お嬢とじいじ➁カーテンの隙間から柔らかな光が降り注ぐ。その薄明りに優しく顔を撫でられた真島は未だ固く目を閉じたままにしてきゅっと眉を顰めた。さきほどまで何か苦しい夢を見ていたような気がしたが、もうよく思い出せない。そっと腕を伸ばし、隣で丸まっているはずの恋しい温もりを探しつつ彼は眠たげに呟いた。
「マコトぉ…」
ぱた、ぱた、と腕がシーツの上を空しく掻く。柔らかな身体をぎゅっと腕に抱きながら目覚めたかったのに、どうやら彼女は先に起きてしまったようだ。起こしてくれといつも言うのに、日付が変わってから帰ってきて泥のように眠りに落ちる夫を早朝から揺り起こすことにどうしても躊躇いのある妻は、今朝も早々に諦めてしまったのだろう。どんなに疲れていても家族と一緒に朝飯を食う。これは真島の意地なのだ。それなのに。真島はぷすんと頬を膨らませた。
その瞬間だ。パシャ、とカメラの音がした。
「何その顔、おもしれ」
ギャーと叫んで煎餅布団から飛びあがった真島は華麗な跳躍を見せて見事に畳みの上に着地した。腹の立つ顔でニヤニヤしている元上司から気のない拍手を頂きながら、真島はキャン!とかみついて見せる。
「何やねんいきなり!!口から心臓出るか思たわ!!マコトの部屋でもあんねんで勝手に入って来んなや!」
「マコトちゃんに頼まれたんだぜ、殴っても蹴ってもいいのでどうか吾朗さんを起こして来て下さいってよ」
「言うか!」
突然ひゅっと何かが鼻先に飛んできて慌てて首を傾ける。見れば壁にダーツの矢が刺さっていた。厄介なことに、この男は最近ダーツにハマっていて自室でよく投げているのだ。真島を起こせとの任務を果たすため、エプロンの大きなポケットに武器を忍ばせてきたと見える。
「お、野生のカンは鈍ってねぇな。感心感心」
「右目あたりそうやったで!わざとやろ!」
「わざとだよ?何か問題?」
真島はぶつぶつ言いながらも慌ててシャツを羽織る。
「もうええわ、マコトにすぐ行く言うといてくれや!」
「あいよ」
佐川は去り際にパシャリともう一度写真を撮りながら部屋のふすまを閉めた。
「マコト、おはようさん」
居間に走っていくと髪をぼさぼさにした妻がバナナを切っていた。真剣な顔でうつむいていたが、夫の声に顔を上げるとほにゃ、と微笑んで見せる。
「おはよう、吾朗さん…」
大股の二歩で傍に行き、そっと片手で華奢な身体を抱いて頭に唇を落とす。いつからか定着した朝の習慣だ。
「すまんな起きられんで。ヨーグルト俺が用意するわな」
「ありがとう。でも大丈夫、佐川さんがもう出してくれたんだ」
振り返ると確かにエプロン姿の佐川が腕まくりをして、ヨーグルトの入った器を片手に胡坐をかいていた。
「ぢーぢ、あーん!」
小さな赤ん坊用の椅子に座って大きな口を開けているのは一歳半になる娘だ。
「ちょっと待った、お嬢。親父さんがお目覚めだぜ、挨拶しな。おはようって。お、は、よ、う」
「あい!おやぢ、おはーよ!」
眠たげな父を精一杯歓迎したいのか娘はキャキャと諸手をあげる。
「おはようさん」
こちらにも大股で近づいて頭にキスだ。喜んだ娘はむうと唇を突き出して強烈なのを父親にお見舞いした。
「おおきに、おおきにな…せやけど親父やのうてパパやで、パパ。言うてみ、パ、パ」
「──よしお嬢。ヨーグルト食いな」
「あい!」
邪魔が入ったことにより娘の気持ちは呆気なくも愛する父親から離れ、もう目の前のヨーグルトに夢中だ。煽動した「ぢーぢ」の方が振り返ってニヤリとほくそ笑んでくる。
「パパ、やで。パ、パ」
パパは空しい抵抗を試みる。
「ぽぽ」
「パパ」
「ぽぽ!」
