Snowglobe「カタチだけだろ、そんなもの」
ラーハルトは顔も上げずに答える。
リズミカルにアンチョビを切り刻み、新鮮なチコリに乗せる。
「うん」
と、ヒュンケルはページを繰る。古書店で見つけたペーパーバックには、何かの花が挟まっている。
「それでも。クリスマスには、家に帰るんだ」
たっぷりのフルーツケーキを想像しながら、ヒュンケルは言う。
「そういうものなんだ」
たたき上げの審美眼で美術商の職を得たラーハルトと、そこそこ売れ始めた画家のヒュンケルが出会ったのは運命だった。
親の無い子供同士。
惹かれ合った二人が共に住み始めて、もう数年が経つ。
生きていける程度以上の収入と、一等地のアパルトマンと、やりがいのある仕事。
それなりに幸せと言っていいだろう。
「なあ」
ヒュンケルは小説を閉じて、ソファ越しにキッチンを振り返る。
「今年は飾らないか、クリスマスツリー」
ラーハルトは手を止めて、ちょっと考える。
お互い、たったひとりで生き抜いてきた。
使えるものは全て使って、走り抜けて。
脳細胞の最後の一滴まで搾り上げて、やっとのことで、安定した生活を手に入れた。
……家族。
彼らに、そんな概念は無かった。
それは罠だった。
望んだが最後、絶望の底に突き落とされてしまうのだから。
ラーハルトは無言でチコリを並べて、爽やかなプロセッコの栓を抜く。
冷やしたグラスを取り出して、恵みの酒をしゅわりと注ぐ。
流れるような作業を、ヒュンケルはじっと見守る。
「無いな」
と、ラーハルトが呟く。
はじける泡の繊細な音色に溶けるほど、小さな声。
「今年も。ツリーは必要ない」
ヒュンケルは唇を噛んで、ちょっと頷く。
そして、カポーティの『クリスマスの思い出』をまた読み始めた。
都会の淡雪は、銀色になる前に消え失せる。
ラーハルトの鼻先に舞い降りて、瞬時に蒸発する。
難解な商談をまとめて安堵し、意味もなく遠回りをしてしまう。
――家に帰るんだ。
ヒュンケルの言葉が耳鳴りみたいに響く。
そんなもの無くても。家族なんていう契約が無くても。
俺たち二人、充実した暮らしを営んでいるじゃないか。
そんなもの。
堂々巡りの思考が、突然途切れた。
『ラーハルト、外を見て。素晴らしいわ』
遠い声。
封印していた記憶が、冷気に呼ばれて蘇る。
『ゆきだるまを作りましょう。あなたみたいにかわいくて、賢い子を』
クリスマスのごちそうどころか、指先を温めることすらままならなかったのに。
母は、世界の美しさを忘れなかった。
どんな時でも。
ふと、何かが目に留まった。
華やぐ十二月の街、子供が張り付くショーウィンドウ。
大小ずらりと整列したスノードームが、きらきらと五色に光る。
そのひとつに、目を奪われた。
粉雪の舞う小さな世界に、もみの木と、小さなゆきだるまが二人。
……ああ。
そうか。
歩み寄り、はしゃぐ子供たちと一緒に、窓に頬を寄せた。
磨かれたガラスが曇るのも意に介さず、幼児のように。
今まで閉ざしていた魂に、不思議な羽が生えた。
「あれを買って帰ろう」
ヒュンケルと、自分のために。
家族のために。
――彼は、きっと喜ぶ。
こんぐらがった心が、優しい冬に抱かれて、ゆっくりとほどけていく。
ありきたりな讃美歌に揺られて、安っぽく、幸福に。