五条悟の結婚 そのとんでもないニュースが飛び込んできたのはハロウィンも終わり、深まった秋が暮れていく頃の話だった。
後に渋谷事変と名付けられたハロウィンの一連の事象は、大規模な混乱とそれなりの被害を出したものの何とか収束することが出来た。
呪霊の大半は殲滅、首謀者とみなされている夏油傑の行方は未だ不明。
共犯疑惑を未だに掛けられているらしいが、それ以上に特級呪霊を数体も一人で祓った英雄と言う側面の強い五条悟は今日も自由で元気で鬱陶しかった。
一年生三人は昼食を取りながら教室でだらだらと適当なお喋りをしていたのだが、そこに飛び込んできたのは禪院真希の剣のある声だった。
「おい伏黒」
乱暴に開かれた扉から真希が大股で入ってくる。後ろには金魚のフンのように残りの二年生が三人。
みな尋常な様子でないことは一目でわかった。
思わず一年生たちも顔を強張らせ、雰囲気を一変させる。
「どうしたんですか? 何かトラブルでも?」
「お前聞いてないのか?」
伏黒の言葉に真希は荒々しくそう声を上げた。
しかし一向に身に覚えのない伏黒は首を傾げるばかりだ。
「何も……ハロウィン以来大した任務もなかったですし」
「そうじゃねーよ」
こんなにも険しい雰囲気になるのだから、それは当然呪霊絡みだろうと踏んだ伏黒の考えは見事に外れたらしい。
では何が、とさらに眉間の皺を深くした伏黒の机が真希によって乱暴に叩かれる。
「五条の結婚の話だよ」
時が止まった。
『本当だよ。式を挙げていないだけなのか籍もまだなのかはわからないが、五条さんは女性と一緒に暮らしているそうだ』
そう言い切ったのは画面の向こうの平安顔――加茂憲紀だった。
伏黒の机を囲むようにしてみなその画面をじっと見つめていた。
結局伏黒も碌な情報を持っていないと知るや、真希は伏黒に加茂に電話を掛けさせたのだった。真希が妹である真依に連絡を取ればいいのでは、と伏黒は思ったが、この姉妹に様々な感情が渦巻いているのは痛いほどよくわかっていたので流石に口には出さなかった。
伏黒と加茂は交流会の折連絡先を交換したが、伏黒から頻繁に連絡を取っているわけではない。もっともそれは加茂に対してだけではなく誰に対しても同じなのだが。
しかし加茂からは思った以上に連絡が多く、今回も電話を掛ける程度ならまあ困らないだろう、という判断が下せた。
意外だったのはそれを音声だけではなく映像通話にされたことで、見れば画面に映っているのは加茂だけではなく京都校の面々がみな一様に介しているようだった。
暇なのだろうか。
それはこちらも同じことだ。
暇なのは良いことだ。
渋谷事変の折一瞬だけ顔を合わせた新田という一年生、そしてどういうわけか人間になったらしいメカ丸と、見慣れない顔も含めて賑やかだ。
「それホントなのか?」
胡散臭げに真希が加茂に訊ねる。本当だ、と加茂は涼しい顔で言った。
『名前こそ聞かなかったが五条さんとさほど歳は離れていない女性だそうだ。近い内に式も上げるだろうから、その時はきっとみな呼ばれることだろうよ』
京都校にも、東京校にも動揺が走る。
あの五条悟が結婚なんて。
いったい今までどれほどの浮名を流してきたのか数知れない男だ。一体どういう心境で年貢の納め時となったのだろうか。
「画像とかないの!?」
勢い込んで食いついたのは釘崎だ。画面の向こうの女性陣も同じ気持ちらしくみなじっと加茂を見つめたが、加茂は軽く首を横に振った。
『ないな。そもそもいつから付き合っていたのかさえ誰も知らないらしい。ただ今はもう隠すこともせずに休日なんかは仲睦まじく外へ出かけているらしいよ。黒髪の美しい方だそうだ』
へぇ~、と、動揺とも感嘆とも何とも取れない声が各々の口を突いて出る。
『御三家当主だから色々しがらみはあるはずなのに、流石五条悟ってとこかしら』
