嫁入りなこさく♀ 文字より墨で塗りつぶされた箇所の方が多いような教科書に乗っていた物語を、すこしも間違えず話して聞かせてくれた声が好きだと思った時に、たぶん全部決まってた。そんな気がする。
「清、まあ、何してるの」
「え?」
ぱん、と手元で伸ばした最後の一枚を干して振り返ると、慌てた顔で母さんが私を縁側に引っ張りあげた。数年前に越してきた小さな平屋はささやかだけど庭があり、とはいえ本当にささやかなので、すぐつっかけを脱いで細い縁側を跨ぐことになる。
「なにって……洗濯物。やっと晴れたし」
「今日があんたの祝言じゃなきゃそんなこと言わないのよ、全くこの子は」
ため息をつきながらでも、母さんはさすがに手早かった。古い鏡台の前に座らされた私の後ろで適当にまとめていた髪を解いて梳かしつけていく。
椿油なんて誰から分けてもらったんだろう、裏の常磐津のお師匠さんかなあ。毛先に軽く馴染まされて櫛を通されると、梳いた所で変わらないと思っていた髪もそれなりに落ち着くのにちょっと感心する。
その間にもざわざわと行き来する近所の奥さんたちにあれこれ挨拶したり、合間でしれっと何かしらお願いしたり。
私をちゃっかりしてるとよく言うけど、確実にそれは母さんから貰ったんだと思うよ。父さんもそう思うでしょう?
ちらりと見やった文机の上、線香立てと白木の位牌に並んだ小さいモノクロ写真の中で、国民服を着た父さんは今日も真面目くさってる。
その父さん譲りの髪はあっという間に編まれて丸められてまとめられて、それなりに様になって見えた。英吉利結びって言うんだっけ、これ。母さんや勘兵衛のお母さんみたいな黒髪でも真っ直ぐでもなくても、割と見れるように思えるから不思議なものだ。
「さ、髪はこれでいいから先に着替えなさい。他は全部食べ物に換えちゃったけど、残しておいてよかったわ」
「父さんが初給料で買ってきてくれたんでしょ、何回も聞いたよ……」
「あら、何回でも言うわよ。あの人も見たかったに決まってるんだから」
ねえあなた、と母さんも写真の中の父さんに笑いかける。手元には少し褪せた若草色と薄紅色の、桜の小袖。父さん、母さんに惚れてたんだろうなあって、見るだけでわかるような、優しい色。真面目くさった顔が、少しだけ困ったような照れたような顔で笑ってる気がした。
「ほら、ぽやぽやしてないで、本着付けの前にお化粧もあるんだからね」
「え~」
口紅はともかく、白粉は本当に慣れない。思わずげんなりした声を出すと、後ろで料理とか部屋の支度とか、色々手伝ってくれてるおばさんたちから笑い声が上がる。
「あらあ、清ちゃんのお化粧嫌いはまだ直んないのかい」
「お袋さんに似て化粧要らずの別嬪さんに育っちまったからねえ」
けらけらと甘やかしてくれるのはいつもの事で、焼け出されて寄せ集めのバラックで暮らしてた頃から変わらないそれが、今は純粋にありがたい。
「いやですよ姉さんたち、それに祝言当日までこれじゃあ、勘兵衛くんも呆れちゃうわ」
「呆れないよ。勘兵衛は煤まみれでも清が一番べっぴんだ、って言ってくれたもん」
「あらやだ、当てられたよちょっと!」
「当てられなくてどうすんのさ、今日の主役だよ!」
きゃーっと高い声ではしゃぐのは、奥さんがたでも中学校の友達たちでもそんなに変わんなくて、くすくす笑う。母さんはひとつ大きなため息をついたけど、着付けのために私のブラウスをはぐ頃には、同じようにくすくす笑っていた。
『嫌だ』
次の春には中学を卒業するっていう、夏の終わりだった。父さんの遺族年金が細々とでも支給されるようになったのと、洋裁ができる母さんが引き受けていた手間賃仕事がそれなりの蓄えになったのをきっかけに、焼け出されてからずっと住んでいたバラックのあった土地を売り、今の貸家に越すことになったって、母さんがご近所さんに伝えた日の夕方だった。
『勘兵衛?』
母さんは仕立てた服をお得意さんの所に届けに行っていて居なくて、留守番ついでに家の中の片付けをしていたら、ふと見た先に勘兵衛が立ってて、びっくりしたのを覚えてる。
荷物らしい荷物もないけど、行李の中のなけなしの服やら、あちこちひしゃげても底はかろうじて抜けずに頑張ってくれたお鍋やらを床に広げた風呂敷の上に置いて外に出たら、私の手を掴んでそう言った、幼なじみ。
『清に会えなくなるなんて、嫌だ』
