お嬢とじいじ➂車はぶんぶんと逞しいエンジン音をふかしながら走り出した。
「まずはお勤め、ご苦労さんでした」
「はぁ、どうも」
居住まいを正し両手を膝に置いてこうべを垂れるかつての犬に佐川はどんな顔をしていいかわからぬまま曖昧に頷いた。十年前、全ての責任を取らされて弾かれることが確実であった彼は苦肉の策で自首を選んだ。佐川組を解散し、残された子らのことを僅かでも関わりのあった他の組長らに頼み込んでからの自首だ。彼自身の罪もそうでない罪も丸ごと被ることで幕を引こうとの算段で、会長も表面上は納得して見せた。下されたのは十五年の刑期。だが模範囚として勤め上げた彼は本日晴れて仮釈放となったのだ。最初の五年ほどは何度か刺客が送り込まれたがうまく潜り抜けてきた。近江は結局彼を許していないのだろう。シャバに出ればいつか殺されるのはわかっている。誰にも関わるべきではない。それなのに。
「ちぃと白髪増えたかのう。せやけど相変わらずやな、元気そうで何よりやわ」
「はっ、よく言うぜ。お前こそ運転手付きの車でお出迎えとは随分と出世したな真島ちゃん。もう組長に取り立てられたってのか」
てっきり真島が運転するものと思ったが彼は佐川を後部座席の奥に押し込んでおいて己も隣に座り「西田、出してくれや」と一言運転席に声をかけたのだ。だが走り出した車は如何にもな黒塗りの高級車ではなく、安価なワゴン車であった。
「ああ、ほうか。あんたはそっから知らんもんな。事情書いて手紙送ったこともあったんに開封もせんと送り返してきよってほんま──」
真島は自身が五年前に極道から足を洗ったこと、三年前に結婚したこと、半年前に子供が生まれたことを順々にかつての主に説明した。
「へぇ…」
佐川は流石に呆気にとられながら唸った。
「あの時親を殺そうとまで思いつめた女に結局その人生捧げたわけだ。穴倉も檻も血反吐吐きながら耐えておいて。漸く返り咲いて組長寸前まで出世しておいて。全部捨ててマキムラマコトの幸せを選んだか」
「何とでも言えや」
真島は真面目な顔をして言った。
「俺にはあいつを生かした責任がある。それもただ生きとるだけじゃ足りん。人として幸せに生きなあかん。そのためには俺の存在が邪魔になる思うて離れたんや。それやのにあいつは五年かけて俺を探し出しよった」
車は山奥を進んで行く。
「あいつは自立して、一人で何でもやってのける強い女や。せやけど俺が必要や、おらな本当の意味では幸せになれん言うんや。ほんなら俺が出来ることは一つしかない。あいつを白い世界で生かしたまま、幸せにするっちゅうことだけや」
「お前、ちょっと手ぇ貸してみろ」
話の腰を折って佐川はぐいと真島の両手を取り上げた。
「何で指全部揃ってんの、お前。嶋野の兄弟がこんなこと許すわけねぇじゃん。一体どんな手使ったってんだ?」
「親父には半殺しにされたで。いや四分の三殺しやな。今までで一番しばかれよったけど、親父は最後には許してくれたんや。三つの条件付きでな」
一つ、真島は生涯、嶋野に一か月につき百万円の上納金を支払う
一つ、真島は生涯、嶋野に己と家族の居場所を開示し続ける
一つ、真島は生涯、佐川司の後見人として彼の生命を保証する
「無茶苦茶だ」
佐川は絶句した。
***
「ぢぢ、だこ!」
ちゃぶ台に肘をつきトーストを物憂げに齧っていた佐川はその一言で不意に現実に引き戻された。ぬるくなったコーヒーで最後の一かけを流し込むとパンパンと手を叩いてパンくずを落とす。
「抱っこぉ?お嬢最近重てぇからなぁ。やーだ」
「だこ!だこ!ぢぢ、だこ!」
「じいじだってただじゃねぇんだぜ?お願いことあんなら筋通さねぇと」
