お嬢とじいじ⑤車は峠を抜けて高速に入った。薄くたなびく雲が青空をゆったりと泳いでいく。暫く経った頃、運転手が遂に口を開いた。
「兄貴、そろそろ佐川の叔父貴に休憩して頂きますか?」
「せやな。そうしよ。うちの西田は気ぃきくやろ。俺が組いた頃からの付き合いでのう、未だにこないして用聞きしてくれんねん」
「真島の兄貴には本っ当に世話になりましたから!正直兄貴にはあのまま俺らの組長になって欲しかったんすけど…でも、俺らは兄貴が幸せならそれでいいっす!…佐川の叔父貴、お煙草でもご用意しましょうか?」
運転手はさきほどその兄貴を殴った時は何の口もさしはさまなかったのに、まるで何事もなかったかのような調子で弟分面をしている。随分とよく教育されているようだ。
「いや、煙草はいい──十年も吸ってねぇんだ、もう吸いてぇとも思わねぇ」
「ほんまか!そらありがたいわ。うち嫁と子供がおるから絶対禁煙やて言おうと思うてたんや」
「まだ行くとは言ってねぇぞ」
あの真島吾朗が禁煙したという事実にカタギになったと聞かされた時よりも若干大きめのショックを受けながら佐川は唸る。
「あんたに拒否権はないで、それだけは言うておく」
彼はきっぱりとした口調で申し渡した。
「いいのか?俺を車から降ろして。脱走するかもしれねぇぞ」
「そんなヘマはせぇへん。便所までついていって連れションしたる」
「気持ち悪ぃ…」
本当に気分が悪かった。もしかしたらこいつは真島吾朗の面をした全くの別人で、こんな茶番を散々に繰り広げた後に顔からべりりとマスクを剥ぎ取って「ばぁ」とやってから己を殺すのではないだろうか。その方がよっぽどいいんだが、と佐川は真剣に考え始める。
残念ながら真島吾朗は本当に連れションした。生後半年になる赤ん坊がどれほど可愛いか、熱心に力説しながら。
最悪だ。
脱走もできず、遠くから頭を撃ち抜かれることもなく、真島モドキに顔をべりりとされることもなかった佐川はすっかり不貞腐れて、車に戻るとすぐさま腕を組んで目を閉じた。
車は遂に高速を降りた。どこだがわからないが随分と田舎道を走っている。やがて少しは賑やかな街まで辿り着くと、ワゴンはそのまま古びたぼろアパートの前に止まった。
「ほい、お疲れさんでした」
真島は佐川の首根っこを掴んでいそいそと車からつまみ出し、逃がさぬようにぐっと腕を掴んだ。
「西田、ほんまにおおきにな。これ駄賃」
「兄貴!」
ごそりと札束を渡された西田はしかし飛び上がってこれを拒絶した。
「何言ってんすか。俺はそんなもん欲しくて兄貴の用聞きしてるんじゃありません。兄貴が今大変な生活しとるんはようくわかってます。やめて下さい、こんなこと」
「ええから受け取ってくれや。お前らの面倒最後まで見てやられへんかったんや。これくらいさせてくれ」
現役の極道とキャバクラのオーナーは暫く押し問答をしていた。佐川はこの隙に逃げられないかと二回ほど画策してみたが、一度目はオーナーに、二度目は極道にそれを阻まれてすっかり諦めた。
「それなら半分!半分だけ頂きます。本当に、これで勘弁して下さい」
それがいいや、と固辞した手前もうやっぱり吸いてぇと言えなくなった煙草を恋しがりながら佐川は天を仰ぐ。
「さ、こっちやで佐川はん」
漸くことが片付いて名残惜しそうに振り返りながら元子分が去っていくと、真島はガシッと佐川の腕を掴み直して彼をボロアパートの最上階へ引きずって行った。
「今戻ったで」
真島は玄関の扉を開けると非常に小さな声で言った。己の家だろうに何をコソコソと。佐川は怪訝に思いながら急かされるままに靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
「あ…!」
佐川はざっとその狭い部屋を眺めた。床にはタオルやガーゼ、でんでん太鼓のようなおもちゃが散乱している。小さなソファの上にはこんもりと洗濯物、机の上には蓋の空いた粉ミルク缶、赤ん坊用のスプーンや器が積み重なっていた。からり、と佐川の足元にカラの哺乳瓶が転がってくる。目を上げると、ソファの上で洗濯物に折り重なるようにして眠っていた女の足元にある古びた揺りかごの中に、「ほぎゃ、ほぎゃ」と小さな泣き声を上げる何かがいた。