ものすごく怒ってるみたいな、悔しくて泣きたいみたいな顔で口をぎゅうと引き結んでしまうから、ぽかんと口を開けたのも覚えてる。
『…………ええと、』
同じくらいぎゅう、と握られてる手は少し痛いくらいで、勘兵衛の手にはあちこちインクがついている。本が好きで、文章を書くのが好きで、校内新聞を作るために生徒会に入って、楽しそうにしてた。覚えてる。今日だって確か、二学期最初の特大号の詰めの為に、朝ごはんを食べるなり飛び出して行ったって、勘兵衛のお母さんがぼやいてたのに。
『あのね、勘』
『清』
ぐい、と持ち上がった日焼けした顔の中で、目張り要らずの勘兵衛の目が、今まで見た事ない色をしていた。まだ暑い夕方に、じんわり背中を汗が滑っていく。母さんが仕事の時に出る端切れを集めて作ってくれた私のブラウスは、勘兵衛のシャツとお揃いだった。長いこと同じ寸法でよかったのに、去年の冬から勘兵衛のだけ少しずつ大きくなっていった、開襟シャツ。
あれ、勘兵衛って、こんなに―――おとこのこ、だったろうか。
『俺と所帯持ってくれ』
『へ……』
『俺は高校行くつもりだからすぐじゃないけど、一八になったら迎えに行く。清が知らない所に行って知らない奴の嫁になるのなんか嫌だ、絶対嫌だ』
『ちょ、ちょっと勘兵衛』
『お前が進みたい進路があるならもちろん応援する、電話は……うちはまだ引けるの先になるから、手紙だって毎週出す、一八より先になっても構わないから、』
『勘兵衛、ねえ、私と母さんが引っ越すのは、あの角にあるお家だよ!』
歩いて一〇分、荷物のために借りる予定のリヤカーを引いたって二〇分あれば充分だろうって場所を指して叫んだら、勘兵衛は見事に固まった。
なんだなんだ、と顔を出すご近所さんが私たちを見てすぐ顔を引っ込めてくれたのが分かって、なんだろう、ものすごく居た堪れない。冬の長距離走でも平気だったのにちょっと息切れした私と、ようやく誤解のとけたらしい勘兵衛の二人して、夏の夕焼けのせいにしたいくらい、顔が赤かった。
『………………その、清、』
『……もしそんな遠くに行くんだったら、勘兵衛に言わないわけないでしょ……母さんだって、勘兵衛のお母さんと仲良しなんだから』
『…………すまん……』
さっきまでの勢いはどこへやら、お互い俯いてぼそぼそと、それでも勘兵衛は私の手を離さなかった。手なんて何度もつないだことあるし、なんなら昔はそのまま走って思いつくまま遊んで冒険して悪さもして、大人たちにこらあって怒られるのすら笑ってたのを、覚えてる。
戦争が終わって青空学校が再開して、悪ガキたちにからかわれたって、『俺と清が仲良くてお前らになんの関係があるんだ? 暇なのか?』って本気で分からない顔で言い放った勘兵衛に大笑いして、忘れる訳ない、そんなの、勘兵衛だけだったから、
『……謝ってもだめ』
『え』
『許してあげない』
『えっ』
ふい、と横を向いて呟くと、分かりやすく勘兵衛が焦る気配がする。かなかなかな、と油蝉から交代した蜩が鳴く声がして、どこかのお家で干物を焼く匂い、ひとつ向こうの通りを、遊びながらはしゃぎながら帰っていく子供たちの声、昔の私と、勘兵衛みたいな、
『手紙も電話も要らない、けど、』
一緒に居たいのが勘兵衛だけ、って思ってるんならなんだか癪で、背が伸びて声が低くなってしたいことを見つけて、追いつけないような速さでおとこのこに、男の人になっていく勘兵衛に、置いてかれるみたいな気持ちになったのは、絶対、私の方が先だったよって、それこそ大きな声で怒ってやりたいような気持ちだったのに。
『一八になったら、母さんにも、勘兵衛のお母さんにも、ちゃんとさっきの話してくれないと、許してあげない……』
なんだかしりすぼみになってしまって、らしくないなあ、って思いながら勘兵衛の方に視線を戻したら、勘兵衛の顔は夕焼けでごまかせないくらい真っ赤になっていた。
(結局、一八どころかその日のうちにご近所さんも母さんたちも、みーんな知ってたもんなあ)
白粉はできるだけ薄くしてもらって、口元に紅を引かれて、小袖を着付けてもらって、新しい足袋を履かされたまま、縁側にかけてぼんやりと庭を眺める。ひとつ向こうの部屋の襖を外して二間を抜いて祝言の会場にするって言ってたから、ざわざわも今は少し遠い。
だから、がさ、って、庭木のなる音も、きちんと聞こえた。
「気が早いよ、花婿さん」
