森の奥で待っていて まさかこんなところにあるなんて。
深い藪の中で迅はため息をついて、軽率に訪れることを決めた数時間前の自分を少しだけ恨めしく思った。目の前を遮る植物をかき分けて、木に残された目印を頼りに細い獣道を進んでいく。秋の深まる山ではいたるところで草木が茂っていて、目的がない限りこんな場所を訪れることはないだろう。迅も好んでこの山道をひとりで歩いているわけではなかった。
(こんなところ、最上さんはいつの間に来てたんだろう)
思い返せば、突然外出して半日くらい帰ってこなかったときがあった。よく柿などをもらってきていたから、近所に挨拶にでも言っているのだとばかり思っていた。
きっかけは早くに両親を亡くした迅を育ててくれた親代わりの人が亡くなったことだった。
もしも俺がいなくなったら頼みたいことがある。
病院のベッドの中での言葉に、迅は続きを聞く前に頷いていた。その人は笑って、まだなにも言ってないだろと言った。どんな無理難題でも可能な限り受け入れるつもりだった。それくらいしか、返せるものが思いつかなかった。気にするなと言われるのは迅もわかっていたから、ただの迅のわがままだ。
育ての親──最上は、迅がそう考えていることもわかっていたのだろう。それ以上は追及せず、迅へこう言った。
『町はずれの山の中に神社がある。そこの管理をお前に任せたい』
いわく、大切な約束なのだと。わかった、とあたらめて迅が返すと、仲良くしてくれよ、と迅の頭をなでた。
「こんな山奥でもご近所付き合いってあるのかな……」
ただ歩くのにも飽きてきてつい心の声を口に出す。仲良く、どころか人っ子ひとり見かけないような山奥にあるなんて思いもしなかった。
一時間近く歩いた頃、ようやく目の前がひらけた。くすんだ赤色の大鳥居に迎えられ、朽ちかけた自然と一体化しかけている神社が建っている。寂れてはいるもののどこか荘厳な雰囲気がある。こうなる前はもっと立派な佇まいだったのだろう。
おれが引き継いだ、とはいえ人の家にやってきたみたいだ。迅は一礼して大鳥居をくぐり抜けた。
さわ、と風が吹く。静かで、人の気配はない。境内に乗り上げて、ごめんください、なんて建物に小さく呼びかけてみるけれど、返ってくるのは木々のこすれる音だけだ。
「え、今音した……?」
背後の音に迅は振り向く。ことん、かたんという軽い音が賽銭箱の中から聞こえてきた。上から覗きこんでみるも、黒々と影が落ちていてよくわからない。野生のたぬきかきつねでも住んでいるのかもしれない。蓋に手を掛けてみると軽く横にずれた。長い年月のうちに緩んだのだろう。……こんな場所だ。変なものがいたらどうしよう。そんなちょっとした緊張と好奇心とともに迅は格子の蓋を外した。
「…………子ども?」
そう広くはない箱の底は外に置かれているにしてはきれいだった。まるでベッドにするかのように、紅白で出来た、巫女のような服をきた子どもが箱の中で丸くなっていた。
迅が驚いたのは賽銭箱のなかに子どもがいたことももちろん、その姿だった。
さらりとした黒髪の隙間に生えた三角の明るい銀色の耳。太くふわふわとしたしっぽ。
見た目は人のようで、そのかたちは狐のようでもある。
(おれ、もしかして化かされてる?)
正直、そうだと言われても納得する。迅はおそるおそる本物にしかみえないしっぽに触れる。滑らかでつややかな毛並みはずっと撫でていたくなる。んん、とその子がころんと上を向いてきゅっと眉を寄せた。眠っているだけのようだ。閉じ込められて弱っているというわけではないようで迅はほっとした。自分が管理することになってさっそく事件が、というのはさすがに心地が悪い。しっぽに触れていた迅の手を小さな手が掴んだ。なにと勘違いしているのか、スリスリと頬をすり寄せてくる。
山の迷子かな。迅は温かさを感じながらほほえむ。こんな神社がある土地だ、不思議なことのひとつくらいあるだろう。
こんな狭いところにずっと居てもらうのもどうかと思い、迅はわきの下に手を入れてその子を持ち上げた。顔立ちからして、たぶん男の子だ。だらんと手足をぶらさげて、耳やしっぽがなければただの子どもにしか見えない。
空中に浮いた少年がまぶたを震わせた。ゆっくりと開くなかに、日の光のようなきらめきを載せた緑の瞳がうつろに揺れて、迅を見た。
「!」
ぶわ、と毛が逆立ってふくらむ。丸い目をさらに大きく見開いて、じたばたともがき始めた。
「あ、ちょっとあぶな、落ちるって……いてっ」
「……!」
がぶり、と親指の付け根にかみつかれる。痛みは小さいものだったが反射的に声が出てしまった。迅が顔をしかめたのを見て、少年は迅を見上げてしょんぼりと耳をさげる。噛みついたところを小さな手でさすってきた。その顔があまりに悲しそうで、迅は安心させるように笑う
「だいじょうぶ、そんなに痛くないから。寝てるとこ急に抱き上げたし、おれがびっくりさせたよな。ごめんね」
子どもがふるふると首を横に振る。ぴんと立っていた耳はおりたままだ。このままでは話しづらいだろうと迅は境内に彼を下ろす。
「……ごめんなさい」
(しゃべった!)
