ジファ「ドンシク、ハン警部補の前ではちゃんと泣けるんだ」
ジファはそう、拗ねたように呟いた。二人で飲むのは久し振りだ。
裁判がやっと終わって、ドンシクは晴れて拘束を解かれた。ソウルの馴染みの店で、腹を満たし、酒を注ぎ合う。
「え?」
「所長は別として――なんでドンシクは、あたしの前では泣かないんだろうって思ってた」
ジュウォンがマニャン精肉店に集うあの輪に加わった頃は、ほぼ全員、人生最悪の時期だった。それからならどう変化しても、良くなるしかないのは幸いだ。
いつ会っても空気は変わらないが、不定期に集まっては、皆、少しずつはある変化を報告し合っている。
ドンシクの今の心配事は、母親の体調くらいだ。加齢に伴う不調は仕方ない。事件の解決が絶望的だった頃よりは、前向きでいられる。
「――はは」
「あたしの前ではそうやって笑って、大丈夫な振りしてたよね」
言われてみると確かに、ジファやジョンジェの前では、泣かずにいた。
ユヨンがどこかで生きていると思えない根拠を語ったあの時でさえ、憤りの方が強く、泣き崩れるようなことは無かった。
ジュウォンには、ジンムクの家の前でミンジョンの指を確認したあの時にもう、涙を見せてしまった。
所長が殺された時は全部さらけ出してしまったから、隠す必要を感じない。
ドンシクが取り乱すタイミングにいつもジュウォンがいて、冷静でまっすぐな眼差しが正気を取り戻させてくれた。まだ絶望するには早い――そんな目だ。
誰より、お互いの表情を知っている相手と言えるのかもしれない。
「ごめん。自分でもよくわからない」
申し訳ないような気持ちになるものの、意識していたわけではない。
ジファはマッコリ臭い息を長く吐いて、いつものように、ひと区切りつけるような顔で頷いた。
「良かった」
「……うん?」
テコンドーで鍛えられた気持ちの切り替えの上手さが、ジファの強みだ。事実と自分の感情を切り離せるから、辛い仕事にも立ち向かえる。
「ユヨンのことだけじゃなくて、お父さんとお母さんのことがあってから、ずっと、あんたは誰にも懐かない野良猫みたいになっちゃったから」
野良猫?随分と小さな動物にたとえられたものだ。
不満ながらも、話を続ける。
「所長には、懐いてただろ」
「集まれば自分も仲間に入ってご飯も食べるし、信用もしてくれるけど、誰も巻き込みたくないって感じの距離だった。サンヨプのことがあってからは特に――みんなにそうだったから単純に、精神的な問題だと思ってたんだけど、違ったんだなぁって」
「違った?何が」
「仮にも相棒だっていうのもあるんだろうけど、あたしも皆も、安全距離から遠巻きに呼ぶだけで、あんたの縄張りに踏み込んで助けようとはしなかった。傷付けたくないからだと思ってたけど――あんたを救えないことで、自分が傷付きたくなかったのかも」
「あぁ……」
ドンシクも、解決できないなら不用意に近寄らない方がいいと、人を遠ざけていた。お互い傷付くと無意識で知っていたから。
与え合えるものだけやりとりして、それ以上は踏み込まずにいた。ジファは悔いてもいるようだったが、何も間違っていない。むしろ、優しさからの距離感だろう。
「ハン警部補は、嫌われても何しても踏み込んで行って、威嚇されても捕まえようとしてたから、あんたは、ハン警部補を頼れたんだよね。傷付くことを恐れなかったから」
傷付いても自分は自分だと、彼は知っている。
傷付いて変化しても、自分の人生からは逃げられないと――絶望を知っているからこそ、生き続けることから逃げない人。絶望を与えた実の父に、さらに絶望させられるあの時までは。
「巻き込まれたわけじゃなくて、あの人は常に、自分の足で歩いていたからかも」
「……そっか。あたしは、論理と合理性に寄っちゃうからさ。身内には先入観があるとわかってても、あんたが言ったまま受け取るしかない。嘘なら嘘で、理由もなく嘘をつかないって知ってるから、証拠が出るのを待つしかない」
