罪深い食卓その診療所は目黒の駅から程近い雑居ビルの一室にあった。
診療所といっても、スタッフや医師を大勢常駐するような立派なものではなく、一人のカウンセラーが細々を行なっている心理相談室のようなものである。らしい。
紹介してくれた父曰く「懺悔室のようなものだ」とのことだった。
日々正しくあらんとして生きる杏寿郎にとって、懺悔室というのは一生無縁のものだと思っていた。父が懺悔しているところなど想像もできないが、いったいいつの話だろう。
杏寿郎は見るからに型の古いエレベーターで「4」のボタンを押しながら、子供達の前では決して弱さを見せなかった父のことを考えた。
「失礼!冨岡先生はいらっしゃるだろうか!十二時から予約している煉獄だが!」
エレベータを降りるとすぐに、受付カウンターが患者を出迎える。照明は外の日差しより幾分暗く、初夏の目が眩むような陽射しを忘れさせた。
黒くつるりとしたカウンターの内側には誰もいなかったため、杏寿郎は声を張り上げたが、よく見るとカウンターの上にはベルが置いてあり、もしかしなくとも、不在時はこれを鳴らすものだのだろう。ここに幼なじみの小芭内がいれば「そもそも病院で軽率に大声を出すな」と注意の一つもあったはずだが、生憎とこの場で杏寿郎を諭す人間はいなかった。
ほどなくして奥から人が来る気配がしたので、杏寿郎はそちらへ目をむけた。
「待たせてしまい申し訳ない。わたしが冨岡です」
冨岡と名乗ったカウンセラーは、まだ歳若く見える男だった。30前後、すくなくとも35より上ということはないだろう。職業柄、杏寿郎は人の外見からおおよその情報を当てることには自信がある。
煉獄の父——槙寿郎の紹介だったために、勝手に壮年の医師だと思い込んでいたが、まったくの勘違い、先入観もいいところだった。
だが、なにより杏寿郎を驚かせたのは年齢ではなく、その容姿だった。醜いのではない。冨岡義勇という男は、月並みな表現で言えば、絶世の美人だった。
「話はおおまかに、紹介いただいた槙寿郎さんに聞いていますが」
と前置きして、まずは問診のようなことからカウンセリングは始まった。
「夜あまり眠れていないとか。いつから?」
「2ヶ月前だ」
「具体的には、どのように。寝つきが悪いのか、夜中に目が覚めるのか、それともまったく眠れないのか」
「最初は夢見が悪くなって、次第に寝付けなくなった。今では、2時間も眠れれば御の字という感じだな」
「今でも眠ると夢を見る?」
「ああ」
「なるほど」
ぽんぽんとテンポの良かった会話が、そこでいったん途切れた。カルテに何事か書き込んでいる冨岡は、やはり容姿こそ尋常ならざる美しさではあるものの、自分とそう歳の変わらぬように見える。杏寿郎はあの厳格な父が、目の前の青年になにを懺悔していたのかますます不思議に思った。
「こちらからも質問していいだろうか」
「……勿論」
「貴方の年齢を伺っても?」
「今年で29になる」
やはり。煉獄よりひとつ年上なくらいで、ほとんど同世代といっていい。「この診療所はいつから?」
「一人で開院するにはお若くて驚きました」
「この場所は来月でちょうど1年半になるか。その前は医療センターに勤務していました。……睡眠障害以外に不調は?」
強引に会話の手綱を取り返されて、杏寿郎は少し愉快になった。冨岡という医師は一見、すまし顔で泰然として見えるが、実は我が強いタチなのかもしれない。
「食欲は多少落ちたな。家族にはやっと平均に落ち着いたと言われたが」
杏寿郎の返しに、冨岡はちょっとの間きょとんとした顔をして、それから拳を口に当てるようにして笑った。
「確かに、御子息が健啖家だと仰っていたな」
「おお……」
これほどの美人だと、男でも可憐に笑うという芸当が可能らしい。
「作りがいがありそうだ。普段は自炊を?」
「いや、弟に任せきりだ!俺は台所に入るなと、母が存命の頃に言い渡されている」
「それはすごい」
「うむ!冨岡先生はご自分で料理をされるのだろうか。そのような口ぶりだったが」
「数少ない、人とわかちあえる趣味だ。夕食に友人を招くこともある」
「そっちの方がすごいな。俺もあなたの作ったものを食べてみたい」
「食欲が戻るようなメニューを考えておこう。……最後の質問だが」
「もうか!はやいな!」
「悪夢に出てくるのは子供のほうか?」
杏寿郎は思わず冨岡の顔を見返したが、本人はいたってなんでもないような、このカウンセリングが始まった時から変わらない涼しい顔をしている。
「いつから……、父から聞いていたのか」
「いいや。だが、2ヶ月前と言ったろう。俺もライブ中継で見ていた。一瞬だったが、貴方も映っていたな」
いつのまにか、冨岡の一人称は「わたし」から「俺」になっている。杏寿郎はそれには気づかず、当時現場に詰めかけていた報道陣のことを思い出していた。
「夢に見るのは、子供?」
「いや」
あの人混み。制止の声が聞こえないわけではないだろうに、無神経なハイエナのような連中。情報統制がされていても、いつも何処かから嗅ぎつけてきて。
「犯人の方だ」
あの日、あの半分でも人が少なければ。子供と、仲間と、それからあの男だけなら。
あの男が煉獄の手から逃げようなんて考えなければ。
「俺はこの2ヶ月、眠るたびに犯人の男を射殺している」
冨岡の表情は変わらなかった。カルテになにかを書きつけて、一言「そうか」と返しただけだった。
「今日のところはここまでにしよう。薬を2種類出す。処方箋を渡すから、一階の薬局で貰って帰るといい」
「これで終わりか?なにか、その、治療らしいことは……。薬というのは」
「今日はまだ会ったばかりだ。お互い胸襟を開いて話すにはもう少し時間が必要だと思う。薬は軽めの睡眠導入剤にする。まずは5日間、これを飲んでみて眠れなければ種類を変える。悪夢は引き続き見るかも知れんが、途中で起きても吐いてもいいのでまずは寝ることだ。そんな顔色では話を聞いている間に倒れるぞ」
「きみは、見かけによらず乱暴だな」
釈然とせず、どこか責めるように口調になった。相手は年上の、父から「失礼のないように」と言われていた人物だったことを思い出して杏寿郎は瞬間的に恥じたが、冨岡は「よく言われる」と気にした様子もない。なにを考えているのかわからない美人に、杏寿郎は苦手意識と興味を同時に持ちつつあった。どちらも、彼にしては非常に珍しいことである。