封神考察とメモ集2(①朱聞要素と、途中から飛虎聞②たぶんCPではない)▼聞仲さまの教育方針=生き様について(ミュ2の話も少しある)(朱聞要素と、途中から飛虎聞とある)▼
王として生きることは、王として死ぬこと。血族を残し、場合によっては殷のために殉死することで、長期的視野での“殷”全体、即ち殷王国の存続のバトンをつなぐこと。それが王太子の地位に生まれた者の責務である、というのが聞太師の教育でまず刷り込まれることだと考える。
これは朱氏に子=殷の存続を託されたときから無意識に掲げていて、聞仲さまの潜在意識にあったことで、そして、仙道としての生が意識的に冷酷にさせた、個々の人間生へのまなざしだと思う。聞太師に直接託された“新たな殷王”は、朱妃の子個人のみでなく、半永久的に続くべき、“今後のあらゆる殷王という可能性”なのだった。聞仲はそれをじゅうじゅう承知して、次々に代替わりせざるを得ない人間生を、受け入れるしかなかった。
聞仲は、王にも色々居たがみな王として生きた、的なニュアンスのことを言うが、しんこうひょうの言うように“そしてあなたより先に死んでいった”なのである。それでも聞仲には、血族が遺されていればその新王を支える“太師業”に専念するという、熱心で温かい冷酷さが必要だった。それは、気持ちを切り替えるための目標、生きがいを失わないための手段だ。看取るごとに次第に切り替えが上手になっていったのだろう。永い時を生きることが朱妃の死で虚しくならぬよう、その子を永遠に愛した。
聞仲が王に、王太子に求めることは、個人としての自己を生きることは、“個人としての王太子=殷王としての責務を負うに足る存在になること”であるという、規定した自己形成の枠組みをまっとうすることである。そのなかでの自由はゆるされた。ここにおいて重要なのは、“ただし血族を遺すこと”という但し書きなのではないか?
引っかかっていたのが、兄いんこうは自分が殷のために生きることは死ぬことであると理解していることだ。彼は王太子として、殷とともに歩む道が破滅であると承知していた。それでも言った。“弟には生きていてほしい”と。これは単純に兄弟の情であると同時に、殷王家の血が途絶えなければそれでいいという、長期的視座での殷の存続観に基づく可能性もある。
聞仲の言った“打ってある手”の真意は、兄太子に万一があっても“控え”の弟太子を生かすよう最善を尽くすはずであるという、バックアップとしての弟太子の生存なのではないか。無自覚だと思うが、ミュの演出だとそっちまで何手も先を打ってあるという、必要な一定の冷酷さに身を徹する太師としての覚悟かなぁと思うのである。それが“殷”を、その血を、生かすために必要な役割だと理解して。
ここで遺伝子的なことを言うと、生存確率を上げるためには、兄弟それぞれに違う価値観を持たせたほうが、殷王国の生存確率は上がると私は考える。即ち、弟いんこうは単純に聞太師の教育期間がほとんどなかったこともあるが、それを生存可能性の保持のための多様性展開に活用されたのではないか。太師の打てる手の、持ち札の数を増やせるのだから。これは聞仲個人が冷徹であるということではなく、殷の太師として長年生きるということは時にはそういった冷たい判断すらをも要したのではないか、聞仲さましんどかったろうねぇ、というかんじである。意図的にそうしたというより、妲己によりああいった状況になった以上、次善策を幾つも練る必要があって、たまたまそこにあった手札がそれだったのだ。
ほかのかたもおっしゃっていたが聞仲にはマジで何年何十年何百年かかってでも殷を立て直す、否、ほとんど一からでも作り直す覚悟と自信があったのだと思う。かつてそれをできたのだから、というのはほんとうになるほどと思った。聞仲は、弟いんこうが生き残っていれば彼の血族でいつか周を討ち直すことだってしかねなかったと思う。わかんないけど。けど、聞仲にとって周や崑崙との争いで殷の民を失いたくなかったのはほんとに純粋に、彼らが殷という我が子の住人で愛おしかったからだと思う。紂王を、あるいはその血族を、王として立て直すために(仙道が理由の争いで)民の血を流したくなかった。けど民を国の細胞としてのこしておきたかった部分あるんかなーーーー 王族に関してももちろんかわいい我が教え子なんですけど、王族には(朱妃の子孫として殷を守る)責務があるから、そこはビシバシ厳しくしないとならなくて、時には冷酷に次善策を練るのも必要、という太師業…
(ここから飛虎聞含む。朱聞前提。)