画面の向こうで真依が羨ましそうな、妬ましいような、尊敬するような、何とも言えない口ぶりでそう言った。
『式は当然盛大にやるだろうね』
『えっじゃあドレス作らなきゃ』
「高専生は制服でいいだろ」
驚きと一種の喜びで、通話は短い時間ではあったが花が咲いた。
とりあえずこの後当人に話を聞いて報告する、という約束をして通話は終了した。
そして一年生と二年生は団子になって職員室へと駆けだした。
「五条!」
「悟!」
トップで飛び込んだのは真希とパンダだ。優雅なティータイムならぬ優雅な昼食にフルーツサンドを頬張っていたらしい五条がびっくりしたように顔を上げる。
「なになに?」
手に付いた生クリームを舐めながら五条はそう声を上げた。
任務の話で来ていたのか、五条の向かいに座っていた七海がホッとしたような表情を浮かべたのは、恐らくきっと身も蓋もない下らない話の相手をさせられていたからに間違いない。
「お前、結婚すんのか!?」
パンダのその声に流石に七海も目を見張った。
五条自身は、少なくとも見える範囲で驚いてはいなかった。しかし後ろからぞろぞろとやって来る教え子たちを見ながら、気まずそうにんん、とうめき声をあげる。
「そうね~。まあね~」
実のない返事だったが、その口元は喜びに歪んでいて、先ほどの情報が間違いなく真実なのだと告げていた。
「マジなんだ! 先生おめでとう!」
虎杖が叫ぶようにそう歓声を上げる。
それが口火を切って、それぞれの口から感想とも驚きとも祝福とも言えない言葉が次々に流れ出た。
五条は、五条にしては珍しくデレデレと鼻の下を伸ばしその言葉を受け取っていた。
■
私が目を覚ました時に見たのは想像もしない景色だった。
そもそも目を覚ますことなどありえなかったはずなのに。
見覚えのない天井は年季こそ入っているが綺麗に掃除の行き届いたモノで、少なくとも私の記憶の中には一切存在しない代物だった。
そして私は困惑の声を上げ――さらに混乱した。
思わず自分の喉を押さえる。
違う。
声、だけではない。喉も、その喉を掴んだ手さえも、私の慣れ親しんだそれではなかった。
思わず目の前に翳した手は真っ白で華奢で、見慣れたふしばってかさついた指ではなかった。
「起きられましたか」
知らない声を掛けられ私はそちらへ首を向ける。
畳の上に座った、上品な着物の女性がこちらを見ていた。
「あの……」
そう発したその声は完全に女のもので、私をさらに愕然とさせる。
何だこれは。どういうことだ。
「今ご当主様を呼んでまいりますので、少々お待ちください」
ご当主様。
私の人生には馴染みのない単語だ。
しかし脳裏をかすめるものはたった一つだけ存在した。
女性が去った後、私はゆっくりと体を起こした。
痛みはない。だが勝手が違う。
全身をくまなく見回しても、それは女の体に他ならなかった。
どうなっているんだ、これは。
混乱する頭を何とか落ち着けようとするがままならない。
そもそも、私は――
廊下をあわただしく走るような音が聞こえてその思考は中断された。
そしてその足音は部屋の前で止まると、勢いよく障子が開けられる。
「傑!」
五条悟がそこに立っていた。
「……理解が出来ない」
話を聞いた後に出た言葉はたったそれ一つだった。
興奮気味にやって来た彼は人払いをして、こうなるまでの顛末を聞かせてくれた。
今は2018年の冬であると言うこと。
私は間違いなく去年のクリスマスに殺されたのだと言うこと。
つまり私は一年近く「死んでいた」というわけだ。
それがなぜ今こうしているのかと言うと、私の体は体を入れ替える術式を持つ何者かによって使用されている、のだそうだ。
その化け物には野望があり、悟はその達成のため封印されかかったのだが、そこで取引を持ち掛けたのだという。
「傑を別の体に移して生き返らせてくれるなら僕もう邪魔しないよって言ったの」