「ごめ、ごめんなさい、私…!」
女は咄嗟に身を起こした。後ろに無造作にまとめられた髪は全く手入れされておらず、肌もくすんで目の下にはクマが浮いている。佐川と目が合うよりも前に、真島が目にもとまらぬ早さで女の元に駆け寄った。
「片付けるって言ったのに、私…寝ちゃって…!本当にごめんなさい」
「気にせんでええ、大丈夫や。何も問題ない」
真島は佐川の前であることも気にせずに妻を抱き締めた。
「私が自分で、出来るって言ったのに…駄目だ、私、本当にごめん」
「ええて、ほんまに。また泣きやまへんかったんやろ」
「そうなの、おしめも変えて、おっぱいも飲ませて…なのにどうしても…」
年若い母親は夫の手を逃れて赤ん坊を抱きかかえた。赤ん坊は何が哀しいのか一生懸命に泣いている。
「さ、佐川さん、ですね…」
赤ん坊に負けないくらい泣きはらした目で彼女は佐川を見上げた。
「マコトと言います。こんな所お見せして申し訳ありません…」
何と言っていいものか本気で分からず困惑しながら、佐川司は「はぁ」と心もとない調子で応ずるしかなかった。早く誰か種明かしをしてくれないだろうか。実は全部茶番で、真島吾朗は今も極道の世界の黒い華だと誰か、言ってくれないものだろうか。
「マコト、この子は俺が預かるから少し休んできぃ」
「でも」
「ええから。青い顔して、ほんまに倒れてまうわ。頼むから少し眠ってきてくれ。俺は今日休みやねんから片付けなんかいくらでもする。どうせこの人の世話もせんといかんのやから。な。ええ子やから言うこと聞いてくれや」
「…ん…」
差し出される唇を額に受けながら赤ん坊を夫に渡した妻は、ふらふらと奥へ引っ込んだ。
「──さて」
真島吾朗は少し困ったような顔でこちらを向く。
「あんたの部屋は向こうや。いっちゃん広い部屋やで。今日からここがあんたの隠れ家や!好きに暮らしてもろてかまへん!」
彼の腕の中の赤ん坊が泣き喚く合間にきょろ、と佐川を見やった。
***
マコトはどうやら残業しているようだ。真島の出勤時間までに彼女の退勤時間がとても間に合いそうにないことに絶望しながら彼はだらだらと準備をする。お嬢をまた背に括り付けながら、佐川はそんな真島のケツを叩いて準備させた。何せ月に百万のノルマを達成できなければこの一家はたちまち路頭に迷うことになるのだ。マコトが働きに出られるようになってから何とか二人の夫婦には貯金が出来つつあったが、金はいくらあってもいい。お嬢は女の子なのだから──佐川は最近とても真剣に考えるのだ──もっと愛らしい洋服を何着も何着も持っていてしかるべきなのだ。女王のように扱われなければならない。だってお嬢は、あの真島吾朗の娘なのだから。
「いやあああああああ!」
これは毎度のことだ。親が親なら、子も子。まるで今生の別れかのように、お嬢は毎日父親の出勤を妨害しようと試み泣き叫んで別れを拒んだ。
「おぢいいいいぃぃぃ!!!」
いつの間にかパパどころか叔父に格下げされている親父だが、こいつもこいつで毎度その泣き顔に感極まって出勤を躊躇っている。
「いいから早く行け!お前の稼ぎだって馬鹿にならねぇんだ!」
漸く父親を扉から叩き出すと、佐川はてきぱきとお嬢と母親の夕食の支度を始めた。卵の賞味期限はのっぴきならないほどに迫っている。何とかしなければ。佐川は難しい顔をして唸り始めた。
「ぢぃぢ…」
きゅうと背中にふかふかの頬を押し付けられて、佐川は「ん?」と目の前の冷蔵庫の中身からは目を離さずに唸った。
「あちてるでェ」
「あん?」
みそ汁に大量にぶち込むしかもうないかもしれなかった。オムレツやらオムライスやらを作るほどの能力は、佐川にはないからだ。
「あーちてる、でェ」
急にがぶり、と首にかぶりつかれたことで佐川の献立作りは妨げられた。
「───どしたの」
彼はゆっくりと振り向いた。
「親父の真似かい。昼間にお前さんをかじってたもんな」
ヒヒヒ、と娘は微笑んでいた。
佐川はどうすべきかよくわからなかった。一年近くこの赤ん坊の成長を傍目に見てきた今となっても。いつしかこうして深く関わるようになって。一体いつからだったろう?自分が子供の世話をする日が来るだなんて、生まれてから一度だって考えたこともなかったのに。