Cupcake「……え?」
もと魔王軍幹部とは思えない、わたあめみたいな返事に、少年は何度目かのため息をつく。
「だから。卵をかき混ぜる時には、こっちの道具を使うんだって。それは、スープを掬うためのもの」
「ああ」
ヒュンケルは慌てて、目の前のボウルに注意を戻す。しかし、粉と卵の塊を呆然と突っつきながら、視線はすぐに窓の外へと飛んでいく。
「もう。教えてくれって言うから準備したのにさ」
「……ああ、すまない。どこまで教わっただろうか」
「もういいよ、今日はやめとこ。またちゃんと教えてあげるからさ」
「悪かった。なぜだろう、朝からどうも頭がはっきりしなくて……いや、もう一度お願いしたい。バターを溶かして、それから」
「うん、多分ヒュンケル様はお料理に向いていないよ」
花売りの少年はバッサリと切り捨てる。
「料理は集中力だよ。魔法と一緒」
「なるほど」
ヒュンケルは肩を落とす。否、集中力に自信がないわけではない。だから料理など、本気で学べば楽にこなせると思っていたのに。
「しかし、才能のなさを努力でカバーすることもできるだろう。俺はあえて挑戦したいんだ」
「あのね、時には神様は、信じられないくらい才能のない人間を作るんだよ」
少年は無慈悲に慰める。
「そういう場合はね、言っとくけど、諦めた方がいいんだ」
ヒュンケルはますます肩を落とす。
「……まあ、でも、料理は生きるための技術だし。修行だと思えば、先が見えなくても頑張れるよね。また教えてあげるから、懲りずにおいでよ」
「承知した」
修行、と言う言葉を聞いて、少し気を取り直す。
ヒュンケルにとって、一回り以上年の離れた子供にものを教わることは、特に不自然なことではないようだ。
彼の目には、花屋の少年とベテランの近衛兵との間には、戦闘能力やだいたいのサイズくらいしか明確な区別がないのだ。
大きなモンスターと小さなモンスターに、こと知的能力に関しては信頼に足る差がなかったからかもしれない。話のわかるスライムもいれば、話が通じないアークデーモンもいる。
人間に混じって暮らし始めてからも、どうも、その辺りの感覚が更新できていない。時には半魔の相棒ラーハルトに嗜められるくらいに。
「でも、なんでヒュンケル様のお師匠に習わないの? 料理がすごく得意な大勇者様でしょ?」
さすがゴシップ付きの国民、王のステータスは把握済みだ。
「いろいろ事情があるんだ」
そうとしか言いようが無い。
多忙な師を、こんなことで煩わせることができるだろうか。
相棒に料理の腕を酷評されて大喧嘩した挙句、なんとか体裁を保とうと練習を始めた結果、才能のなさに気づいてしまったので助けてほしい、などと。
「だが、お前に頼んだのは軽い気持ちからではない。我が師から学ぶよりも多くを得られると直感したからだ。感謝している。今月の月謝だ」
「ありがと。……あのさ、ヒュンケル様。おれも露天商の端くれなんだから、算数はできるよ。こんなにいらない。今日も上の空で、全然教えてないじゃないか」
「口止め料だ。取っておいてくれ」
「多すぎるって」
「だったら、病気の母上へのプレゼントにしてくれ」
少年はじっとヒュンケルを見上げる。
「……うん。じゃあ、そうさせてもらう」
ヒュンケルは名残惜しそうにボウルの中を見やるが、てきぱきと荷物をまとめて振り返った。
「また、もうすこし上達してから教授願おう」
「了解、ヒュンケル様。お気をつけて」
とぼとぼと歩きながら、半分くらいしか覚えていないレシピを復唱する。
バター、卵、粉、なにかの粉、またなにかの粉、少々の塩、それと、なにかの粉。
まずどれとどれを混ぜるのだったか。いや、それ以前に、前日から準備して寝かせておくものがあったような。
戦闘に関する書なら――いや、それ以外でも大抵の書籍は、一撃で記憶できるのに。
なぜこんなにも難解なのか、料理という技は。
そして、なぜ彼の相棒、泣く子も黙る陸戦騎は、超一流の戦士専門職でありながら、それを器用にこなしてしまうのか。
解せない。
調理手順に入ったとたんに千々に乱れて、虚空に散っていく集中力。
この感覚は、ちょっと覚えがある。確かに、魔法を教わった時と同じだ。
――これが、火炎呪文です。微粒子のざわめきを感じてみなさい。呪文の詠唱により召喚された異次元のシステムが、この世界の物理法則に干渉し、均衡を乱すのが分かるでしょう。あなたが剣を振るうときの位置エネルギーと同様のパワーです。それが局所の分子運動を急速に増大させ、そして――
師の朗々とした説明が、急速な眠気を誘う。
魔法に触れる度に、必要最低限の理論的思考すら雲散霧消するのだ。
――ほんとうに、あなたは根っからの戦士なんですねぇ。
と、彼は感嘆したように言った。
――言語学も戦略論も兵法も、数学も化学もスポンジみたいに吸収する癖に、どうしても、魔法だけは受け付けてくれない。
――こんなに向いていないなんて、愛らしいくらいですよ。
仇と憎む師の言葉に、当時は馬鹿にされた気分になったものだ。今は、くすりと笑ってしまう。
