それでも彼は愛を持っている「傑、スクランブルエッグと目玉焼きどっちがいい?」
「オムレツをお願いするよシェフ」
もう何度目かわからない朝の風景だが、こんなやり取りをするたびに人間変わるものだなと実感する。
学生のころの悟はそれは寝穢なかった。朝食をとる時間があるならとにかく寝たいというタイプで、こんな風にゆっくり朝食を、しかも悟本人が作ってなんて想像も出来ないものだった。
それが今や選択肢にない料理も作ってくれる名シェフとなっている。
10年の月日の長さをここまで実感することはそうそうない。
「はい、おっ待たせー」
語尾にハートマークでもついていそうなテンションの高い声。これも学生時代は決してありえなかった光景だ。あの頃の朝の悟なんて人語を介することが出来れば上出来というありさまだった。何度首の上下だけでその意思を確認したことか。
持ってこられた朝食は私のリクエスト通りのオムレツ。それは二人分作られていて、それぞれ丁寧にケチャップでハートマークが書かれている。そしてその後ろではオーブントースターがタイミングよくチンと音を立てた。
「飲み物は珈琲でいい?」
「そうだな……それでお願いしようかな」
一瞬牛乳を飲みたい気もしたが頭をすっきりさせることを選択した。カフェインがそこまで効く体質でもないが、淹れたての珈琲の匂いを体がもう覚えていて、それを嗅ぐだけで一日の始まりだと背筋が伸びる。
焼き立てのクロワッサンと淹れたての珈琲二人分。ついでに並べられた砂糖は私は使わないから悟専用だ。
彼はいつも通り見ていると気分が悪くなるほどの砂糖を珈琲へぶち込んでいく。
「はい、いただきます」
「いただきます」
オムレツは中がとろりと半熟でいい塩梅だ。そしてケチャップと思っていたものはデミグラスソースに類するものだったらしい。
「ここのクロワッサンどうかな。最近駅前に出来た小さな店なんだけど、悠仁と野薔薇が褒めてたから気になって買っちゃった」
「美味しいよ。甘みが強いから悟も好きなんじゃないかな」
匂いからすでにたっぷりのバターを練り込まれて作られたことがわかるそのパンは、頬張った瞬間に贅沢な甘みが口いっぱいに広がって、それだけで目の前の友人の満足げな顔を想像することが出来た。
実際目の前で想像通りの表情が展開されて思わず笑ってしまう。
「いいね。ヌテラとバナナ挟んだやつもあったんだけど買って来ればよかったな」
「君好みでよかったじゃないか。そんなお洒落なもの売ってる店がこの田舎の駅前に出来るなんて貴重だね。五条家で買い上げたらどうだ」
私の軽口に悟もそれもいいかな、なんて返してくる。しかしたまにこの返答はそのまま現実になることがあってなかなか侮れない。これだから金持ちというものは。
悟はそして食べながら今日の授業計画のようなただの愚痴のような何とも言えない話を一方的にべらべら聞かせてきた。その端々から彼の受け持つ生徒たちへの期待や愛情が垣間見えて、穏やかな空気が部屋を満たすように思えた。
色々口さがないことを言われる男だが、彼はきちんと人並みの善性と愛情を持っている。
彼と親しく付き合ったものは誰もがそれを理解している。きっと彼の生徒もそうだろう。
「悟、そろそろ時間じゃないか」
「いっけね」
時計を確認し悟は慌てて食器を流しへ持って行く。そこでさらに洗おうとしたから、私がやるよとその背中に声を掛けた。
「いいよ。傑は気にしないで。僕がやるから」
「そうはいかないよ。君教師なんだから遅刻をするわけにはいかないだろ」
そう言ってベッドから出ようとしたところで、手をびしょびしょに濡らしたまま悟がこちらを振り返ってじゃあさ、と口を開く。
「浸けっぱなしでいいよ。今日午後からみんな任務行っちゃうから、僕帰って来て洗うわ」
「それくらいなら私も出来るのに……まあいいやわかったよ。それより時間」
いけね、とまた言うと悟は慌てて手を拭いて目隠しをした。いよいよ五条先生、と言う風体だ。
「じゃあ行ってきます」
