Bleuet.
――ブルーエの花。ヤグルマギクだ。
――青くて、紫で、とんがっていて。
――お前にそっくりだと思わないか。
珍しく、ヒュンケルが本気で笑っている。
反論する気も失せるくらい、幼子のように無邪気に。
ヒュンケルの体内の闇の残渣が、平和な世に災いをもたらしうることが判明したのは数年前だ。
穏やかに融解させる方法はあったが、代償は大きかった。
ひとつひとつ、引き受けた闇を手放す度に、ヒュンケルは子供に戻って行った。刻み込まれた記憶が、暗黒のかけらと共に消えていく。はじまりのその時まで、彼はひたすら後ろ向きに歩んでいった。
まっさらな白に戻った時には、きっと人の姿を保てなくなるだろう。摂理に反して逆行した魂は、もはや生きることに耐え切れない。
誰もが分かっていた事だった。
しかし徐々に輝きを増していくヒュンケルの笑顔に、誰もが思考を停止した。
これで良かったのかもしれない、と。
肉体と精神のバランスを失い、生き方を忘れてしまった彼が、この世から姿を消してしまう、数日前。
自分が誰なのかも分からなくなってしまったヒュンケルだが、世話をしてくれるラーハルトのことはかろうじて認識している。
まだどうにか歩けるヒュンケルを支えて、小さな涎をふき取ってやりながら、ラーハルトは考える。
闇が地上を覆い尽くし、人間たちの勝利を食いつぶそうとも。勇者の命に背こうとも。それでも、お前に生きていて欲しいのだと伝えていたら。
俺たちは今、どんな道を歩んでいたのだろう?
「あ」
と、ヒュンケルが舌足らずに呟いた。
ラーハルトの腕を離れ、ふらふらとしゃがみこんで、花壇の隅に手を伸ばす。
「勝手に摘むんじゃない。庭師にどやされるぞ」
小言を言いながら抱き寄せようしたが、相棒は動かない。
「何を見ている」
「……あ」
指さす先に、霊峰の夜明けに似た、目の醒めるような青い花。
ヒュンケルが振り返る。
希望も絶望も、現実も運命も、きれいに洗い落とされてしまった赤子のような相貌に、純粋な喜びが宿るのを見た。宝物を見つけた子供のように。
“おまえの、いろだ”
あの時のままの笑顔。
ラーハルトは震える手で、銀色の頭を撫でた。
消えてしまうには早すぎる、若々しい頭蓋の感触。
何もかも取り返しがつかないとしても。
この美しく空虚な容れ物に最後に残る夢は、この色であるべきなのだ。
一輪摘んでやり、力の入らない指に絡めて握らせると、ヒュンケルは目を丸くして掌の中の宝石を眺めた。
壊れていく彼の世界を静かに染める、その青を。
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