凪の子「この世に、絶望などないのです」
ぽつねんと、かすんで殆ど暗い私の世界の中に清廉な女性の声が響く。透ける様に真摯で、どこまでも信心深く感じられるその声が重苦しい私の頭の中にうっとおしいほど、胡乱に響いて。おもわず、ぴくりとも動かせないほど重苦しい倦怠感に包まれた体が、不意に動いた。
「ばかじゃないの」
水分が干乾びた、カラカラの喉から転がり落ちたその単語は果たして言葉通りの音に成っていたのか。意味を象る何かにすらなっていたのかも危うい。まぁ、吐息にも満たないそれを拾うものなど、私が死に体で倒れ伏しているこの場にはいないのだけれども。拾うものがいるとするならば、今私を囲っている、崩れた瓦礫も、草花も、地面も、異様なまでに白い景色くらいだろう。
じゃあ、いま私に話しかけているこの声は何なのだ、という当然の疑問は死にかけの私の頭には泡沫と同じもので。惰性のように、殆ど死体と変わらない私に残った、ほんの少しの感情を最期の燃料に、乾ききった喉から言葉が転がり落ちた。
「うそつき」
ころりと転がり落ちた言葉と共に霞んだ世界がさらに歪んで、頬を生温いものが伝った。それが自分の目から零れている事にすら、もう気づけないほど私は死にかけであった。辛うじてつないでいる意識が、命が、その温い液体と共に零れ落ちていくのを感じながら、私は終わりかけの脳みそが紡ぐ言葉を吐き出し続ける。ばかじゃないの、うそつき、そんなわけないじゃん。だなんて、語力も何もない単語だけだけれども。
だって、そうだろう。この世に絶望がないとするならば、私は何も変わらずに“いつも通りの日常”にいたはずだ。朝起きて、家族とご飯をたべて、友達を笑って、なんてことない平凡を紡いでいた、あの日常に。
絶望があるから、私はいまこんな風になっているのではないか。目を見開くと見知らぬ真白の土地にいて、崩れ落ちた美しい景色から逃げ出そうと、あてもなくさ迷って、ようやく見つけた人々は歪な茨の鉄線の向こう側。手を伸ばすよりも前に晒されたいわれのない悪意から必死に逃げて、逃げて逃げて。夢だと思い込みたかったのに、それはどうしようもない現実で、食べるものも、眠ることもできず結果最後に、私はこの、真白の世界の中でしにかけているのではないか。
死にかけの白昼夢に転がり込んだ、今わの際の幻聴にそう喚く私は、傍から見ればさぞ滑稽だろう。なけなしの命を削って悲しみも怒りも、恨みもすべて混ぜ合わせた私の癇癪を受け入れるものなど、どこにもいやしないというのに。
「いいえ、いいえ」
醜く響く嗚咽を隠す様に、はっきりと。清廉な声が耳を打つ。なけなしの命を削って怨嗟を喚き散らす小娘をなだめる様に、いつくしむ様に。修道女の声はゆっくりと言葉を紡いだ。
「慈悲深い救いの手は必ず差し伸べられます」
清らかな声と共に、霞んだ真白の世界に色が映り込む。温度のない、真白の指先が私の目じりを撫でて、涙で滲んだ視界をひらいていく。ぼんやりとした意識の端に折れ曲がったロザリオが映り込んだ気がした。
「……この世に、絶望などないのです」
真白の景色と同じ色の指先が私の頬を、頭を優しくなでながら、なぞる様に、何度も言葉が紡がれる。冷え切った真白の指先が肌を統べるたびに、朧気だった意識がさらに沈んでいく。けれどもなぜか奇妙なほど、切り離される意識とは真逆に、霞んでいた視界ははっきりと、その歪なほどに白くて、崩れ落ちて汚れた世界を映し出す。揺れる草木も、崩れた建物も地面すらもすべて純白の世界の中に、黒く薄汚れた瓦礫に地面のシミ。そんな真白で歪んだ世界の中にぽつんと存在する、歪んだ純白のロザリオに歪な果実。
「慈悲深い救いの手は、必ず」
白く、鉛のように凍てついた指先が果実を拾い上げ、私のかさついた唇に押し当てる。まるで誘うように、なだめる様に、殉教者は私に果実を差し出しながら同じ言葉を繰り返す。死人の手のひらが優しく、消えかけた私の意識を手放させるように頭を撫でた。
「必ず、差し伸べられるのです」
「…………………………………………ばかじゃないの」
そんな死人の声に対して、私は最後、霧散する意識の中、小さく口を動かした。
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正直もう、結構お腹いっぱいである。だなんて感想がくるりと頭を回って、吐き出した息と共に吹雪に巻き上げられる。