声を出さずにすんだものの、驚きは大きかった。
感情に反応するようにぺたりと下におりた耳と一緒に頭をなでると、こわばっていた表情がやわらぐ。
「俺もびっくりしたんだ。ここに人が来るのはものすごく久しぶりだったから……お兄さんはどうしてここがわかったんだ? にんげんの中では本家を管理する人しか知らないはずなのに」
「その人のこと、知ってる?」
「俺は直接会ったことはない、けど父さんや母さんは知ってると思う。ここは俺がもらった分家だけど、本家の管理をするのは選ばれたにんげんなんだ。お兄さんの知り合いなのか?」
彼は最上を知らないらしい。もしかしたら自分の知らないことが聞けるのでは、なんて淡い期待はすぐに消えてしまってちょっと拍子抜けだ。
「おれは迅って言うんだ。……その管理人がこの前亡くなってさ、ここの管理をおれが任されることになったんだ」
すると、少年の耳がぴんと跳ねる。先程までの重さはどこかへ行ってしまったかのように明るく迅を見上げる。
「じゃあ迅が俺の新しい主人なんだな!」
「しゅ、主人!?」
「あ、間違えた。これは昔の言い方だって言ってたな。そうだ、パートナー?」
「微妙に違う気もする……ひねらなくても管理人でいいんじゃない? ここがきみの家なら、その家を管理するのがおれなんだろ」
「そうだな、わかった」
少年が頷く。見た目は幼いが、どことなく大人びた空気がある。
「そういえば、名前はなんていうの? ずっときみじゃ呼びにくいし」
「あ、俺は嵐山だ。にんげんでいうと、下の名前は准っていうんだ。どちらで呼んでくれてもいい」
「嵐山……あ、そうか、この山と同じなのか」
この山と同じ名前を持つ少年は特別な存在なのだろう。神さまみたいなもの、だろうか。おれが付き合っていくことになるのだから、最上さんも言ってくれたらよかったのに、と思う。仲良く、というのが嵐山のことをさしているのなら、さすがに遠回りがすぎている。……まあ、確かに秘密主義みたいなところもある人だったけど、
さっきまでのしょんぼりとした顔はどこへやら、嬉しいという気持ちをまとうようにニコニコと迅に近寄って、嵐山は迅をまじまじと見つめている。
「……にんげんってそんなに珍しいの?」
「めずらしいけど、それだけじゃないんだ。この社の管理人というのは俺が生きていくための大切な相手だから。分家の管理人は俺たちが選べないから、相性は運なんだ。……きっと迅と俺は相性がいいと思う。隠れて眠ってた俺をすぐに見つけられるんだからな」
嵐山は跳ねるようにくるりと空を舞い、大鳥居の上に着地する。自分を見下ろす小さな狐の子は、はしゃいでいるようにも見える。
「迅。こんどは満月の日に来てほしい」
「どうして?」
「今は月が欠けているから、歓迎したくても、ちゃんと迎えることもできない。迅に知ってもらわないといけないことがあるんだ。」
嵐山の指が空をさす。早くも日暮れを迎えようとする空には薄い半月が浮いている。
「だからまた会おう。今度はきちんとした格好で待ってるから。にんげんは夜になると道が見えなくなって危ないからな」
たん、とひと蹴りで迅の横におりた嵐山は、つま先立ちで背伸びをするように境内に腰かける迅の頬に口づけた。
狐流のあいさつなのだろうか。いつの間にか嵐山の姿は消えていて、物寂しい神社と迅だけが夕日の中にいた。
◇
──あの日、明るいなかでも迷いかけた道は、目印も見えない夜だというのに不思議とよくわかった。初めて訪れたときに感じていた獣たちは息を潜めているように静かで、迅の耳は自分が立てる砂利を踏む音だけを聞いている。
管理人とは、何なのだろう。
嵐山という狐の子の家の管理、というだけならもっと詳しく話したはずだ。隠すように伝えたのは理由があるに違いない。それは、確信めいた予想だった。