「しゅじ?」
「おう、筋だ。飯食い終わったら何てーの?ほら。親父がこの前言ってたやつさ」
「いららきます?」
「惜しい。それは食う時だ。終わったら『ごちそうさま』だろ。作ってくれた人に感謝すんだ、お前さんのママと親父にさ」
「あい!…だりだりだ!」
「そりゃ何語だ?赤ちゃん語図鑑の何ページに載ってる言葉だ?」
もういいやと独り言ちながら佐川は手早く赤ん坊を己の背に括り付けて立ち上がる。
「よし、お嬢。片付けと掃除だ。親父が目覚める頃には何か簡単なものでもこしらえてやろうぜ」
「あい!」
「何が食いてぇ?」
「おうどん!」
「すげぇ明瞭な発音じゃねぇか…お前さんは将来うどん職人だな」
佐川はてきぱきと作業を開始した。この子がまだ小さい頃に必死に離乳食をこしらえていたように真島とマコトはある程度料理を心得てはいたが、料理をしながら台所を片付けるというのはなかなか難しい問題で、少ない調理器具しかないというのにいつも台所がてんこもりになってしまっている。対して佐川は現役時代ならばそんなこと逆立ちしたってしなかったが、長い服役を経て刑務作業で料理をしていた期間もあってかある程度そういった手際も心得たのが生きて台所の片付けを請け負っていた。大まかな家事をこなすマコトと、細かい家事をこなす真島(一流キャバレーの支配人らしく、消耗品のなくなるタイミングや食材の調達について彼は一定の才能を発揮していた)、そして彼らの仕事から抜け落ちた余りの家事をこなす隠居爺というわけでこの家はここ半年ほど非常にうまく回っている。お嬢は忙しく働くじいじの肩をどついたり背中によだれをつけたりしながら面白おかしく午前を過ごした。
掃除機をかけ終わった佐川は一旦赤ん坊を降ろしてごろりと横になる。カーペットの細かい埃についてはあとで真島がコロコロをかけるだろう。にぱぁと機嫌よくこちらに笑顔を向けているお嬢にカメラを向けて、またぱしゃりとシャッターを切る。またすぐフィルムはいっぱいになるだろう。前回の写真も現像屋にとりにいかねばなるまい。似たような写真ばかり撮るが、両親は己らがいない間に撮られるそういった赤子の写真をそのまま食べるのではないかと思うほどいつも熱心に愛でている。
「ぢぢ…」
おやつを食べ終わったお姫様は突然ぐずりだした。抱き上げて背をトントンするが彼女は満足しない。
「しょんべんかい」
おしめは濡れていない。きっと眠たいのだろう。佐川は彼女を連れて父親の寝ている寝室をそっと開けた。
真島は煎餅布団の上で一人、身体をぎゅっと折り曲げて窮屈そうに眠っていた。
「お嬢、親父が悪い夢でも見てるみてぇだ。一緒に寝てやんな」
娘は数時間ぶりに父親が現れたことに歓喜した様子で些か機嫌を直し、よじよじと這って行って父親に抱き着いた。
「ん、う?」
やがて真島はそのぬくもりに気が付いたのか重たげに瞼を上げる。
「お嬢と昼寝してやってくれ、俺は買い物に行ってくる」
「おん…おおきにやで……」
夢うつつのまま父親は唸り、娘の背にきゅっと手を添えた。
「佐川はん」
だが踵を返したじいじに、真島は言った。
「帽子被っていってな。ほんで何かあったらポケベル鳴らしてや。すぐ飛んでくさかい」
難儀な奴だ、と彼は思う。
「わかったよ」
仮出所以来、ただの一度も命の危険を感じたことはない。それでも真島は佐川が独りで外出すると心配になるのだ。佐川司の生命を保証する。愛する女と子供を守り抜くために、そんな親との契りを律儀に守って背負わなくてもいい命の責任を一つ余計に背負っているのだ。
「わかったってば」