『ティニー、お前はレンスターの方へ向かえ。これまで迎撃で向こうも疲弊している筈だ。それに、先の隊の報告によればあいつらは魔法にはめっぽう弱いみたいだ。…キュアンのこせがれを撃て。そうすれば、戦いもすぐに終わる。ティニー、やってくれるな』
伯父であるブルームから告げられた言葉が、ティニーの頭の中で繰り返し反芻されていた。
城外に出ると、噎せ返るような血の匂いがティニーの鼻腔を打った。
あちこちに死体が転がる凄惨な光景に、ティニーは胃の中のものを全て吐き出しそうになってしまう。
地面に転がる死体のすべては、アルスター兵のものである。
槍や剣に貫かれたような痕が見受けられた。
――これが戦場……。
逃げ出したい気持ちをぐっと堪え、ティニーは魔道書を抱きしめ、レンスター城へと向かう。
『森を使え。森に身を潜めて、奴らをお前の雷で仕留めるのだ』
――わたしも、死ぬの……?
ティニーの中で、恐怖が増していく。一歩、一歩、と『敵』がいる方へ足を進める度、恐怖も倍増していく。
それでも、ティーは歯を食い縛ることしか出来ない。
殺すかもしれないし、殺されるかもしれない。
その二択が、ただ怖かった。
これから自分がやろうとしていることが、本当に正しいことなのかも分からない。
――母さま……。
縋るように、ティニーは母の名を呼んだ。
幼い頃、自分を守ってくれた母の優しい微笑が、浮かんでは消えていく。
母の姿を強く思い出そうとすればする程、儚く消えていくのだった。
ブルームの指示通りに、ティニーは木々の中に身を潜め、『敵』が現れるのをじっと待つ。
恐怖と緊張からか、じっとりとした嫌な汗が額を濡らしていく。
震える叱咤し、ティニーはその時が来るまでただ耐える。
戦場は不気味なくらいに静かだ。
ティニーと共に出撃した他の魔道士は、解放軍の首を狙うといい、大半がティニーとは別行動を取っていた。
風の音に紛れて、戦いの音が僅かに耳朶へと響く。
魔法の轟きと、弓が空気を裂く音。
遠くから聞こえる雑音に、ティニーの心は泣きたくなっていた。
そして、雑音に混じって声が聞こえてきた。
「ナンナ、きみは先に教会へ向かってくれ。私とフィンは残党がいないか見回ってくる」
「はい。リーフ様もどうかお気を付けて」
馬が一頭駆けていく音が聞こえ、離れていった。
「フィンは増援が出ていないか見ていてくれ。私は森の中を見てくる」
――来る…っ!
ティニーは下唇をきゅっと噛み締め、魔道書を開き、そこに意識を集中させていく。
――力を貸してください、母さま。
生唾を何度も飲み込み、時を待つ。
鼓動が高鳴り、心臓は破裂しそうなくらいだ。
人の気配を近くに感じた。
――わたしは逃げない…。逃げたりしない…。
ティニーの脳裏に浮かぶ光景はいつも同じものだ。母を虐げる女の姿。
幼いティニーは、いつもベッドの下に隠れて、女の怒号と母の悲鳴を聞いていた。
『ティルテュッ! お前は本当に使えない女だねっぇっ!!』
母――ティルテュの髪を掴んだ女は、何度も床に叩き付けていた。
『お前のような逆賊を生かしておく価値もないんだっ! それどもこうして保護してやってること有り難く思いな…っ!!』
女の足が、ティルテュの顔を蹴り上げる。
『あ、ぁあっ、ぁっ…! いたい、ぃたいぃいっ…っ!ごめんなさい…ゆるして、ヒルダ様ッ……っ!!』
その度、ティルテュの悲鳴がティニーの鼓膜を震わせた。
いつか自分は、母と一緒に殺されるのではないか、と怯えていた。
何も出来ない自分が惨めで、ティニーはいつもベッドの下で声を殺して泣いていた。
『ふんっ、そうやって泣いてりゃレンスターの旦那が助けてくれると思ってるのかい?』
ティニーは耳を塞ぎ、目を瞑り、ただその悪夢が過ぎ去るのを待っていた。
母を救えるのは、自分しかいない。
だから、ティニーは強くあらねばならなかった。
母から貰ったペンダントを握り締め、ティニーが深呼吸をしたのと同時のことであった。
閃光が走った。
木々が倒れ、鈍い音を立てる。
「…っ!」
――気付かれた…っ! もう、やるしかない…っ!
ティニーは咄嗟に飛び出し、魔道書を構え、エルサンダーの詠唱をする。
「まだいたとはな……ッ!」
ティニーの目に映ったのは、茶髪の少年であった。白を基調とした鎧に翻るマント――……。
手に持っているのは、魔法剣であろう。
バチバチと目映い光が剣に纏わり付き、少年は間髪入れずにもう一度振りかざそうとしている。
『レンスターのこせがれを討て』
――あれが…。違う、あれは…ヒルダ…っ!!