「──俺は諦めへんで。必ずお前にパパて言わせて見せる。見とれよ佐川はん」
真島はぽりぽりと頭を掻きながら台所へ戻った。
「マコト、あと俺やっとくわ。お前身づくろいしてきぃ」
マコトはバタバタしながらも漸く手を拭って頷く。
「うん、ありがとう。ごめんね」
「何がごめんやねん。ええから早う行って来いや」
マコトの身づくろいが済むと朝飯だ。真島は昨日佐川が仕込んでくれていた米がふんわりと炊き上がっていることを確認すると手早く握り飯を作る。具はおかかだ。トマトを切り、賞味期限の一日過ぎたソーセージを炒めて、卵焼きを巻く。随分と手慣れてきたものだった。みそ汁までは手が回らずインスタントだ。握り飯二つはアルミホイルに包んでマコトの弁当となる。残りをちゃぶ台に出してマコトと二人で食卓を囲む頃には娘の朝飯は終了していて、両親に挟まれてご機嫌で牛乳を啜っている。
出勤を控えて慌てている妻と帰宅して間もなくまだほとんど寝られていない眠たげな夫が簡単な朝飯を食べながら夫婦の会話をしている間、佐川はすっと台所に引き込んで皿を洗う。真島とマコトが使ったフライパンをせっせと洗いながら今日の昼飯に思いを馳せるのだ。次の飯をどうするか、は常に彼の生活の大部分を占める重要な問題だ。毎日頭の中では抗争が勃発し、「卵の賞味期限が迫っているのに使い切れない」「知らないうちにきゅうりがしなびている」などといった様々な粗相の責任をとって日々大量の指が詰められている。
「じゃあ行ってくるね!佐川さんすみません、よろしくお願いします!」
「あいよ。気を付けて行っといで」
声をかけられて佐川は台所から唸る。
「行きしな帰りしなほんまに気ぃつけてな?早く終わるんなら迎えに行ったるから連絡してや。ほんで──」
真島は玄関まで妻について行って彼女が扉を閉めるギリギリまで何か言い募っている。やがて今生の別れかと思うような長い抱擁を終えて居間に戻ってきた真島は、途端に白目をむいて床に倒れた。
「お。死んだか」
佐川はぽいと新聞を放ると台所から出てきて、まだまだ新米の父親をひょいと担ぎ上げる。
「だから言ってんのにさ、無理して起きてくんなって」
もう若くねぇんだから、と独り言ちながら佐川は真島を元居た煎餅布団に戻した。今やキャバレーグランドの支配人兼オーナー、そして特定のエリアに散在する数件のキャバクラを経営する真島は夜深くまで働いて早朝に帰ってはこうして睡眠時間を削り家族との時間を作っているのだ。全く律儀な奴だった。
居間に戻るとお嬢とばちりと目が合う。
「ぢーぢ!」
母親譲りの大きな目にいっぱい涙がたまっていた。父親譲りの立派な眉はきゅうと下がっている。
「おやぢ、しぬ?」
「──死なねぇよ」
佐川はどっかりと彼女の隣に腰を下ろしながら言った。
「お前さんの親父は身体が丈夫なことだけが取り柄だ。お前たちのためなら何だって出来る。もっとひでぇ生活耐え抜いた男だぜ。こんなこと、何でもねぇさ」
わかったのかわからないのかは知らないが、お嬢は父親が無事らしいことを悟って安心したように頷いた。この小さな命が、忙しく働き家にいない時間の多い両親のことを精一杯に、心から愛している様を頬杖をついて見つめつつ佐川は小さくため息をつく。ことわりを捻じ曲げて、色々なものを諦めて、それでも一緒にいようと藻掻いた二人が得た新しい命。頼るべきものもなく、過去が尾をひく様々なしがらみに雁字搦めにされながらも必死に子を育ててきた二人。
「お前たちってほんと」
きょとり、と命はこちらを見上げる。
「ほんと馬鹿」
佐川はおもむろにポケットから使い捨てカメラを出すと、ぱしゃりとお嬢の写真を撮った。