嘘かもしれないと思っても一旦は信じる。嘘だった場合も対応できる解決力はある。
「ジファはそこから、自分の倫理観と感情で采配できるだろ」
考えながら食べて、わからなくなっていた肉の味が、やっと脳に届く。
「どういうこと?」
「原因と結果があって、人がいて、人の気持ちを理解して、わかったら罪だけ見るんじゃなくて、その人が今後真っ当になるために、自分がどうすべきか考えてる。人の弱さと、人間が警察官をやる意味を、ちゃんと理解してる」
「理解できてるかわからない。たくさん間違うし」
「万が一のために市民の安全を優先せざるを得なければ、間違う覚悟もできる。そういう姿勢の話だ」
間違いを恐れてはいるものの、そうなったら腹をくくれる強さだ。
「あんたを助けて許したのは――あんたの本質を知ってるからだよ。あたしが警察官だからじゃない」
それはわかっているが、やはり、警察官の本質を体現できる素養があるからだと思う。
罪は法で裁き、償わせなければならない。ドンシクが仇討ちする可能性も、自暴自棄になって命を絶つ可能性も、しっかり考えて見張ってくれていた。
「わかってる――ありがとう。それでも、ジファが警察官で良かった」
「あたしもわかってるつもり。ありがと。色々隠してたのは、チャンジンが怪しいと思ってたせいじゃないの?あたしを煩わせないようにしてくれたし、ジョンジェにもちゃんとできて、えらいなって思った」
偶然二人を思いやるような形にできただけだ。言ったところで何かが解決するわけでもないと、効果的な時期を待っていた。結果的には、貴重な親友たちを無駄に追い詰めることにならず、運が良かった。
ドンシクは、ジョンジェが自分に誠実でないと知っても、彼を見捨てることができない。
彼の弱さは取り除けない、彼らしさだからだ。
もし自分があの家に生まれていたら、何かしら歪んでしまったかもしれないとも、思っていただろう。
ジファがドンシクを見捨てられないのも、同じ感覚ではないかと思う。
もし自分の家族が行方不明になっていたら、もし自分が犯人だと疑われてしまったら、何より、もし自分もユヨンのように、襲われてしまったら――ジファが警察官になったのも、事件のことがあったからだ。
ジョンジェが警察官になったのは無意識の保身でもあるはずだが、幼馴染三人で同じ職業を選んだ。そのくらい、お互いを自分の一部か、分身のように近く感じていた。
「チャンジンの裁判はまだあるよな。罪状は揺るぎなくても、主犯が捕まった以上、減刑は望める。まあ、余罪が多くて、減刑しても大して変わらないのかもしれないが、結婚当時の状況については、お前も証言するんだろ」
「……罪滅ぼしかな。あいつが悩んでた時、そこから抜け出す手伝いができてたら、ここまで間違わずに済んだ。止められる立場にいて、助けを求められてたのに、気付けなかった――今からでも罪を悔いて、怪物じゃなくて人として罪を償って死ぬまで生き直すつもりがあるなら、手伝ってあげてもいい。殺された人は戻って来ないし、夫婦に戻ることもないけど」
「ジファが責任を感じる必要はない」
「イ・ドンシク。あんたに言われたくない。ずっと、あんたの責任でもないことを背負ってきたくせに。いいんだ。その方があたしの気が楽になるってだけ。ただのエゴだよ」
「ジファを好きになれるなら、人を見る目はあるはずなのにな」
夢じゃなく、意地や欲で突っ走ったあの男がジファに惹かれたのは、自分にはない強さに憧れたからだろう。その潔い美しさに惚れていながら、ジファを見習う勇気より、逃げる勇気より、悪事を犯す偽物の勇気を選んでしまった。
「あいつがちゃんとあたしに助けを求められてたら、本当の味方になれたのかもしれない。もっと前に軌道修正できた」
もし彼があの時、積み上げたものを全て失う道を選んでいたら、ジファは彼が立ち直るまで支えたはずだ。