波乱万丈であった魚人島を出発し、あれよあれよとトラブルまみれの道中から飛び出した新世界で初めて出会った島はこれまた地獄の入り口かと思うが如くの面構え。恨みっこなしのくじ引きによって上陸組に選ばれたと思えば、マグマが煮えたぎる大地でドラゴンとエンカウント。なんやかんやとドラゴンをスパンとすれば船長が悪趣味なケンタウロスになり、そのまま凍てつく氷海で溺れかけ。追剥ついでに下半身動物人間をハイヤーに走り回ったと思えばお次はまぁ仲間の中身がシャッフルされてるわと、息継ぎなしのノンストップ。
こんな目玉イベント目白押しフルコースを食らった後に、もろもろあって連れ去らわれた仲間を連れ帰ってきた船長がにこにこ顔で同盟を組む!!!だなんて言われても、絶叫する元気がある仲間よりもタフネスではない私は正直な感想、もう好きにしてくれって感じであった。
「………おい、」
「?……ああ、私ですか?」
そんな独白を脳内に浮かべながら、笑う我らが船長に阿鼻叫喚に食って掛かるクルーたちを眺めていれば、不意にかけられた声。鎖につながれ、穏やかに眠る巨大な子供たちの前に座り込んでいた私は、思わずきょとんとした声を上げながら視線を動かした。無意識に瞬いた瞳の先には、おおよそ二年ぶりの再会であり、現在の火中の栗であろう人物が。まさか話しかけられるとは思っていなかった、というのが存分に表情にでていたのであろうか。随分とまぁぼんやりとした返答をしてしまった私に対して、目の前の美丈夫は呆れたような白い吐息を吹雪の中に零した。その細い吐息に交じったため息に、私はごまかす様にへらりと笑った。
「どうかされました?……あ、同盟について特に異論はありませんよ?我らの船長が決めたことですし」
「同盟については別にいい………そうじゃねェ、お前……」
同盟相手の船長に座り込んだままもちょっとなぁ、と思いよっこらしょと立ち上がる。体に降り積もった粉雪を軽く払い落しながら、あたりさわりがないように、へらへらとした笑顔のままそう返した私に対して。どうしてか自分よりも頭数個分上にある顔が、一瞬だけ戸惑ったような表情を象るが、すぐにそれを消し去る。そうしてはくり、と小さく口を開いて、音を吐き出すことなく口を噤んだ。
そんな出会いがしらから変わらない、面のよい仏頂面を前に思わずこてり、と首をかしげる。はて、どうしたのであろうかと、何とも言えない表情を浮かべながら目の前の美丈夫———トラファルガー・ローを見つめかえす。静かに問いかけられた言葉を待つけれども、目の前の彼は感情の読み取りづらい琥珀色の瞳を私に向けるのみ。凍てつく様な吹雪と、仲間たちの声に子供たちの健やかな寝息。不可思議な音が積み重なる空間で、何故だか彼と私の間だけに奇妙な沈黙が下りる。
いや、なにかいってはくれまいか。と思わず琥珀色の瞳を見つめるけれども、眉間の皺が増えただけで、言葉は零れず。はてさて、どうしたのであろうか、とその奇妙な沈黙が積み上がり続ける居心地の悪さに、私は無意識に首から下げたロザリオを撫ぜた。
「、それ」
「?」
ようやく紡がれた音と共に。つい、と男性らしい無骨で墨が彫られた指先が上げれる。指先と共に向けられた視線をたどれば、行きついたのは歪な形をした純白のロザリオ。撫ぜていた指先で思わずそれを持ち上げれば、どうしてか、琥珀色が小さく揺れ動いた気がした。
「どこで手に入れた」
低い静かなテノールが吹雪の中に溶けだして、音を形作る。溶けだした言葉の意味を咀嚼するように私の思考が一瞬停止して、そうしてはじきだされた感情がそのまま視線になってローに向かう。へらへらとしていた表情から困惑に移り変わった私の表情を気にしているのかいないのか。上げられた指先はそのままに、琥珀色が私を突き刺す。温度の低いその宝石は、確かに私を射貫いているはずなのに。どうしてかひどく遠い、ここではない何かを映しているような気がして。形容しがたい、腹の底から奇妙な感覚が私の背中を伝った。
「……えと、トラファルガーさんは、敬虔な信徒かなにかで?」
「俺は違ェ」
「あっさいですか」
どうしてか思わず。湧きだした感覚に沿うように、答えることを濁す様に零れた私の言葉に間髪入れずに冷えた言葉が刺さる。慌てて取り繕うように笑った私に苛立ちでも感じたのだろう、色の薄い言葉を吐き出した顔に、眉間の皺が増えた。
そりゃぁ、問いかけた言葉に対して斜め上の言葉を返せば訝しくも思う。素直に答えればよかったものを、別に誤魔化すようなことでもないだろうに。何故に。自分の咄嗟の言動と、先ほどから感じる奇妙な感覚に、そわそわと心臓が跳ねて、妙な焦りがでる。けれども、どうしてか。すんなりと答えるべき言葉が喉奥から吐き出す気分にならない。急速な思考と感情の乖離に、盛大に戸惑う内心をごまかす様に。眉間に深い皺を作る待つローに対してへらり、と笑いかける。