大鳥居は暗闇の中でも変わらず立ちつくしている。その下をくぐると、空気が変わったのを感じ取った。脇に立つ灯篭が光る。先程までなんの気配もなかった参道の石畳の中央に、少年がこちらを背にして立っている。
──しゃらん、と清く澄んだ鈴の音が響く。
彼が履いた下駄の音がかろんと空気を打つ。
月下の舞いが、目の前で始められた。指先にまで神経が通った、空気を切るような鋭く流麗な動きは視線を逸らすことを許さない。
ひとつ音が響く度、少年の姿が成長していく。
幼い少年は青年に。凛とした佇まいに、神さま、という言葉が迅の頭に浮かんでいた。
幾度目かの響きののち、迅と同じ程の背丈となった、銀の毛並みをした青年が立っていた。
目もくれず舞っていた青年は、ようやく迅を見る。
「迅!」
嬉しそうに笑う青年に、迅はようやく彼があの子ども──嵐山だと気付いた。
「ようやく迎えられた。この社は忘れ去られてしまっていて、満月の力を借りないと俺もこの姿にはなれないんだ。……改めて、新しい管理人である迅に頼みたいことがある」
凛とした声は姿と相まって、ひどく美しい。
「このまま社が朽ちてしまうと、俺は消えてしまう。だからこの場所を昔に近づける手伝いをしてほしいんだ」
「……それは、掃除とか、修繕とかってこと?」
「うん。いつか他にもひとを招くことができたら、うれしい。今の俺は不安定で、迅の存在がないと危ないんだ。この山の狐と管理人はそういう関係で結ばれてる」
嵐山の手が迅の手を握る。
「……だから、結婚してほしい」
「………………ん? なんて?」
「結婚」
「…………なんで?」
「なんでって、狐と管理人はそういうものだから」
「いや、そういうもので決めていいものじゃないだろ、それは」
断るような言葉に嵐山がいささかショックを受けた顔をしている。パートナーと言っていたのはそういうことらしい。言い間違いではなかったのが驚きである。狐の価値観はよくわからない。いやまあ、パートナーの意味が人間と同じとも限らないが。
「そもそも、嵐山がおれのことが好きなの?」
「好きだぞ」
即答だった。狐は惚れっぽいのか、それとも嵐山がそうなだけなのか。同じ人間にも向けられたことがない熱い視線は、きっと恋するものなんだろう。
「ちなみに、結婚したとしてどうすんの」
「? 一緒に暮らすんだ。それはにんげんも同じだろ?」
「ここで?」
「ここで」
「…………おれにも生活があるから……」
狐にとってはふつうの環境でも、おれにとって山は過酷な環境である。
「迅は俺が嫌いなのか……? 狐だから……」
「そんな好き嫌いの話じゃないって。単純に知り合ってほんの少ししか経ってないのに結婚って言葉が出てくるのに戸惑ってるだけ。人間的には」
目をうるませる美青年の圧にノーを突きつけるのは勇気がいるが、ここではいと言ってしまえばどうなるかわからない。
「……管理人としてこの神社の管理はやるよ。任されたことだから。さすがに住むのは難しいけど、定期的にはここに来るつもり。結婚とか、そういうのは今すぐでなくてもいいでしょ」
「……! ああ、待ってる」
あきらめない、と瞳でうったえる青年に、迅は遠い場所を思う。いったい、最上さんはおれになにを任せていったのだろう。
幻想的な光景を前に、今は亡きその人の顔を思い返していた。
【あとがき】
・続かない
・シリアスに見せかけたラブコメだよ!
・任されたからやってる管理人の迅(嵐山のことはふつうの好き)とどうにか迅と結婚したい狐の嵐山(管理人というのもあるけどほとんど一目惚れ)
・今後は定期的に神社を掃除にやってくる迅と、その度に迅に好きアピールをする嵐山の姿があります。そのたび押しに負けかける迅(ない話)
・いろいろあっていちゃいちゃしてほしい(欲)