「ジンムクが俺の周りにいたのも、それかな。本当は助けを求めてた?」
「あいつは、あんたになりたかったんじゃないかな。もし意図的に、あんたの周りの人を狙ってたんならね」
「なんで俺?」
「あの邪悪さは生まれつきだと思いたいし、全部あいつが悪いのは間違いない。愛されて育ったあんたを妬みながらも、あんたのことを好きだったんじゃないかな。あんたと同じように愛されたかったのに、誰もそうしてくれない。だから傷付けて、支配した気になった。病的だとは思うし、実際そうだったのかもしれないけど、隠蔽して、弱者を演じて、暴力だと認識しながら、加害した。善悪の判断ができたんだから、紛れもなく犯罪者だ。あそこまでの邪悪さは、病だけで生まれるものじゃない」
自分がドンシクより凄いのだと、思いたかったのだろうか。ドンシクにそれを知らせたくて仕方ないくせに、巧妙に隠し通した。
「スリルを最大限に味わいながら、俺を見張るためだろ。それに――俺をうまく追い詰めたら、俺があいつみたいな怪物になると思ってたんだ」
「怪物にならなくて済んだのは、ナム所長のおかげか」
まだ癒えない傷が、ぎゅっと胸を締め付ける。
「所長にはいつも、これ以上迷惑をかけちゃいけないって思ってた。でも、俺もやろうとしてたことを所長にちゃんと全部話して、助けを求めてれば良かったのかもな」
「できてたよ。あの人はあんたが何をしようとしてるか知ってたし、そうしないと呪いが解けないこともわかって、見守ってた。いざとなったら自分を犠牲にしてでも、あんたを守ろうと覚悟もしてた。守りきれなくて無念だったとは思うけど、あんたを恨んでなんかいない」
所長の想いはこれからも、ドンシクを生かそうとしてくれるだろう。
事件を解決したら死ぬことすら考えていた自分に、生きる勇気をくれている。
「どうして俺だけこんなに運が悪いのかって、毎晩思ってた。そしたら所長が、お前は運がいいって言うんだよ。殺されてないし、逮捕されても釈放されたし、相棒が暴走しても足を撃たれただけで死なずに済んだ。お前は充分頑張ってるから、真っ当な職について、うまい肉が食えるんだって」
「確かにそうかもね。て言うかさぁ、あたしは隠蔽工作の実行犯の元妻だし、ジョンジェは自分が犯人でもあって、母親が隠蔽工作してたし、ジェイは被害者の娘で、ハン警部補は黒幕の息子だよ。全員運が悪くて、全員運がいい。だから、助け合えたんだ。あれ、ジフンが入ってないな。あのストーカー野郎は、全く」
ジファはそう言って、空気を和らげる。
ジフンはさながら、遺体発見機だった。ある意味、一番ツキはあるのかもしれない。
「所長は、ユヨンとサンヨプの死を悲しめるのは、俺がちゃんと信頼関係を築けてたからだって。だから、世界を恨むんじゃなくて、人の悲しみや痛みを理解して人を助けて、その人に不幸があったら悲しめる人間になれと、諭された」
「あたしもそう思う」
「どうして、ハン警部補なんだろう」
自分が、素直に泣けたのは。
「ハン警部補の本質を無意識に読み取ったから?まっすぐで、あんたと同じくらい運が悪くて、でも、世界を恨むんじゃなくて、世界に勝とうとしてるところに惹かれたんじゃない」
「最初はちょっと、ジファに似てるって思った。まっすぐ人を見るところが」
「あたし?三白眼だから?」
はは、とドンシクは笑う。
「頭が良くて、強くて、間違っても負けても、正しい道を目指して頑張る感じ」
負けても何度でも挑んでくる。
今思えば、隠蔽が得意な父親を知っているから、隠されたものを嗅ぎ付けられるということかもしれない。
「目の前の現実しか見てないところか」
そこも似ている。
「けど、ジファには心配かけたくなくて、巻き込むのも嫌だったから、大丈夫だって笑って誤魔化した」
「知ってる。責めてるんじゃない。これは嫉妬だから。親友としての」
にやりと笑って、ジファは酒を飲み干す。
