【教令院七不思議】『漂白辞典』君は翻訳をした事があるか。……なるほど。ではそこから教えなければならない。
翻訳とは特定の言語を別の言語に適した形に変容させることを意味する。
話し言葉、書き言葉とあるように単語を愚直に置き換えるだけでは正確な翻訳とは言えない。中には特定の言語にしか存在しない表現もあるだろう。
元の言語を理解し、噛み砕き、別の言語に組み立て直す。それが書籍化の為の翻訳ならば万人が読みやすいように組み立てる必要があるし、話者を挟んだ同時翻訳ならばより簡潔で意訳を含まない表現が求められる。
何処ぞの建築デザイナーが「デザインと翻訳の本質は似ている」と洩らしていたことがあるが、この件については同意しよう。
『漂白辞典』はその名の通り、白紙の辞典だ。
推定千二百ページ。革張りの表紙にタイトルも見出しもなく、この知恵の殿堂の何処かに今も身を潜めているという。
俺は此処にある書籍をほぼ把握しているが、そのような本は一度も目にした事がない。だが、見たことが無いからと言って存在を否定することもできない。まさに七不思議と呼ぶには相応しい存在だ。
運良く『漂白辞典』を手にする事が出来たのなら、是非とも開き、適当な言葉を書き込んでみるといい。
噂によるとそこに書かれた言葉は形を変え、未知の言語へと変換される。その言語はテイワット中を探しても存在せず、解読することも儘ならない──『漂白辞典』を手にした主以外には。
何もおかしな話ではない。その言語が変換される前の言葉を知っているのは書き込んだ張本人だけ。言わば、『漂白辞典』とは言語を生み出す辞典と表現できるだろう。
……「一つ目と違って怖くなくてよかった」?君はいささか、七不思議と怪談話を混在して考えているようだ。
しかし──ふむ、あと五分か──それが君の望みならば、蛇足を付けたそう。
『漂白辞典』に”人名”を書き込んではいけない。
聞いたことはないか?「言葉には魂が宿る」と。
世の中のほぼ全ての動物は発声をするが、中でも人間は会話に意味を含ませて自己主張することに長けた種族だ。自分の主張、思考、意志……そのようなものを切り分け、他者に共有する際に言葉という手段を用いる。
ここでは分かりやすく、”人名”を君の名前としよう。
もし自分自身を表す言葉、つまりは名前を『漂白辞典』に書き込めばどうなるか。
言葉は形を変え、未知の言語へと変換される。それは自分自身が変容することと同義だ。
変容した後は、誰かにまた翻訳してもらえばいいが……そうだ。
それが出来るのはこの世に一人しかいない。