「あの、」
俺は、ってどういうことですか。と時間稼ぎのように吐き出した私の疑問はなぜか突然びゅるり、と唸り声を上げた白銀に飲み込まれて。やたら大きく響いたそれは、私の視界を薄く白く染める。刹那、曖昧になった白い世界で、どうしてか、目の前の彼が小さな子供に見えた気がして。思わず瞬きをする。当たり前だけれども、一瞬の暗闇の後開いた視界には、最初から変わらずに男がいるだけで。白昼夢でもあるまいに、その瞳に痛いほどの真白が。断続的に続く奇妙な感覚と、戸惑いで緩められた思考によって無意識に、記憶の中の真白と結びつく。うぞうぞと這いまわる感情が、いつかのあの、真白の壊れた亡霊が。誑かす様に、私の口を動かした。
「………………真っ白な街の、うそつきの幽霊から」
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「……あの子の故郷?そういえば、聞いたことなかったかも」
カラン。とグラスの中でかろやかに氷を転がしながら、橙色の髪を緩やかにかきあげた彼女は今気づいた、というような顔をして己の問い掛けにそう答えた。
パンクハザードを出てしばらくして、ドレスローザに向かう道中。計画の仕込みも終え、あとは狼煙となる知らせを待つだけになった、束の間。いつものように乗船してからの定位置になりつつある甲板の隅で一夜を明かそうとしていたローは、ちょっと付き合いなさいよ、と突然現れた泥棒猫に引きずれるまま、巨大な水槽が広がる船室にて行われる酒盛りの席に座らされていた。
「俺ァてっきりオメーらと同じ東かと……船に乗ってたのは偉大なる航路に入る前からだろ?確か」
コーラの瓶片手にサングラスを押し上げそういったフランキーに対して、ロックグラスに注がれた酒で唇を湿らせたナミはそうよ、と同意の言葉を口にした。
「正確に言えばローグタウンね、あの時ルフィがあの子を連れてきたときは大変だったわ……」
「だなぁ、追いかけてくるスモーカーに大嵐、そんでそのまま涙を浮かべるか弱い彼女を迎えて偉大なる航路入りたぁなると、今思い出してもとんでもないぜ、全く」
はぁ~あ、というナミの心労色濃いため息に同意するように、サンジは仰々しいほどに大きく首を縦に振った。そうしてさりげなく、ナミの目の前に追加のつまみを差し出しながら、フランキーにはコーラを投げ渡していた。
そういえば、パンクハザードの檻の中でも因縁じみたことを何か言っていたな、と思考の端でそんなやり取りを思い出していたローは、思考をゆっくりを回して、グラスを傾けた。同時に、その横で訝し気な顔をしたフランキーは投げ渡されたコーラの蓋を押し上げながら、感慨にふけっているナミ達に向かって問いかけた。
「か弱い彼女だァ~~?あのじゃじゃ馬はそんなタマじゃねぇだろうが」
「んだとクソロボ!彼女はなぁ、今じゃ精錬された美しいレディだが出会った当初はそりゃもう深窓の令嬢も見紛うほどの慎ましやかと恥じらいを兼ね備えた可愛らしいレディだったんだぞ!!!今もそうだがな!!!!……むしろ二年の時を経て成熟したその美はもはや芸術だ」
「急に語るなこえェよ」
「サンジ君の言う通り、今じゃあの子、あんなに度胸もついちゃってちょぉーっと可愛げもなくなってきたけど、はじめはすっごく泣き虫だったし臆病だったのよ?ウソップよりもよ、ウソップよりも!」
「いやいやナミさんそりゃぁ言い過ぎ……でもねぇか?あの頃はオレが晩飯用に調達した海王類を見ただけでも可愛らしく怯えて……くぅ~!今の綺麗な彼女もいいけれども!あの頃の可憐な彼女も捨てがたいぃい……!」
「ぶれねぇな、お前。……そりゃ、オレの目の前でエニエスロビーで世界政府に対して啖呵を切った女には到底思えねェな」
「かもねぇ……それに、みょーに世間知らずだったわよね、あの子。ちいさな子供でも知ってる常識をしらない割には、変な事には詳しかったり……」
「……ハッ!!やっぱり彼女はどこぞの島の高貴なる生まれのお姫様なのでは……!!」
「高貴なる生まれのお姫様はCP9も魚人も笑顔でぶっ飛ばしたりしねェんだよ」
「んだとクソロボォッ!!そんなパワフルなところも彼女の魅力だろうがァッ!!」
「ああ、そういえば!ええと、たしか………」
サンジの言葉にむむと一拍子だけ、眉間に白くしなやかな指先を当てながら唸ったナミは、その時拾ったであろう言葉を記憶の奥から拾い上げる様に、言葉を紡いだ。
「“地面も建物も全部真っ白な街で、おかしなシスターの幽霊に助けてもらった”」
カラン。と己の手の中の氷が転がる音が、やけに耳についた。