ここに、在るは幸運がため/マルティン・ロペス(アルカサル) 「なんとまあ、欲の無い男だ」。諸侯らが口々に、私を謙虚と褒めそやす。厳しい審判の眼を持つ王さえ、私をそう、賛美なさる。誰もが、ご存じないのだ。その実私が、生涯をおいてもあるいは遠く及び得なかったかもしれぬ大願を、既にこの双肩に得たのだと。十六の少年が、不意の家督において心のささえにしたカスティリア国王、十五で即位したかつての少年ドン・ペドロ王そのひとのお側近く仕えるその至上を、その幸運を! それこそが、私の何よりの強い願望で、悲願で、意欲で、目標だったことを。誰もが、ご存じないのだ。
「恐れながら――」
王の取り計らい、即ちサバ読みに応じたのも、お側仕えの夢を快く受け入れてくださった主君への、王のご厚意への、誠意だと思ったからにほかならない。たとえば神がこの方便をとがめたとても、私はそれを、恐るるまい。ドン・ペドロ王そのひとに、そのお心に適うのなら、私は地獄も恐れはしない。
私の家柄は、格としては、さほど高くない。堅実に、誠実に、かの王の統べるこのカスティリアで城の秩序維持に努める。それは、たとえ王の傍で奉仕するより遠回りだとても、王に直接、枝葉で奉仕できるという誇りだった。カスティリアの、ドン・ペドロ王の統治するこの国の騎士である。それが、私の誇りのすべてだ。だから、あの城での騎士道に反する事件には、心底憤慨した。そうだ、私を戦い得させたのはすべて、かの王へと奉仕している誇りだ。それゆえの、憤りだ。私は冷静を努め、事態に対処した。そして窮地。そのとき、ああ、命運尽きたかに思えたそのときに、かのかたそのひとが降り立とうとは誰もが、ゆめゆめ思うまい。急場は、身に余る幸運をもって我々を救い、そして私の、誇りを護った。私は、かの王に幾度にも、護られたのだ。途方に暮れた、十六のあの日。それから幾度も、心のか細くなりかけるときにも、健やかなるときも、常に王に、その存在にこころを、この誇りを、私自身の存在を、護られてきたのだ。そして――遠く夢見た、夢見続けてきた大願、お側での直接奉仕。運がよければいつかあるいは、と、そう心の糧にし日々の努めに励んできたその目標、夢さえもが、王によって知らずと庇護されようとは、ああ、まるで夢見心地だ。これがたとえば夢だとて、この白昼を糧に、どんな苦難にさえも耐えよう。そしてこれは、少しのぼせそうな頬に密かに感じる風の示す通り、間違いなく現実だ。私は、今、夢見た世界に立っている。この両足で、間違いなく立っているのだ。肩を親しみでお叩きになったてのひらが、未だそれを、現実じみさせない。だというのに私は、これを現実と知っている。自身の右掌をぼうと見つめて、ぐっ、ぱ、と、少し感触を確認する。掴んだものは間違いなくただの空気ではなく、王の剣たる騎士の誇りだった。ふとももの輪郭を装備越しに確かめてみても、遠く見た目標が現実味を実感させるばかり。ああ、そうだ、間違いなくこれは現実なのだ! ぼう、と、視界がおぼろぐことを私は惜しみ、自身にゆるさない。ふるり、ちいさくゆする栗毛が、頬を撫ぜるのがやはり、現実なのだった。
「――マルティン・ロペス。こちらへ来い、見せたいものがある」
ああ、鼓膜さえ夢のように甘くゆするこの高貴なる崇高が、心底愉快そうに、あどけなく、親しみをもってこの名を、確かに呼ぶのだ。私は今、十六のあの日から夢見た世界に、この王ただひとりの統べるべき地に、確かに、居る。ずっと踏みしめていたはずの土さえ、石畳さえ、その地の枝葉と根幹との差異を、知らしめる。あのころの私よ、ドン・ペドロ王の統べる地は、このような感触をしているのだ。温度を、芳香を、色彩をしているのだ。身をもって、終生、知るがいい――
それから私は王命を幾つともなく受け、そのたびにほとんどすべて、実行した。…ただひとかただけが、刑の実行前に天寿を全うする。その、罪の重さは私のせいだった。その事実が私を地の底奥底へと這いずらせ、己を虚しくさせる。僧院でのお勤めでも、私の罪はあがなわれ得ないだろう。解っていても、私は、僧院にこもらずにおれなかった。ただひとりの私の君主、ドン・ペドロ王そのひと自身が、迎えに来て下さったからこそお側仕えに戻った。戦が、始まるから戻った。己を赦すことは決してない。これは私の、十字架だ。それでも私は、この主君のもとで仕えると、決めたあの日からこころをかえていないのだ。だから私は、ここに、在る。
「私の場合、幸運でした」
新しい騎士団長の自慢話を聞き流しながら、私は、確かめる。私がここに在るのは、この心を誓った主君のため、この幸運のため、そのためだ。私がここに在るのは、この主君に誓った心のため、この幸運のため、そのためなのだ。私は、本当に、幸運だったのだ。側仕えの幸運は、幾多の苦難さえ、この身に現実刻む。王の進む道に従える、その幸運がもたらすものなら、いかような困難さえも、私は受け入れよう。その幸運がもたらすものなら、いかような波乱さえも、私は共に行こう。それが、私の、騎士として選んだ道なのだから。
十六の少年は、今頃、笑みを浮かべている。
終