こんなに大きくなってもまた、さじを投げられましたよ、先生。
「ヒュンケル? いるのか?」
のんびりとした呼び声。
ヒュンケルの仮住まいは、王都郊外の、古びた書店の二階だった。
奇抜な趣味の書店長が暮らしていたのだが、このたび住居を別にするにあたって、常連客のヒュンケルが守衛代わりに借り受けることになったのだ。
どうにか王宮を抜け出す口実に過ぎなかったが、品の良い小さなキッチンと浴室、不思議な模様の壁紙と、古いテーブルに染み込んだ書籍の匂いが気に入っていた。
ファッションに疎いヒュンケルが、突如魅力的な賃貸物件に腰を落ち着けたことに、ラーハルトは驚いていた。が、最近はなにかと用事を見つけては訪ねてくる。
下手をすると一か月くらいキノコや果物を食べ続けている相棒の、適切な栄養補給のためだ。
絶望的に料理が下手な(と、ラーハルトの感覚では判定せざるを得ない)ヒュンケルの命を繋ぐには、誰かが過干渉にならざるを得ないではないか。
そんなわけで、王宮で手に入れたスピナッチ・パイを抱えたまま、鍵もかかっていない玄関を押し開けた時だった。
「ラーハルト?」
切羽詰まった声。いつもの彼らしくない。
何かあったのか?
「どうした、ヒュンケル。具合でも悪いのか――」
「来るな!」
神々しい光が全身を捉えたかと思うと、分厚い壁に似た衝撃を感じた。跳ね飛ばされた、と認識した時にはすでに、玄関前の床に仰向けに転がっていた。
目の前で、ばたんと玄関扉が閉まる。
「……なに……」
あまりの早業に頭が真っ白になったが、徐々に理解が追いついた。
ヒュンケルは今現在、何故だか分からないが、相棒の来訪を快く思っていないらしい。
光の技でぶん殴って踊り場まで飛ばし、暗黒闘気の魔の手で無情に玄関を閉ざすという光闇織り交ぜたトリックを、惜しげもなく披露する程度には。
それでも正義の使徒か。
打ち付けた腰をさすりながら、どうにか死守したパイを抱えなおし、慎重に入り口に近づいた。
すると、おずおずと、扉が開いた。
「――すまない」
か細い謝罪が聞こえ、ひょいとヒュンケルが顔を出した。
「驚いてしまって。少し、集中しすぎていたものでな」
「驚くたびに客を吹っ飛ばすのか、お前は。一体何事だ」
「すまない」
ヒュンケルは心から謝罪しているようだったが、なんだか、言葉尻に興奮が混じっている。
そして、鼻先には真っ白な何かが引っ付いている。
小麦粉と、ねっちょりとしたバターのかけら、みたいに見える。
いやな予感を抑制しながら、ラーハルトが室内に足を踏み入れた。
そして、即座にこめかみを押さえる。
「一体どうしたら、こうなるんだ」
ヒュンケルの持ち物だから、べつにラーハルトが心配する事ではないのだが。
温かみのある洒落た家具で統一された室内は、火山灰が降ったかのごとく、真っ白な粉で覆われていた。
「違うんだ、ラーハルト」
「何が違うんだ。食べ物を無駄にしおって」
「聞いてくれ。あれは、巨大な小麦粉の布袋を開けようと四苦八苦していた時だった。窓辺に、何か羽のある生き物がぽとりと落ちてきた。手に取ってみれば、キメラのヒナだった。親に運ばれている間に零れたのか、巣立つのが早すぎたのか」
「それで?」
「勿論、保護しようと思った。幼獣を育てるのは得意なんだ。だが、目が回っていただけのキメラは、意外に元気だった。知らない人間に抱かれてパニックに陥ったのか、まっしぐらに小麦の袋に突っ込んだ」
「だいたい分かった」
「健康体で良かった。部屋中を飛び回ってあらゆる物体にぶつかったあと、元来た窓から去って行ったよ」
「良かったな」
「良かった」
沈黙。
ラーハルトは眉間を押さえて唸る。
原状回復工事に協力する義理はない、筈だ。
だが残念なことに、この何をしてもトラブルに巻き込まれる面倒な男を、心の底から愛する唯一の人物が、ラーハルトなのだった。
「まず掃除だ。今日中にどこまでいけるか分からんが、とにかく片付けるぞ」
ヒュンケルの顔色が少し明るくなった。
「ああ。……いや、ありがたいが、その前に。時間が欲しいんだ」
ラーハルトは呆れて相棒を見やる。
「四の五の言うな。日暮れまでにどうにかする」
「その……よかったら、ソファの上だけでも粉をはたいて、座って待っていてくれないか」
と、粉に埋もれた部屋の一角を指さした。
ラーハルトは唇を引きつらせるが、真剣なヒュンケルの目に抗えない。しぶしぶ、無惨な状態のソファに腰かけた。
……なんとなく、予想はついた。
この間、いい加減まともに調理を覚えろと注意して、珍しく言い合いになったのだ。一度でも俺の出来栄えを越えたことがあるか、と言ってやったのが効果的だった。
ヒュンケルのことだ、勝負ごとには手を抜かない。どうにかしてラーハルトの鼻を明かそうと、キッチンに籠っていたのだろう。
努力は買う。しかし。
――この状況で、地獄のような料理を振る舞われたら。いくら献身的なラーハルトでも、床をぶち抜かない自信はない。
懸念は尽きないが、意外にもまともな香りが漂ってきた。
焼き菓子か?
