わり、仕事で行く先でしか買えない食材をお土産に頼まれます」
「お前――本当に人に好かれるんだな。あんな鉄壁そうな子まで落とせるのか。俺でもかなり難しいぞ」
感心しながら足をぽんぽんと叩かれるのをやんわり制したら、そのまま手を握られた。
「彼に対しては、あなたの真似をしました。前から挨拶はちゃんと返してくれていたんですよ」
「俺の真似?お前以外には、そんなことした覚えがないなぁ」
「嘘ですよ。誰かが暗い顔をしていたら、嫌いな奴にでも絡みに行くのがあなたの習性でしょ」
「習性って言い方」
意識していたわけではないのなら、無意識の美徳である。
「その優しさを勘違いして惚れてしまう身にもなってほしいな」
「俺が嫌いなやつにわざわざ優しくすると思うか?勘違いなら今ここにいない」
そうなのだろうか。
「じゃあ、人といない隙を狙って口説いていたとでも?」
「確かに、暗い顔してれば気になるし、俺が解決できるならするけど――お前は人が多いと自分のことは話さないだろ。一人でいる時なら話せると思って絡みに行ってた。中身を知りたかったから――そっちこそ、そうやって人を釣って虜にしていくくせに」
ジェヒョクは不満気にそう睨む。
「そんなことしてませんよ」
確かに、静かなところでそっと仕事や上司との関係についてアドバイスを求められたことは多かったかもしれない。でも、優しくして勘違いされるようなことはなかったはずだ。でも、もし片想いだと諦められていたのなら、きっとヒョンスがジェヒョクしか見ていないことがすぐわかったからだ。
「ならそれも習性だな。よく部屋の隅で人の相談に乗ってたろ。担任の先生みたいなのはお前の方だ。だから隣の子も心を開いたんだよ」
「彼、夜中にずぶ濡れで帰ってきたことが何度かあったので、さすがに気になってしまって。コーヒーでも飲みながら話を聞くからと声を掛けました。実際、とんでもなく大変な事件だったわけだけど」
「話って?事件の話を聞いたのか」
「いえ、一番大事な人の不幸に自分が追い討ちをかけてしまったから、会いたいのに会えない。好きになってはいけない人を好きになってしまったって」
ジュウォンは目を潤ませ、童顔の割に低く落ち着いた声で、苦しげにそう言った。
「あぁ……」
「ドラマみたいな台詞なのに嘘が無くて、僕には無い潔さに、はっとしました。人として大切なことをたくさん教えてくれた大事な人で、少しでも恩返しができればと思うのに上手くできないから、もどかしい――って」
そういう気持ちを、自分も痛いほど知っていたから。
「なるほどなぁ」
ジェヒョクは遠い目で黙って、ゆっくりコーヒーをすすった。
「あ、噂をすれば――ちょっと通話します」
「ん?」
隣人からのメッセージを見て、端末を操作する。
「もしもし、ジュウォナ?ああ、うん。聞いてみるね」
確認のため通話を保留にし、ジェヒョクに向き直る。
「おぉ?何」
「ブイヤベース、食べに来ませんかって」
「やった!カリスマモンスターのテレパシーが通じたな。それか、あっちも気になっちゃったかぁ、俺たちのことが」
「行きますか?何か他に食べたいものが決まっていたなら、断りますけど」
「行くに決まってるだろ」
肩を組まれ、端末の画面を一緒に覗き込む。
「もしもし?行きたいって。はは、いい匂いがするって言ってたとこ。うん、わかった。じゃあ後で」
礼儀正しい声が聞こえ、通話が終わる。
「かわいいな」
「ええ、かわいい人ですよ」
明るい表情に釣られて笑った頬を、ジェヒョクにつままれる。
「そうじゃなくて、お前とのやり取りが――いいな。俺にはそんな話し方してくれないのに」
「あなたは先輩ですから」
肩を組まれたままで、顔が近い。
こっちは未だにそれすらドキドキしているというのに、そんなことで拗ねられても困る。
「俺にも後輩を労るように接してくれよ。敬語で無礼なツッコミされるより、ため口でかわいく怒られたい」
「先輩歴が長すぎて無理です」
かわいいなんて言われたら余計無理だ。
「あーあ、どうせ俺が一番年上なんだろ。俺すぐ馴れ馴れしくしちゃうから、嫌われそうだな。ジュウォナは何歳?」
既に馴れ馴れしいのが凄い。ジュウォンの固まる顔が想像できてしまった。
「僕のひと回りちょっと下です。三十になったぐらいかな」
「お父さんと俺がそんなに変わらないパターンか~」
ぐにゃぐにゃとそのままヒョンスの腿に頭を預け、ジェヒョクは目を閉じた。
「大丈夫ですよ。いつもの怖いもの知らずな感じで年上っぽく兄貴風吹かせてもらえれば。見た目で向こうも大体、人柄を予想してるでしょうし」
最初は引かれて、その内、年下全員からツッコミを入れられるだろう。想像して笑ってしまう。
「お前の方がよっぽど怖いもの知らずだよ。俺たちだってひと回り近く違うんだぞ。だから敬語か、くそ」
また頬をぺちぺちと軽く叩かれる。ため口だったらそれはそれで愚痴るだろうに。
「あなたのそのノリは若い頃からだし、大して老けてませんよ。老けてもかっこいいでしょうけど」
「おい急に褒めるなよ。真顔で言われると照れる。お前と付き合うならと思って、こっちは小奇麗に見えるように頑張ってんだからな?でもお前も話すと爺さんみたいに悟って落ち着いてるけど、かわいらしいっていうか――若造っぽさ?後輩っぽさがずっとあるよな。不思議だよ」
そういえば、事件の時は不精髭でやつれた顔だった。よっぽど飛行機が怖かったのだろう。最近はむかつくほど小ざっぱりとしている。
「もう!うるさいな」
怒って耳を引っ張ったら、ジェヒョクは愉快そうに笑って起き上がる。
「それだよそれ、もっと無礼講でいこう。よぅし、ジュウォナからお前の秘密を聞き出さないと」
「やめてってば」
ジェヒョクの笑い声が隣に聞こえていたら嫌だなと思いながら、ヒョンスはぺちんとジェヒョクの顔をはたいた。