「ごめんなさい……」
ティニーは小さく謝罪の言葉を口にすると、
「エルサンダーッ……!!」
光よりも早く雷光を放つ。
しかし、リーフは雷魔法に臆することもなく光の剣を振りかざし、ライトニングを放つ。
互いの魔法は空中で衝突し、相殺される。
「…っ、!?」
エルサンダーを相殺されたことにより、ティニーは焦り、次の詠唱へ移ろうとするが、すでにティニーの視界には、リーフの姿はなかった。
「あ…」
しまった、と思う暇もなかった。
「覚悟しろ」
冷たい言葉と共に、剣の切っ先がティニーの目に映る。
――あ、死ぬんだ。
死が間近にあるというのに、ティニーの心はやけに落ち着いていた。
――ダメ、わたしはまだ……。
まだ、何も出来ていない。
死ぬことは出来ない。母のために、自分のために。
ティニーは反射的に後ろへと飛び退いた。しかし、ヒュっと剣はティニーの右の鎖骨を切り裂き、血が飛び散る。
「ぅ…っ」
痛みに呻いたのも刹那。
すぐに、詠唱を始め再びエルサンダーを放つ。
至近距離から放たれた雷撃に、リーフは弾かれ、地面を転がる。
ティニーも魔法を放った衝撃で、尻餅をついてしまう。
「ぐっ…ゥ…っ」
ブルームの言った通りであった。魔法耐性が低いのか、リーフは呻き声を上げている。
咄嗟に左腕で身を庇ったのか、皮膚は焼け、おびただしいまでの血が滴っていた。
「まだ、だ…」
しかし、リーフの闘志は消えてはいない。剣を支えにし、立ち上がる。
「あ…」
――まだ、戦うの……。
2人の戦いは傍から見れば、あまりにもお粗末なものであったであろう。
閃光が走った方へ、フィンは馬を走らせる。
――やはり1人にしておくべきではなかった…。
己の過ちに、フィンは焦りを抱いていた。
木々はなぎ倒され、抉られた大地は痛々しい傷を見せている。
その一帯を抜け、開けた場所に出た時、フィンは叫んでいた。
「リーフ様ッ!!」
フィンの声が弾けた。それと同時に、フィンの瞳は、主君の向こうに見えた、キラリと輝いた銀の髪に目を奪われてしまう。
フィンの中で、時が止まった。
『フィン~』
頭の片隅に押し込んでいた声が、顔が、姿が一気に甦ってくる。
共に過ごした時間は、とても短いものであった。正式な婚姻関係を結んでいない為、夫婦とも妻と呼べる間柄ではなかったかもしれない。けれども、2人の間には確かな愛情は存在していた。
数十年前に別れたきりの彼女――……。
「リーフ様…っ! すぐに手当てを…っ!」
しかし、フィンは彼女の名前をまた心の奥底へとしまい込み、リーフの元へと駆け寄る。
「フィン…っ! 私のことはいい…っ! あの魔道士を追え…っ! あれはフリージの者だッ!! 生かしておくことは……っ」
ティニーは、フィンの声が弾けたのと同時に、身体を起き上がらせ、リーフたちに背を見せ木々の中へと走り去っていった。
敵に背を見せる行為など、あまりにも愚かであったが、ティニーは生きることに執着したかった。
「…リーフ様。ブルーム王はどこか撤退をしました。城に残されたアルスター兵が白旗を上げているのを私は見ました。あの者が増援を呼ぶことはありません」
「くそ……っ、たかが魔道士相手にこの様とは…。フリージの者だと解った瞬間、頭に血が昇ってしまったようだ…」
「王子。お気持ちは分かりますが、冷静さを欠いては命取りになります。あなたの命は、あなただけのものではなく、キュアン様、エスリン様の……」
リーフの左腕の止血をしながら、フィンは先ほどみた少女のことを考えていた。
グラン暦760年のことである。
ティルテュがレンスターへ訪れたのは、その1回だけであった。
王都バーハラから、ラケシスと共にレンスターへ逃れてきたのだ。
『フィン…あたしね、子どもがいるのよ。男の子…ほんとは迎えに来てくれた時にビックリさせたかったの…』
『ティルテュ。貴女はシレジアへ行きなさい。貴女がイザークへ向かえば、セリス様や子どもたちの居場所が見つかってしまうわ。…それに、アーサーも母の帰りをきっと待っている』
『フィン…ごめんね、ごめん…ごめんなさい……。でも、フィンが生きていてくれてよかった…。シグルド様から…レンスターの部隊が…ほんとに…生きて…っ…』
再会を喜び合う暇はなかった。
ティルテュがレンスターに滞在していたのは、僅か数日のことである。
その中で1度だけ、ティルテュを抱いた。
ティルテュと身体を重ね合わせたのは、本当に数える程だけだ。
ティルテュとの思い出は、今でもフィンの心の中に色褪せることなく焼き付いている。
雷魔法を使うティニーの姿と、ティルテュの姿が重なり合った時、フィンは確信したのだ。
血の繋がりというのは不思議なもので、一目みただけでティルテュとの子だと分かった。
我が子だとすぐに解ってしまった。
――これも運命か…。
「…教会で手当てをしてもらいましょう」
応急処置を済ませ、フィンはリーフを馬へと促す。
「すまない、いつもお前には迷惑をかける…」
己の不甲斐なさを嘆くリーフに、フィンはゆっくりと首を横に振る。
「リーフ様はよく戦っておいでです。レンスター城を死守出来たのは王子の指揮があってこそでした」
「だが…ナンナもフィンも怪我を負った。私は後ろから見ているだけで、あまり力になることは出来なかった…」
「戦いで怪我を負うことは当たり前です。我々にとって、血を流し戦うのは寧ろ名誉なことなのです。元来、王子のような者が前線に出ることなどあってはならないこと。王子がいるからこそ、私もナンナも戦えるのです」
「御託はいい…。私は大それた者ではない。こんな情けない姿をセリス様にお見せするのは恥だが…」
気遣う言葉とは裏腹に、フィンの心情は穏やかではなかった。
馬を走らせ、教会へ向かう間も先ほどの光景が何度も何度も脳裏を駆け巡っていく。