お嬢とじいじ①ほにゃ、とそいつは微笑んだ。つんと尖った唇で。
「抱いたってや」
そんなこと、出来るわけがない。この手は汚れすぎている。脅し、傷つけ、騙し、苦しめ。数々の人生を容易く狂わせ堕としてきた。他人から何かを奪い続けることしか知らない、穢れた手。
「あんたに、抱いたって欲しいねん」
思っていたより、ずっと重い。ずしりと熱く重たいのに、ふと目を離したら天に駆け上ってしまうのではないかと思うほどに、ふわふわとして、綿のようでもあって。
「だ、めだ。真島ちゃん」
手の震えを抑えながら、親と盃を交わした日。虐げられずに生きるために。生き続けるために。
「なぁんや。近江で長年極道張って直参にまで上り詰めたあんたが、赤ん坊抱くだけでそないに震えるやなんて」
己の人生を決めた日。背に、胸に、腕に。永遠とも思われる痛みと共に、己の身体に覚悟を刻んだ日。つきつきと胸を刺されながら、もう二度と、誰にも心は許すまいと心に誓ったのに。
「随分とおもろい顔を見せてもろうたモンや」
背に添えられるのはかつて傷つけ虐げた男の手。自由を奪い、暴力で支配し。いつしかこの男との短くも愉快なひと時を、少しでも長く己が檻の中に閉じ込めておけないかと企んだこともあった。
思えばそれが綻びの始まりだったのだ。こいつの命の眩しさから、目を離せなくなったことが。全て焼き尽くされるとわかっていたのに。
「俺の子ぉや、佐川はん」
光が濃い。彼は思わず目を伏せた。
***
内ポケットに突っ込んだ札束の端をがさりと指先でなぞりながら、彼はざっと勘定した。かさ張ってはいるが正味は十数万というところだろう。かつてならばものの数分で稼げた金額。なかなかどうして、今では重たい価値のある金額に思えた。
一度立ち止る。寂れた場所だ、周りには何もない。アスファルトも所々剥がれていて、昨日の雨に足元は酷くぬかるんでいる。
さてさて、どうしたものか。
ゆっくりと息を吸って、吐く。
そうして吸った久方ぶりのシャバの空気は、むせ返るような下水の匂いがした。
行く当てなどなかったが、とにかく町に出なければ始まらない。彼は被っていた中折れをぐっと目深に押し下げながら角を右に曲がった。
その時だ。
「あんた」
足早に横切ったはずの角に誰かが立っていて、不意に声をかけられた。──どうせ殺られるにしたって、ちょっと早い。ずぅっと飽かずに近所の池を眺めていて、ヤゴがトンボに羽化した瞬間カエルに食べられた瞬間を目撃して泣き叫んだガキの頃を思い出す。まさしくそれ。「死ねや佐川ァ!」と来るにはやはり、ちょいと早すぎる。彼は小さくため息をつきながらその男を無視して同じ速さで歩を進めた。
「待てや、無視することないやろ。ほんまにあんたっちゅう人は相変わらず──」
そこまで聞いて漸く彼の足は止まった。いや、止まらざるを得なかったのだ。見れば足元に過去がぬるりと絡みついている。
「面会かて毎回毎回拒否しよって、ったく。こんな辺鄙な所まで出向いとるこっちの身ぃにもなれっちゅうねん」
重くまとわりついて、もう逃げられない気がした。
「お前さァ」
とうとう観念して佐川司は振り返った。中折れを指で弾いて押し上げると、そこには腕を組んで仁王立ちをした見知った男が立っていた。黒々とした長髪を後ろにまとめ、左目に眼帯をかけている。記憶より幾分か老けて見えるのは、まとめた髪の中からピン、と一本だけ白髪が起立して顔を出していたからだろう。くたくたのシャツを着て、安っぽいダウンを羽織った姿はその違和感に拍車をかけていた。だがいずれにせよ、これがかつての犬、真島吾朗であることに疑う余地はない。
「馬鹿じゃねぇの。何度も何度も会いに来ようとしてんじゃねぇよ。一回断られたんだからさ、普通諦めるだろ」
遂に返事をしたと真島は嬉々として彼の傍までやって来た。もう逃げられぬように間合いを詰めているのだろう。
「この俺がちょっとやそっとで諦める思うとったんか?」
「確かにお前は並の人間よりは根性あるだろうよ。だが十年ってのは思いのほか長ぇ時間だ。ハチ公だってそこまで主人を待ちゃしねぇ」
「ハチ公かて主人があんたみたいなんやったら待ってへん思うで──せやけどこの俺の執着も甘く見られたモンや。十年なんて何でもあれへんわい!」
「よく言うぜ」
け、と僅かに漏らした吐息は忠犬を甚く喜ばせたようだった。
「さて!もう逃げられへんで。あんたはもう行くところなんかないやろ。俺の言うこと聞くしかないんや。この俺があんたのこと、新しい檻にぶち込んだるねん。ヒヒ、形勢逆転やな、ヒヒヒ、どや佐川はん」
久方ぶりにそう呼ばれると胸の奥がざわりとした。
「何がどやだよ。俺はお前さんの言うことなんか聞かねぇって。いいから放っといてよ」
「そうは問屋が卸さへん。もうあんたの身柄は俺が預かるって決まっとるんや。車も用意しとる。大人しゅうついてけぇへんと、痛い目見るでぇ?」
「へぇ。やってみろよ」
そうは言ったものの、互いに応酬を楽しんでいるだけでやり合う気はないのは最初から分かっていた。
「ほれ、乗ってや。遠慮せんと。ほれほれ」
いやに楽し気だ。十年前の、くそ真面目で地味で、目だけがギラギラとしていた若者が一皮も二皮も剥けたことをおのずと知る。佐川は僅かに口の端を歪めると、大人しく車に乗り込んだ──。