ラーハルトは粉を撒き散らさないようにそっと立ち上がると、つま先立ちでキッチンに向かった。
飴玉みたいにカラフルなビーズカーテンをしゃらり、とめくると、真摯な表情でオーブンを覗き込むヒュンケルが見えた。
「順調か?」
からかいたい気持ちを押さえて、真面目に問いかける。
「……ああ。あとちょっと」
その肩越しに、ラーハルトも中を覗き見た。
「どれくらい焼いた?」
「その砂時計の、二回分」
「十分だ。一度取り出してみろ」
ヒュンケルは素直に、窯から焼き型を取り出した。
黒鉄のプレートに行儀よく並んだカップケーキが、ほかほかと湯気を立てている。
闇色の、チョコレートたっぷりの、魅惑の塊。
「白い模様をつけるんだ、確か。これで良いだろうか」
ヒュンケルが小麦粉の残りを指し示すが、ラーハルトは糸の様に目を細めて否定する。
「頼むからやめてくれ。砂糖と、卵白は?」
「ある」
「ここまでは、合格だ。とりあえず任せろ」
初めて、褒められた。
勝負を忘れて、ヒュンケルは頬を紅潮させて頷いた。
ラーハルトは手際よくアイシングをこしらえると、丈夫な紙を探して三角形のコルネを作る。じっと眺めているヒュンケルに一つ渡して、黒々としたケーキの上に絞り出して見せた。
瞬く間に描かれていく、白い薔薇。
ヒュンケルはさっそく真似をして、焼きたてのキャンバスに何か描き始めた。
古代の魔法陣みたいな、謎の紋様。
羽のある、三本足のモンスター。
子供が描いた海賊旗みたいな、多分、髑髏の印。
絵心は認めるが、だいぶ独創的な菓子が量産されていく。
最後のケーキの装飾が済んで、ヒュンケルが満足そうにため息をついた。
キッチンボード一杯に並べられたカップケーキは、ラーハルトも認めざるを得ないくらい、壮観だった。
互いに一個ずつ摘まみ上げ、乾杯の仕草ののち、立ったままかぶりついてみる。
……美味しい
ほころぶ頬を隠しもせず、ヒュンケルが相棒に向き直る。
「まあまあだな」
ラーハルトも、思わず笑顔になる。
「これなら、王宮に献上しても誤魔化せるだろう」
「驚いたな。お前も、お世辞が言えるのか」
と言いつつ、ヒュンケルは得意げだ。ラーハルトが肩をすくめる。
「俺は嘘は言わない。率直に言って、見直した」
「本当か」
「本当だ。どうした、この進歩は」
ヒュンケルはもう一口齧って、しばらく黙り込んだ。
香ばしいかけらを飲み込んで、口を開く。
「……食べて欲しい、と、思ったんだ」
鼻を拭ったせいで、何かべとべとしたものが顔に引っ付いた。
「不思議なものだ。自分の為に作っている時には、全く集中できなかったのに。お前が食べることを想像したら、世界が変わった」
ひっくり返ったんだ、と、ヒュンケルがジェスチャーで示すと、またぼわんと粉が飛んだ。
「今なら、魔法も使えるのではないかと思う」
と、大真面目に呟く。
ラーハルトは仏頂面のまま、その恵まれた形の鼻先をつまんでやった。
目を丸くするヒュンケルは、五歳の子供とそう変わらない表情をしている。
「もう使いこなしているくせに」
何気なく、ヒュンケルの眉間についた砂糖の塊をちろりと舐めた。我ならが恥ずかしくなるセリフだが、無邪気な恋人は首をかしげてラーハルトを見た。
「魔法はそこらじゅうに転がっているんだ。知らなかったのか」
そう言ってやると、彼はちょっとの間絶句した。
ようやく意味に気づいて、顔いっぱいに微笑み、即座に唇を引き結んで目を背ける。
照れ隠しがなんと下手くそな事か。
「知らなかった」
ヒュンケルは窓の外を見ながら答えると、星のしるしが描かれたカップケーキを思い切り頬張った。
キッチンの窓辺にはバジルの葉が揺れ、砂糖菓子みたいな雲が流れ行く。
けぇ、と、遠い空でキメラが鳴いた。