そう言って悟は私の額にキスをして部屋を出て行った。
私はその背中に手を振って、玄関が閉まった瞬間に一切の表情をなくす。
左腕と膝を使ってベッドから車椅子に移る。
朝の陽ざしを取り込むため開け放たれていたカーテンを乱暴に閉めると、遮光性の高いそれはすぐさま効力を発揮して部屋は真っ暗になった。
常夜灯だけを点けて流しへ向かう。そこには先ほど使った食器が水を貼った桶に浸け込まれていて、無性にすべてを粉々に壊してしまいたくなる。
それでも頭はどこか冷めていて、片手だけでは壊すのにも時間がかかるだろうな、なんてこと思って結局やめた。
彼は生徒から慕われるいい教師になったのだろう。一年前のことと、そして今彼が語る生徒とのやり取りからそれを理解することが出来る。
きっと生徒たちは彼の庇護を信じ、そして頼ることが出来ている。愛されながら育っていることだろう。
そう、五条悟は生徒を愛する善き教師なのだ。
私はそんな彼に足の腱を切られここに幽閉されている。
君のこんな姿を見たら君の生徒たちはどう思うだろうね
処遇は驚くべきものだった。
現場で処刑をされず上層部に身柄を拘束された私は、それでも当然死を覚悟していた。
だがある日その宣告はいきなり解除された。
目の前には、五条悟がいた。
百鬼夜行で手持ちの呪霊を全て使い切ったと言っているが、それが偽りであった場合処刑した後どうなるかわからないため、禁錮刑としておくことが妥当である。そしてその監督責任は自分が負う、と言う主張が通った、とのことだった。
完全なる詭弁であると上層部も理解していたのだろうが、五条悟がそんな詭弁を持ち出してまで死刑を回避させようとする事象を、自分たちの力で抑え込むことは出来ないと判断したのだろう。めでたく私は悟の保護下に入った。
あの五条悟も人の子だったらしい、情に絆された、などという話をよく耳にした。そしてそれは私も同意見だった。あの悟がこんなことをするというのは余りにも意外だった。いつの間にそんなに情に脆くなったのだろうか。
連れてこられたのは高専からほどなく近い一軒家だった。それはどう見ても新築の物件で、悟の「折角だから建てたんだ」という言葉に呆然としてしまったものだった。
五条家の資産からすれば家一軒など安い買い物なのかもしれないが、それにしても意味がよくわからなかった。
その新築の家は、普通の人間が見たら近づきがたいと思うほどべたべたと呪符が貼られていて、一歩入ればもう呪力は使えないようになっていた。
私に宛がわれたのはリビングだ。というよりもその家は不思議な作りになっていて、ワンルームの一戸建て、とでも言うべき代物だった。
大きな部屋が一つだけあって、そこにはベッドも対面式のキッチンもあって、トイレや風呂場へ扉一つで行けるようになっていた。
そして――ベッドの傍らには似つかわしくない車椅子。
私は首を傾げた。片腕は乙骨憂太との戦いで失くしてしまったが、足には何の問題も無い。悟も当然足に障害を抱えているわけではない。
そう言えばこの家はそもそもの作りがバリアフリーとなっていた。もしや訳アリの家を転用したのだろうか、と思ったのだが、先程の彼の言葉と車椅子の説明がそれではつかない。
悟、と私が説明を求めた瞬間、私の両足の腱は躊躇う様子もなく切断されていた。
一瞬意味が分からなかったが、特に動揺もしていない元友人の様子を見るに、最初からこう言うつもりだったのかと理解した。
呪力と物理の二重の封印。
それが私を死罪から免れさせる条件だったのではないかと。
だったらいっそ殺してほしかった、と私は言った。
悟は――馬鹿だな、と一言言ったのだと思う。
そして私はそのまま、その場で体を暴かれた。
一つも理解は出来なかった。
自分の身に何が起こったのか、元親友が何故こんなことをしているのか、すべてが、すべてが。
当然抵抗したが、片腕も、そして両足も失くし、呪力も使えない私に勝ち目はなかった。
出来立ての家の、設えられたばかりの柔らかなベッドの上は、あっという間に淫靡な空間に塗り替えられた。
