お嬢とじいじ⑦「さてさてさて」
佐川は両手を揉みながら独り言ちた。中折れ帽子を目深に被り、新しいトレンチコートを身にまとう。中身はばっちりスリーピースで上品に決めていた。お嬢の大好きなリンゴを切ってやるために活躍する果物ナイフはこの日のために鋭く磨き上げていて、懐にしまってある。これはホーリツに違反しているだろうか?いやどうだか。彼はこれからちょいとお嬢のために骨を折りに行くだけだ。首尾よくいった暁には無事に帰って蜜がいっぱい入った美味しいリンゴを買って帰れるだろう。大きな意味でとらえれば、この果物ナイフはその時のためのものなのだ。
「ちょいと出かけてくるよ」
居間にひょいと顔を出して声をかける。真島はどこぞに電話をかけていて、マコトは娘を膝にのせて絵本を読んでいた。二人とも今日は珍しく休みが重なっていたのだ。
「えぇ、…えぇ。…ほんまですか、立華の兄さん。そらえらいすんまへん。あの子も喜びますわ…」
「じいじ!どこ行くの?お嬢も行く!」
いつしか爆発的に語彙の広がっていた賢い娘は絵本もそっちのけでばっと立ち上がったかと思うとマフィア風のいで立ちのじいじの足元にまとわりついた。早いもので二歳の誕生日を数日前に迎えたばかりだ。
「おっと。ちょいと野暮用でね、すぐ戻るからよ」
「だめ!お嬢も一緒!」
ヤクザの元組長さんは真島吾朗の娘にすっかり懐れていたが、未だに彼女を連れて外に出たことは一回もない。一度たりとも外で命を狙われた試しはなかったものの万が一のことは常に彼の頭の中にあった。この家族との関わりが深くなればなるほど、この感情は厄介になっていく。
「はい。近いうちにまた伺いますわ。え?あぁ、そのことでっけど──」
真島の電話はまだ終わりそうにない。
「どちらに行かれるんですか?」
マコトは用心深く尋ねた。
「そんなに遠くないさ、タクシーで十五分ほどだ。すぐ戻るよ。…ほら、帰りにリンゴ買って来てやるから機嫌直しな、お嬢」
「だぁぁめ!」
彼女の了解は得られていないようだったが、真島が電話を切って色々と問いただしてくる前にと佐川はそそくさと家を出た。少し歩いた先に車が止まっている。タクシー、と言えば確かにそうだが。中には厳つい顔の男たちが数名乗り込んでいた。
「佐川司、元組長でいらっしゃいますね」
静かに彼は頷いた。
「嶋野の組長がお待ちです。どうぞ、お乗りになって下さい」
***
「ほう。元気そうやないか、兄弟。流石にちぃと老けたがのう。十年もムショに行けばジジイにもなるか」
嶋野太は脂ののった上半身を露わにしてどんと座しながらこちらを見やった。墨を入れ直した所であったらしい。たまたま大阪に来ていたところに連絡を受け、彼はこの面会を承諾した。ゆったりとした手つきで人払いをすると彼は胡坐をかいて肘を膝につき、久方ぶりに見る渡世の兄弟の顔を眺める。
「まぁな、十年は伊達じゃねぇ。なんならもうムショ生活も十二年目に入ろうってとこだしよ」
嶋野はゲラゲラと声を上げた。
「お前さんは変わらねぇな、嶋野の兄弟」
煙草を勧められるも断りながら彼は言う。
「変わらんやて?はっ。そんなことないで。真島が組抜けよってから、苦労ばぁかしや」
この会見の本題を賢しい嶋野は既に見抜いているのだろう。あちらから先手を打ってきた。佐川はぽりぽりと首元を掻く。
「あのバカ犬にはお互い苦労させられたもんだ」
二人は全く可笑しくないにも関わらず、はははと乾いた声で笑って見せる。
「それで?ワシのバカ犬の犬になってもう一年半か?誰よりもそば近くであいつらを見てきよったんやろ。…どや。遂にあいつは、音をあげよったか。随分長うかかったのう。流石は真島吾朗っちゅうところや」
「早とちりすんなよ」
フン、と佐川は鼻を鳴らす。
「俺は別にあいつの代理で来たわけじゃねぇ。あいつもかみさんも、お前にはてんで負ける気がねぇみてぇだ。それを証拠に奴らは一度たりとも上納金を払い損ねたことはねぇって言うじゃねぇか。大した根性だよな、全く。特にあの女。あいつがあの家の主人だぜ、実際」
あまり想像がつかないのか嶋野はこてんと首をかしげている。
「ほんならおどれは何しに来たんや。言わんかったか。あの家族を生かしとく条件の中にはおどれの首を守り切ることも入っとるんやで。今ここで、ワシがお前撃ち殺したらどないなるか。のこのことこんな所へ来させるやなんて、あいつも甘いモンやのう」
