「シングルモルトを取ってこい。少し垂らすと美味いらしいんだ。口に合わなければ飲めばいいんだし」
途端に、忠はボトルの並んだ飾り棚に向かった。迅速な反応はいつもどおりだが、妙にいそいそとした足取りに見える。好物だというのは、だから、本当なのだろう。牡蠣を口にしているところなんて見たおぼえがないから、初めはなんだか腑に落ちなかったが。
歩み寄りが始まって初めて、愛之介は二人で過ごす時間がこれほどに長いことを意識した。車で、執務室で、事務所で。これまでだって決して沈黙が心地よかったわけではないが、いまとなっては黙りこくっていると落ち着かず、用件をあれこれ見つけては忠に声をかける。あるいは、用件なんてなくとも、思いつきで言葉を投げかけてしまう。
ほとんど忠に話しかける目的のためだけに、話しかけているところがある。思春期の少年でもないのだから気恥ずかしい話だが、認めないわけにはいかなかった。
「おまえ、好きな食べ物とかないのか」
その世間話めいた質問も、やはり、車内の沈黙を破るために思いつきでぶつけたものだった。
そもそも私生活の見えないこの男に好物なんて概念があるのか疑問で、だから自然と質問は否定形混じりになる。子どものころは甘いお菓子を一緒になって食べていたが、三十路になってシュークリームやマドレーヌが好きということもないだろう(フォンダンショコラは別だ、あれは大人の食べ物だから、と愛之介は誰にともなく言い訳する)。
「牡蠣が好きですね」
いやにあっさり返ってきた簡潔な言葉に、愛之介は動揺した。
「牡蠣」
「生で食べるのが好きです」
「なるほど……」
自分らしからぬ空虚な返答に秘書がちらりとこちらを見たが、素知らぬふりをして窓の外を見る。せっかく破った沈黙がまた降りてきたが、それどころではない。好物を聞かれて即答できるほどの好みがこの男にあること、またそれを自分がまったく知らなかったことに、愛之介は自分でも驚くほど衝撃を受けていた。
氷を盛った皿に華々しく並べられたのは、はるか北海道は厚岸の牡蠣だ。謎の悔しさにつきうごかされてわざわざ取り寄せた、なんて絶対に自分から言いたくはないが、あの会話はわずか二週間前で、このタイミングでどこかからもらったと言うのも不自然に違いない。だからとくに説明しなかった。忠はいつもどおり詮索ひとつせず、「お相伴にあずかってよろしいのですか」と慇懃に頭を下げるだけだった。利口な犬だ。
最近では向かいに座らせる場面も珍しくなくなったが、せいぜいが紅茶を傾けながらの打ち合わせだ。酒をともなう夕食というのはこれが初めてかもしれない。愛之介は妙に浮かれている自覚があった。
その上機嫌のまま、「牡蠣が好物なんてカサノヴァ気取りか」と鼻で笑う。忠はよくわからないと言いたげに小さく首を傾げてみせた。
「稀代の女たらしだ。朝食に、牡蠣を五つも十も食べたなんて話が残ってる。女と戯れるときに、生牡蠣をこう、キスのたびに行き来させて」
何かの本で読んだ逸話を話すと、気色悪いと言いたげに柳眉が寄せられる。この数ヶ月で、ずいぶんと表情豊かになったものだ。
「昔の有閑階級は文字通り暇だから、妙なことを思いつくんだろうな」
「そういった趣味にどうこう言うつもりはありませんが、せっかくの牡蠣がぬるくなってしまいそうです」
きんと冷えたのを食べるのが一番美味しいと思いますが、と言いながら、つぎの殻に手が伸びている。
目が伏せられ、つつましい口にたっぷりとした艶のある身が吸われていく。ずるん、とすっかり啜ると濡れたくちびるがいかにも美味そうに微笑み、舌がわずかに出て、妙に野性的に汁を舐める。
愛之介自身は、生臭いのはあまり得意ではない。刺身ならまだしも、生の貝は食べなれない。忠が食べ終わったら残りは厨房に頼んで、軽く焼いてもらうつもりでいた。あるいは手がかかりはするがオーブンでロックフェラーにしてもらってもいいかもしれない、と。たぶんそのほうが、自分好みのクリーミーで上品な味になる。
だが、忠を見ているうちに気が変わり、思わず手が伸びた。
口に含んだ途端に、愛之介はつい顔をしかめた。
なまなましくて、粘っこい。だが歯でゆっくりと噛み締めると海の風味が口いっぱいに広がり、濃厚な味に鼻から息が漏れる。舌の上を這う身はやがて喉の奥にするんと落ちていって、そのあっけなさが妙に名残惜しかった。消えていく後味を追いかけるようにスコッチを飲み下す。
視線が注がれていることに気づいて、愛之介は目を向けた。凝視していたことにいま気づいた、というように視線が外されるが、白い頬はわずかに赤く、目はおろおろと空になった殻のいくつかをさまよっている。
「なんだ」
「いえ、その……ずいぶん官能的に召し上がるので」
声はひどくかすれていて、たちまち愛之介の脳裏には寝室でのあれこれが駆け巡る。ふとした拍子に注がれる視線が気になって、叱りつけると大抵は従順に逸らされるが、穴を開けるような眼差しはいつも愛之介の身体や顔の上に戻ってきた。すべてを見られている、という意識で居心地が悪くて身を捩っても、なにを勘違いしたのか掌がからだのあちこちをさすり、それだけでもうどうでもよくなってしまうのだ。
ですがずいぶん心地良さそうになさっていたので、と言い訳めいた言葉だって、たしかに聞いたことがある。
「……早く次を食べろ。僕も食べるから」
聞かなかったふりをして皿をぐいと押しやる。一瞬のためらいの後、忠の手がのびた。
殻に口をつけて、ずるんと勢いよく吸い込む。そのいつになく荒々しい仕草に、愛之介はまた目を奪われている。
ずいぶん官能的に召し上がる。
その言葉、そっくりそのまま返してやりたかった。