耳元で聞こえた獣じみた男の息遣いを未だに覚えている。
肌を這う節ばった手。傑、傑、と私を呼ぶその声。
すべて10年前のあの時と何も変わってはいなくて、眩暈がした。
理由がある、と思った。そうなのだと考えた。けれど彼は何もせずとも私に興奮していた。
そして彼は私の上で言った。ずっとこうしたかった、と。
そこから彼の口から溢れ出たのは10年前から燻っていたらしき私への劣情だった。
正直、切り落とされた右腕よりも、今しがた切られた脚よりも、何よりもその感情は痛かった。
抱かれながら私はひたすら執念をぶつけられた。それは執着だったし、愛情だったし、妄執と呼ぶにふさわしい代物だった。
そして私はその日以来ここで彼に飼われている。
逃げようとしなかったわけじゃない。伊達に鍛えていたわけではなくて、片腕での車椅子もすぐに慣れて簡単に動けるようになった。
空恐ろしく感じたのは、監視の目が悟以外に本当に存在しないと理解した時だ。
悟は当然一日中常にここにいることは出来ない。だからその間は私は別の人間が監視に来ると思っていたのだが、そうではなかった。
ここは彼の箱庭だった。ここに存在していいのは私と彼だけだった。
彼はここで本当に私を「そういうもの」として飼い殺したいのだ。
そう理解した時、逃げ出す以外の選択肢は頭に浮かんでこなかった。
物理的に内側からは開けられないようにはしてあったが、何とか壊すことが出来た。一歩でも外に出てしまえばあとは呪霊を使ってしまえばいい。それだけの簡単な脱出劇、のはずだった。
彼がいた。
正確には彼が来た、のかも知れない。
兎に角玄関を出た本当のほんの一瞬だった。
私はあっという間に家の中に連れ戻され、そして滅茶苦茶に犯された。
本当にひどかった。一日、ひょっとしたらそれ以上私はずっと彼に抱かれ続けていたのかもしれない。
そしてそれは私の脱出への欲求を失わせるのに十分だった。
死ぬ事も考えたが、彼はきっとそれも許さないだろう、という確信に満ちた予感があった。
だから私は心を殺した。彼が来るたびに大人しく体を開いていればそれ以上酷いことをされることはなかった。
しかしとある日、彼は飛び切りの笑顔でこう言った。
「大人しい傑はつまらないね」
それは事実上の命令だった。黙って抱かれるだけの人形でいるなと、そう言うことなのだ。
それを違えたらどうなるか。私は逃げ出したあの日の酷い折檻を思い出して、彼の前だというのに思わず震えてしまったほどだ。
怯え震え、汗にまみれた私を彼は似つかわしくない優しい仕草で抱き竦め、額にキスをしてきた。
「僕は傑が好きなんだよ。傑が僕を好きでいてくれれば酷いことはしないって約束する」
――こうして私は彼の恋人として振る舞うことに、なった。
午後になれば悟は約束通り帰って来て、また今日高専であった出来事を事細かに報告してくるだろう。それは愚痴だったりすることもあるが、愛情に満ち満ちていることは明白で、彼が真に生徒たちを大切に思っていることが容易に伝わってくる。
心配をしたり、喜んだり、彼らの成長はそのまま悟の喜びなのだ。
そして私はたった一人、その柔らかな愛に包まれることが出来ないまま、ここで彼に抱かれ続ける。
もし10年前のあの日、道を違えることがなければ私も彼のそんな穏やかな愛情を向けられる一部だっただろうか。それとも生まれた時からそんな道はなかったのか。
わからない。私がするべきことと言えば結局ここで彼の望むまま彼を出迎えることだけなのだ。彼の顔色を窺いながら。惨めにも。
きっと悟の生徒たちは夢にだって見ないだろう。なんなら事実を告げられても信用さえしないだろう。
彼の善性は生徒に対しては紛れもない真実だからだ。その愛情にも裏表はない。
ここにあるものだけが唯一歪んでいるだけだから、私以外の他の誰もそれを知る術は存在しない。
君のこんな姿を見たら君の生徒たちはどう思うだろうね?
心の中でずっとそれを問いかけながら、私は今日もこの男に抱かれ続ける。
了