「あいつが甘いのは昔からだろ。それにここには俺の独断で来たんだ。お前と交渉するためによ」
「交渉?今更なんのや」
佐川はいやに楽し気に瞳を躍らせながら、どんと目の前の畳に左の掌をついて見せた。
「俺の指でどう?二本…いや、三本いこっか」
懐から果物ナイフを取り上げると、口でその鞘をすらりと抜く。よく磨かれた果物ナイフをちらつかせながらにぃと彼は歯を剥いた。
「何のことや。ここは賭場とちゃうやろ。乗せ張りみたいに指増やしよってからに」
嶋野は怪訝そうに太い眉を吊り上げる。
「いやね。この指三本に免じてさ、真島ちゃんちの上納金、減らして欲しいんだよ──娘ももう二歳だぜ。これからもっともっと金がかかる。可愛い服も沢山買ってやりてぇし、ピアノだってバレエだって好きな習い事をさせてやりてぇ。真島ちゃんたちは五年間、上納金を立派に払い切ったんだ、ここで一つ、元親として祝ってやろうぜ。な?」
嶋野はほとほと呆れかえって何も言えなかった。孫の自慢でもする好々爺のようなことを言いながら、目はギラギラとかつての極道そのものに危険な光を宿している。その昔は、この表情で不始末をしでかした人間を追い詰めながら指を何本もまとめてまき上げていたのだろう。惜しい、と今更ながら彼はため息をついた。
「え…もしかして三本じゃ足りねぇ?四本がいいのぉ?」
佐川はやれやれと言葉を継いだ。
「じゃあさ、右二本、左二本ならどう?四本なら上納金六十万まで引き下げてもらうからな。指一本十万として…」
「そないなこと言うてんとちゃうねん!」
ダン、と堪らず嶋野は肘置きを拳で叩いた。
「何をアホなことぬかしとんのや!おどれのようなカタギの指十本あったかて何の価値もないわい!ビタ一文負けへんわ!」
「それもそうか。…ったくしょうがねぇなぁ…」
佐川はひょいと果物ナイフを鞘にしまうと何故か突然立ち上がって己のベルトをカチャカチャと解き始めた。
「──何してんねん」
「え?いや、俺のケツ売ろうかと思って。一発五十万ね」
「たっかいのう!いらんわ!脱ぐなや、やめてくれ!」
「どうしたよ何か嫌なことでも思い出した?」
「おどれわざとやろ!やめろや!ぶっ殺すで!」
嫌がって逃げ回る嶋野を散々に追いかけ回した挙句、佐川はちぇっと子供の様に唇を尖らした。
「お前さんもしぶてぇな。こうなりゃとっておきのブツを出すしかねぇ」
佐川司は勝気に唇を歪めた。
「何する気や。もうおどれの指はいらんで、兄弟」
再び懐に手を忍ばせた兄弟の動きに嶋野は戦々恐々とする。彼は長財布の中に丁寧に折り込んで仕舞ってあった紙をぺらりと一枚見せてきた。
「何やこれ。何が描いてあんねん」
紙にはぐるぐると渦が描かれていた。
「これ、俺」
「はん?」
「お嬢の描いた俺」
カッ、と嶋野の中で何かが弾けた。
「ガキの落書きやないかいっ!!!んなもん誰が欲しいねん!!おどれの指やケツよりもこっちの方が上物や言うんかっっ!!!ヤクザ舐めたらあかんで!!!」
「まあ落ち着けよ嶋野の大叔父ちゃま。──真島ちゃんの娘はすくすく育ってる。まだこんな意味不明な渦しか描けやしねぇがそのうちには立派に人間も描けるようになるだろう。そうなりゃどうだ。描いてもらえるわけだ。似顔絵を。真島ちゃんの娘に」
些かの沈黙が二人の間に落ちた。
「──頭痛するわ…おい誰か、救急車呼べや」
「大丈夫?どっか悪ぃの?」
呑気に問いながら佐川はベルトを締め直している。
「おどれのための救急車や!ボケがぁ!!」
その後、兄弟たちは若い頃に長い確執の末に勃発した壮絶な殺し合いにも匹敵するほどの大喧嘩を演じた。二人はかつてそれを契機に盃を交わすにまで至ったのだ。十二年のブランクのある佐川と墨を入れ直したばかりでやや背中の痛む程度の嶋野では実際勝負にならないのだが、佐川はひょいひょいとうまく重たい拳を避けながら果物ナイフを巧みに振り回し、なかなかの戦いぶりを見せた。
「おどれ…!何や筋が真島に似とるやないか…っ」
「そ?俺もすっかり奴の色に染められちまったってことか」
嶋野は思わずチッと大きく舌打ちをする。
「妬くな妬くな大叔父ちゃま」
「うっさいわ」