読書の前に 人間が現世で過す時間は短い。だが限りある生だからこそ、人はその一生を精一杯に生き、より良い暮らしを目指すべく学習してゆく。観察し研究し、試作と実験を重ね、新たな技術を開発し文明を発展させる。その速度は幾千、幾万もの長い月日存在してきた神々からすれば瞬きの間であった。
そう、「たかが二千年」で世界は大きく変わった。人間同士の争いでオリュンポスの神々は一度衰退しかけた事もあった。だが冥府の本質は変わらない、呼び名や人間の崇拝対象が変わろうと平等に死者を受け入れる。だが全く変化が無かった訳ではない、一番大きかった事はこの「星」に地域別で存在する「あの世」同士での「事業提携」を組んだ事だろう。担当区分の細分化は勿論だが、人間があまりに地上のあらゆる地域を行き来する様になった故に、管轄外の死者に関する取り決めについての会合がまとまったのも、つい最近の事の様に感じる。
つまり、現在……いや、常に冥府はアップデートに追われている。神秘が身近であった古代の最盛期ではなく、新たな文明レベルに到達した現世の価値観へ基準を上書きしてゆかねばならない。世界の理と繋がりを持つ神ならばその膨大な情報を効率良く圧縮・解読・吸収する術を持っていよう。だが「半神」はそうにはいかない。そしてその為に必要な情報が、冥府に流れてくるのをじっと待っている猶予も無いのだ。
「……今日はこれにするよ。」
「どれ……また読み物語か?」
「こういう方が複合的で色々分かりやすいんだよ。」
書架より抜き取られた本の表紙を見やって呟かれたタナトスは抑揚のない声に対し、ザグレウスは慣れた様に受け応える。規則的に並ぶ巨大な書架の合間で、窓から入る微かな月明かりと王子の燃える月桂冠と双脚に照らされた表情はとても朗らかで穏やかだ。時刻は夜半過ぎ、建物の中の明かりは全て落ちている。……それもその筈だ。いま二神がいるのは冥府ではなく、現世の施設なのだ。
冥府の奥、ハデスの館の書庫も積み重なる年月に伴い増築に増築を重ね、抱える蔵書も膨大な量になってはいるものの、それは現代より過去の記録、保管庫としての属性が強い。半神たるザグレウスが「現在」を学習する場としては教材が少なすぎる故、不定期ではあるもののこうして地上にある人間の書物庫……図書館に「学習」するべく密やかに訪れているのである。
……とはいえ、冥府を離れた王子は水を失った魚に等しい。あれから試行錯誤を重ね、自身の血液の代わりたる闇の力を凝縮した魔具を使用する事により、多少滞在時間を引き延ばせはしたもののやはり長居はできずにいる。故に、定期的にこの施設に……図書館に通う形をとっていた。
多少の不便はあるものの、ザグレウスに不満はない。ハデス王から「現世の人間と関わらない事」を条件とされた為、この「外出」は夜半であるのが基本であり(加えて自身も冥王ハデスの旗印で姿を消している為)現世の人間の様子を直接伺えないことは残念ではあったが、それ以上に喜ばしい条件がある。そう、彼の送迎は伴侶たる死の神の役目なのだ。
「では、約束の時間に迎えに戻る。」
「ああ、いつも仕事の合間にすまない。」
本来ならばこうして王子の送迎など己の領分外の仕事を増やすべきではないのだが……タナトス自身が、役割を買って出たのが大きかったのだろう。とはいえ、タナトスは常にザグレウスに付き添えるわけではない。どんな時代であろうとも死神は常に多忙だ、故にザグレウスを図書館に送った後彼は本来の職務に戻り、そして彼が「死なない内」に回収に戻るのが基本である。
だが見方を変えれば、この送迎は彼らの数少ない逢瀬の時でもあった。時代が進めば進むほど現世の人間の数が増えた事も影響してか、タナトスの職務はより忙しなくなった様にザグレウスは感じる。自分の前ではなんてことないように振舞っているものの、かの死神の疲労度が日に日に増しているのも肌で感じ取っていた。
……故に、ザグレウスはタナトスに対し、何か自分に出来る事はないだろうか?と常々考えていたのであった。
「そうだ……タナトス、ちょっと。」
外套を被り直し飛び立とうとしたタナトスは歩みを止める。そして自分を呼びとめたザグレウスの方へ視線を向けようとしたのと、ほぼ同時だった。青年らしいしっかりとした両手が自分の頬を包み込んで、次いで、唇に柔らかく温かな感触が重なってきたのは。ちゅっと、軽やかな音で正気に戻り、止まっていた時が動き出す。タナトスは瞳を見開く、突然の出来事に喜びや気恥ずかしさより驚きが勝っていた。
「……突然、どうした。」
「ん? 仕事に向かう伴侶にする『いってらっしゃいのキス』は定番じゃないのか?」
半ば呆然としているタナトスと対照的に、ザグレウスの何の疑念を抱く様子も無い。……寧ろどこか自信に満ちてキラキラと双極の瞳を輝かせている様に、思わず死神は自身の額を押さえるように手を添えた。あるいは一旦情報を遮断すべく顔を覆いたかったのかもしれない。
自身が心配し過ぎなだけだろうか? 微かな頭痛と共に一抹の不安が胸をよぎる。時間が限られている以上仕方がないとはいえ……王子の「学習教材」となる書物も確認しなければ、会得する知識が偏る一方なのではないか……と。