「いつも味方でいてくれて、ありがとな」
「これからもずっと、あたしはドンシクの味方だよ」
「ジファはみんなの味方だ」
酒を注ぎ、自分も飲む。
「そうなりたいと思って頑張ってきたから、嬉しい。結果的には全然出来てなかったけど」
「事件のために、どれだけ職権濫用したと思ってんだ」
「ふふ、楽しかった。でも一応、言い訳のきくポジションに留めてくれたでしょ。それ以外は、あたしが勝手にやった」
「たくさん助けてもらったし、味方っていうのは、実際何をするかじゃなく、心の支えってことだから」
ジファの判断の方が自分より正しいとわかっていたから、任せられたのだ。
「それが、家族のような関係でしょ。これからたくさん恩返ししてもらうから、よろしく」
そのあたたかさに笑って、少しだけ目が潤む。
「ハン警部補は、ジファの新しい弟か」
ジファにとっては、ドンシクも弟みたいなものなのかもしれない。
「頑張ってるよ。彼」
「うん。知ってる」
ジュウォンはまた、異動したと聞いた。
どの犯人の裁判でも、マニャン精肉店に集うメンバーは入れ替わり立ち替わり証言する羽目になって、接触できない時期があった。
裁判が終わっても、ジュウォンは積極的に連絡を取ろうとしない。元々そうだったが、気を使ってくれているのだとわかる。警察や事件のことは忘れて、本当の家族である母親との時間を大事にできるようにしてくれているのだ。
「応えてあげないの?」
「うん?」
「ドンシク。わかってるでしょ。所長と同じくらい、お互い必要な相手だって」
「俺にはそうでも、彼にとって俺が必要なのは今だけかもしれない。この先の人生の邪魔になるのは嫌だよ」
「この先の前に、今があるんだよ。あんたが関わりたいと思うなら、そうすべきだと思うよ。彼に拒否されたとしてもね」
「たとえ邪魔だと思っても、拒否されないのがわかるから、嫌なんだ」
元パートナー。罪人と警官。先輩と後輩。二人の関係を客観的に表す言葉はいくつもあるのに、どの言い方も、二人を正しく説明できない。
『元』と言うと遠すぎるように感じるし、かといって、『親友』でもない。『関係者』だろうか。日本のミステリ小説で、そんな言い回しがあった。
イ・ドンシクとハン・ジュウォン。事件を巡って目まぐるしく変化したようでいて、二人の関係はその変化も含め、最初から唯一無二で、代替不可能で、非常に私的な――『特別な関係』だ。でも、その言葉では何もわからない。『イ・ドンシクとハン・ジュウォンの関係』としか言えない気がする。言葉というのはそもそも、かたちのないものを本当に正しく説明することなどできないのだろう。
「辛くなったら、あたしが構ってあげるから。お母さんの次に付き合いが長いんだから、遠慮しないで」
「はは、頼もしいな」
ジュウォンに対しても、遠慮しているのだろうか。それも何か違う。ドンシクは、逃げている。居場所を知りながら動かないことで、逃げている。
向き合ったら――また、どんな感情が溢れてしまうのか、知るのが怖い。知ってしまったらもう、逃げられなくなるのが、怖い。怪物になるより、人間として生きなければいけなくなることの方が、ずっと怖い。
「ジョンジェのことも、細かいところはあたしに任せて」
「うん。助かってる」
ボトルで頼んだ酒が無くなったが、追加はもうしない。
時計を見て財布を出そうとしたジファを止め、伝票を手に取る。
「奢り?ありがと。じゃあ、またね」
「ああ」
何にも答えが出ないまま、ジファが遠ざかる。
酒を飲み過ぎたせいだと思い込もうとして、ふらりと立ち上がる。金を払い、のろのろとドアを開けたら、ジファはまだそこにいた。
「所長の命日にハン警部補も呼んだから、今年はきっとみんな揃うと思う。ドンシクも墓参りだけじゃなくて、顔を出して」
ジュウォンと同じ三白眼が、『逃げるな』と言っている。
「……わかった」
ドンシクはやっと腹をくくって、真顔で頷いた。