せっかくの祝言に国民服じゃ味気ない、開襟シャツじゃ芸がない、さあどうしたもんだと勘兵衛のお母さんがあれこれあぐねてはうちの母さんと話していただけあって、裏木戸をくぐって来た勘兵衛は、黒の紋付まではいかなくても、ちゃんと髪を整えた、羽織に袴姿だった。濃紫のしっかりした染めは、真っ黒な勘兵衛の髪にも、目張りの要らない目元にも、良く似合う。
「式の前に会っちゃって、怒られない?」
それなら一緒に怒られようとか、そういう風に返事をするものだと思ってたんだけど、勘兵衛は何も言わない。ちょっと立ち止まってから、何かを確かめるような足取りで私の前に来て、また立ち止まる。
「勘兵衛?」
「………………あ、いや」
少し首を傾げて見上げると、ようやく口を開く。髭を当たったばかりらしいすべすべの口元に手を当てて、少し目を逸らしてまた戻してから、
「……綺麗だ」
返事にも何にもなってないことを、あの夏の夕方のどこにもなかった甘やかさで、でも同じくらい本気だって分かる顔で言う。あの日ちょっと心配したよりずっと速く、勘兵衛は大人と男の人になった。
「……なに、いきなり」
「見た時から思ってたんだけど、つい見惚れてな」
「もう」
お陰で少し、顔が熱い。おしろい、もう少し濃くして貰っても良かったかも。お多福さんみたいなほっぺになっていたら、どうしよう。軽く膨れて見せても、隣に腰かけた勘兵衛は笑うだけだ。
あの夏の日から、母さんたちの話し合い(勘兵衛はお母さんにだいぶどやされたみたいだけど)を挟んで何日かして、勘兵衛のお嫁さんになるよってちゃんと言った時から、勘兵衛はずっとこんな笑い方をする。楽しくて、嬉しくて、幸せだ、って笑い方を。
「お客さん、集まってきたみたいだね」
「ああ、おやじさんともさっき会った」
「え、お店閉めてきてくれたの?」
「祝い酒があるのに、仕事なんかしてられるかってさ」
ついこないだ高校を出たと思ったら、ここからほど近い下町の貸本屋を持ち主のお爺さん(勘兵衛がおやじさんて呼ぶのはこの人の事。私の父さんのことは、清の父さん、ていつも言う)から預かると早々に決めてきて、大学の夜間にも通いながら、前々からやりたかった古典の勉強をするらしい。
どれもこれも、きらきらした顔で話してくれた。勘兵衛のお母さんには『清ちゃんに相談のひとつでもして決めたのかこの馬鹿息子!』って拳骨落とされてたけど、私は私になにか話してくれる勘兵衛の声が、昔からずっと好きだった。
「……そう言えばさ、勘兵衛、私の進路、応援するって言ったよね?」
ふと口に出すと、勘兵衛はひとつ瞬いてから、ああ、と頷く。私は夜間の高校に行きながら母さんの手伝いをしてたけど、他にしたい事が見つかれば必ず協力する、って、勘兵衛はずっと言ってくれていた。
「じゃあ、勘兵衛のお店、手伝わせて」
覗き込んだ先で、勘兵衛の目が丸くなる。手先の器用さは残念ながら母さんから貰えなかったけど、代わりに帳簿つけはそこそこ出来るようになった。ご近所付き合いも周りのお姉さん方に鍛えられたし、家のことも、料理は勘兵衛の方が上手ではあるんだけど、それ以外はまあ、それなりに。
「勘兵衛が高校行ってる間に色々考えたけど、今はやっぱり、勘兵衛がしたい事のね、手伝いがしたいんだ」
いい? と覗き込んだら、勘兵衛の手が一瞬迷って、ぎゅって両手でこっちの両手を握られた。そうだね、今抱き寄せられちゃったら、口紅はともかく、白粉が肩についちゃうもの。我慢できて、えらいえらい。
「…………だめな訳あるか」
「……うん」
「嬉しいよ」
「ふふ、良かった」
そしたらこれからよろしくね、旦那様。
髪を崩さないように肩にもたれたら、包んでいた手がほどけて、指どうし絡まる。きれいに洗っても爪の隅にインクの染み付いた、あたたかな手。
「……大事にする」
「もうされてるよ」
「もっとするんだ」
「ん、わかった」
小さく笑うと、勘兵衛も笑う。ささやかな震えがつないだままの手からお互いに伝わるのが、嬉しい。
育ち上がるうちに骨の太さも節のごつさも違ってしまったけど、同じようにちいさくやわい手の頃から一緒に居た。そして、これからも一緒に居る。幼なじみで、親友で、今日からは夫になる、私のお日さま。
梅雨を抜けた空のどこかで、ぴいひょろろ、とトンビが高く登っていく声がした。
呼びに来た母さんにやっぱり二人揃って叱られたのと、叱られても顔を見合せて笑ってしまったのは、ちょっとした余談。