にわかには信じられない話だった。
しかし現に今私はここにいる。
「体は選ばせてくれるって言ったからね。なるべく似てるのを選んだつもりなんだけどどうかな」
どうも何も。
「……どうして女の体を選んだんだ」
「だってそうすれば僕と傑は子供を作れるし、合法的に結婚も出来るでしょ」
眩暈がした。
「ありえない。大体君はこんなことのためにその何某かを見逃したって言うのか? 世界がどうなるかわからないのか?」
「わかってるよ」
そう答えた悟の口調はあくまで穏やかだった。
「世界がどんなことになったってお前一人なら僕は守れる。僕はね、世界なんてどうでもいいんだよ。お前さえいれば」
「どうかしたのか君は!」
思わず絶叫していた。
「君は世界を守るために去年私を殺したんだろう! それをこんな風に投げ捨てるとか正気か!? 今まで自分がしたことを全てドブに捨てるなんて!!」
「……そうだったんだけどね。改めてお前の体を見たら、……欲が出た」
目隠しを外され、露わになっている六眼がじっと私を見る。静かではあるがその奥には暗い炎が燃えているのがありありとわかった。それに思わず身震いする。
「……理解が出来ない」
私はそう口にしていた。
「僕は傑がどうしても欲しかった。傑と幸せになりたかった。だからだよ」
一ミリの迷いもない声だった。それが私の頭をさらに混乱させる。
「……私は幸せなんかじゃない。こんな、呪力も、術式もない、猿の体に入れられて、何が幸せだ! さっさと殺してくれ! 去年みたいに!」
血を吐くような思いで私は絶叫した。
しかしその声もよくわからない女のそれで、本当に自分が自分ではないものになってしまったんだと突きつけられ頭の芯が重くなる。
忌むべき猿の体。しかも性別さえも取り上げられて。
絶望させるためだけに生き返らされたのだとしか思えない。
「そんなこと言うなよ」
「そんなこと!? こんな体になって、私にはもう何もない!! 生きている価値なんてない!!」
もう何も出来ない。ならこの生は無意味だ。
憎悪で頭が破裂する前にこの命を終わらせてしまいたかった。
しかし次に悟の口から出た音場は私の頭を冷えさせるには十分なものだった。
「傑にはあるじゃない。家族がさ」
掻きむしっていた頭を上げ、思わず悟を見る。
悟は、にこやかに笑っていた。
「家族……」
「そう。ああ大丈夫、みんなきちんと保護してるからね。きっと傑が生きてるって知ったら喜ぶよ」
それを聞いて大きな喜びと、そして絶望が体を駆け巡った。
こんな体になって、私は全てを失ってしまった。しかし家族は生きている。それだけは無上の喜びだった。しかし、こんな体になって、忌むべき猿になってしまって、もう二度とみんなには会えないのだと。
だが悟の言葉はそんな絶望さえ打ち砕くものだった。
「傑が僕の側で生きててくれたら、傑の家族もそうしててあげるよ」
全身の血の巡りが一気に冷える。
先ほどもそうだったが、わからない。目の前にいる男が、わからない。
本当に10年前共に過ごした親友だろうか。去年私を殺した男だろうか。
私が見た目を入れ替えられたのと対をなすように、この男は皮だけ残して中身を入れ替えられたのではあるまいか。
「……私を脅迫するのか」
「そうだよ。そうじゃなかったら傑死んじゃいそうだし」
悪びれも躊躇いもせず悟はそう答える。ますますもって理解できない。
「君、本当にどうかしてるよ」
「さっきも言ったでしょ、僕は傑さえいればいいんだって。倫理観なんてホームのゴミ箱にダンクしてきたよ」
あくまでも軽薄なその口調はいつもの悟を思わせる。しかしわからない。目の前の男が、怖い。
「さあ傑、返事をくれよ」
そう言って悟は私の手を持ち上げた。
私、とは違う真っ白で滑らかなその指。程よく付いた脂肪は柔らかくまさに壊れ物のようだ。
「僕と結婚してください」