飛虎と出会ってその心の仮面にヒビが入りさえしなければ、彼は太師として、もう少し、苦しまなくて済んだと思う(褒めてます)。どんどん心が鈍化されていって、マシーンになってたかもしれない。けど、そこにひとときの憩いを設けて人間くささを思い出させ、その上で道を分かたれて…聞仲さまは、更に大幅に、しかも短期間で勢いよく心を鈍化に振り切りきらなければならなくなった。そのなかでちょうけいちゃんの存在がどれほど救いになったことか…さておき、そのヒビとわずかな角度ズレの軌道を修正しきれなかったことが、太師聞仲の防衛本能のやや過剰な性質を大幅に強め、殻にこもらせ、それに気付かせず、自分の信じる道に真っ直ぐ突っ走らせたのかな。ハンドルがちょっとズレた状態でトップギアでフルアクセル踏んじゃったみたいなかんじ。たとえゆっくり中速ギアでも、安定して走れていればほんとはよかったのに。状況がそれを許さなかった。妲己の存在も併せて、仙界のゴタゴタが錯綜したのもあり。
朱妃の子だった殷が、朱氏と同じように切磋琢磨し合った友飛虎と過ごしたことで、あのころの真新しい感覚を取り戻させた。錯覚した。オーバーレイした。彼らが自分たちの殷と言うとき、そこには、朱氏との約束が真新しく蘇っているのであり、状況も伴って、それが馴れから、最新状況になった。情熱家としての面が青く若返った。老獪になるには人間過ぎたんだよな聞仲は。仙道でありながらただ長命なだけの人間として人間界で生きることを選んで、執着を棄てることを拒んだ。というか彼にとって殷が自分の全てだから、仙道が道を極めるために修行するのと何ら変わりない。彼は仙道であり、人間だった。歩む、修練の場が人間界だっただけで。(一定の修行ののちに下山しているわけではあるが)
何の話だこれ。そうそう教育方針。聞仲さまが北海に行ってる間は飛虎が守ってたわけで~~~王太子兄弟の家族愛が強化されたのはそこもあるんでしょうか? 飛虎にとっての家族は失った二人と残された皆とで、聞仲にとっての家族は子としての殷で。王太子兄弟にとって、聞仲さまが求めた家族意識は、血をいかに残すか、だったと思うんだが、そこに北海行きが挟まったのと飛虎の人柄の影響もあったり母を失ったり実父が変貌した関係で王太子兄弟における家族愛が互いに向くのは当然で。それが聞仲の理念とたまたま噛み合ったのを、ミュでは打った手として強調して。聞仲にとっての家族は"(長期的視野での)殷"とその王だったけど、飛虎への感情がそこに入り交じることで冷静さを欠いたっていうか。
要するに皆家族を守りたかっただけなんだけど、それが悲劇になったのは、守りたい家族がそれぞれ違ったからだと思う。飛虎にとって殷は、家族とともに身を捧ぐ場でこそあったが、友だった。聞仲にとって殷は家族だったが、飛虎との関わりで、友(=朱氏の名残でもある)の面を蘇らされて。それで飛虎が友よりも家族をとったように聞仲さまには見えたのがショックだったんじゃなかろうか。本来、朱妃の子の守護者である聞仲にとって殷って友でもある家族なのに、その存続を永く見守るためには友の面を封じ守護者に徹する必要があったわけで。飛虎、罪な男…
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▼ミュの飛虎と聞仲について▼
俺の良しとする道を行く、分かってくれるよな、のくだりと、聞仲と太公望のお互い道は異なるが、をひと公演内に入れることで、飛虎が聞仲なら分かってくれると思ったのがその道を良しとすること自体(=価値観自体の擦り合わせ)ではなく互いに道が分かたれたのだという事実を受け入れること、それを求めたのだと明示され強調されたので、マジで、ミュの紅水陣がどうなるのか見た過ぎてやばい。
この文脈(違う道を行くことを理解して欲しい飛虎)において飛虎は聞仲における良しとする道をも肯定し得るのだが、少なくとも原作において、飛虎はオウム返し的に聞仲の道を鵜呑みにするのではなく、聞仲が蘇ると信じている俺とオメェの殷はもうないと説く。これは道が分かたれたこと自体が、互いに懸けるものが異なるにしても、もうそれを懸けるに足る殷の状況ではなくなっているからである。
この時飛虎は、聞仲が蘇ると信じている殷が飛虎の居る殷だと本能から悟っていた、というよりも飛虎にとって殷とは自分と聞仲(と紂王)のともに居得る、絆の場所だった。広義での家だった。それが壊れた。
飛虎において、道を分かたれたことを理解して欲しいという要求が、武成王としてではなくひとりの黄飛虎として、友として、の面を最終的には際立たせているが、太公望と道が違うことは受け入れられている聞仲さまがもし、飛虎と道が違うのはムリ、ってミュでもなって感情むき出しにしたら、飛虎への感情が大きすぎて最高。
飛虎はどーするんでしょうかね、友がわかってくれないかなしさがやっぱ前面に出ちゃうんですかね。頼もしい皆のオヤジの、デリケートな部分…良き。