――結婚は人生の墓場だという。
頬に一滴、涙が流れた。
「……はい」
呪力をなくし、術式をなくし、性別もなくした。今ここにいるのは夏油傑だと信じられている得体の知れない女で、夏油傑の肉体の中には得体の知れない化け物が入り込んでいる。
夏油傑は、もうどこにもいない。
私はそれでも自分を夏油傑だと思い込んでいるだけの哀れな狂人だ。それでもその中で残っているものは家族だけなのだ。
それを守るためならすべて差し出そう。どうせこの身体に価値はない。こんなもの好きにするといい。
私に残された価値はただ一つ、家族だけなのだから。
「ありがとう傑」
本当に、心の底から幸せそうにそう言うと悟は私を抱きしめた。
そして私は何者でもないモノから、「五条悟の妻」に、なった。
生きながらにして私は墓へと舞い戻った。
■
見ても見ても、ただの他人だ。
鏡を眺めながら私はそう思った。
あれから結婚式も恙なく終わった。
風の噂では相当な反対があったらしいが、それは悟がねじ伏せたのだという。
結婚式はそれは盛大なもので、去年見た顔である学生たちの姿もあった。
みな一様に悟を祝福していた。
悟は実によく出来た夫だった。傍から見れば皆が羨ましがるような夫婦生活だっただろう。
そうしてこの体は本当に女であったらしく、すぐに子供も出来た。
悟は大層喜んだが、私には理解できなかった。
あれから私はあまり鏡を見なくなった。鏡だけではない。出来れば自分の体を直視したくなかった。
驚いたことにそれを良しとした悟は、家の中をずっと夜の帳が降りているかのようにした。遮光性の高いカーテンは殆ど開けられることはなく、家はずっと薄暗いままだった。当人は周りの明るさは僕には関係ないからね、と言っていた。
五条家の敷地内に建てられたその家は、傍から見てもずっとカーテンが閉まったままでさぞや異様に見えるだろう。しかし誰もそれに関しては何も言わない。
それでも私は時折カーテンを開けて、自分の顔を見る時がある。
確かに似てはいると思うが所詮は何者かも知れない赤の他人だ。私が好きと言ったところでよくこの体を抱こうと思えるな、と思うし、剰えそれで子供を作ろうなんてよく考えられるものだ。
膨らんできた腹を抱えながら私は何とも言えない気分に陥る。
術式はいくつになればわかるのだろうか。この体は猿の体だが、それと悟が交わって生まれる子の呪力はどうなるのだろう。そもそも元の私も全くの一般人の家庭の出身だったから、結局のところ赤ん坊に呪力が宿るか否かは運次第なのだろうか。
ならばできれば呪力を持って生まれてきて欲しい。憎むべきものは少ない方が良い。
それでも果たしてこの腹から生まれてくる子供に愛情は持てないと思う。いくらお腹を痛めて産んだ子だと言っても所詮この体は私の体ではないのだ。しかし五条悟がそれを望むのなら私は子供を愛するだろう。
時折悟が見せてくれる「家族」の動画。みな一様に明るく私に語り掛けてくれている。
その男は何も果たせなかったというのに。
私はそんな優しい「家族」たちを守りたい。そのためなら子供もきっと愛せるだろう。
■
「元気な男の子だよ、ありがとう傑」
とても愛おしそうにその赤子を抱きながら悟はそう言った。
十月十日はあっという間に過ぎ、私は玉のような子を産んだ。
腹ぼてだった期間も、出産のことも、まるで全てが悪い夢のようで、苦痛も全て朧気でしかない。
「この真っ黒な髪質は傑によく似てるよ。まあ僕んちも僕以外は黒髪だけどさ」
「そうなんだね」
似ている?
「誰」に?
「でもこれで僕もお父さんか~。うん、僕もお父さんとして家族を守るためにこれからもっと頑張るよ」
悟は輝くような笑顔でそう言った。
赤ん坊を受け取りながら私も笑う。
「そうだね、私も「家族」を守れるように頑張るよ」
私に価値あるものは家族だけ
ただそれだけ。
了