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蕩けるような甘さと、少しほろ苦い香り。なめらかな舌触りはささくれだった心を溶かしてくれる。値段相応の味もあるが、手軽に口にできるものも嫌いじゃない。
「美味いもんが食いたい……」
江澄の切なる思いは、積み重なる書類と愛用のキーボードの上に散っていった。
「お先に失礼します」
呼び止められる前に深く一礼してさっさとロッカールームへ向かう。今日も今日とて残業で、タイムカードはきちんと残業時間で切らせてくれるからまだいい方だが、繁忙期でもないのに何故か立て込んでいるのでチームのみんなも疲労が隠せないでいる。
ーー時間でカードを切るのは当たり前か
昨日は今日より遅かったため、寄れたのはコンビニだけだった。もちろんコンビニのスイーツとクオリティは上がっているが、やはり専門店の方が美味い気がするのだ。
何の話のことか……それは【疲れたら甘いもの】と相場は決まっているので(当社調べ)コンビニ限定の新作以外を求めて帰路に着く。いつも通りの道では変わらないので、一本だけ横の道に入ることにした。
結果的には特にめぼしい店もなく、強いて言えばあまり店名を聞かないようなコンビニに入り、そこのプライベートブランドのチョコスフレを買ってみただけだった。
帰宅して飯を食ってシャワーを浴びればあとは寝るだけだ。ローテーブルにホットミルクと購入したチョコスフレを用意して、愛用のミディサイズのビーズソファに座る。
「食うか」
蓋を留めるテープには【カカオ香るふんわりチョコスフレ】と書いてある。蓋とカップの間に指を入れシールを切り蓋を外す。上にかかっているパウダーシュガーが多いのか、蓋を外した際に少しだけこぼれてしまった。
付けてもらったパフェ用のスプーンを入れていくとシュワシュワとスフレ独特の音がする。掬い上げる際はパウダーシュガーを溢さないよう、ゆっくりとスプーンを持ち上げる。
「ん……」
大きく口を開けてスプーンを迎え入れ、口を閉じる。口に広がるのは盛られたパウダーシュガーの甘さが強いが、名の通りチョコ感はある。スフレ生地はやや硬く感じるが、工場からコンビニそして自宅までスフレの形をキープするためのそれなら妥当なとこだろう。
だがチョコレートの甘さというよりは一口目はパウダーシュガーが前面に出過ぎている気がする。
一旦ホットミルクで流して、パウダーシュガーのかかっていない部分を食べてみる。
「ない方が美味いな」
結論、パウダーシュガーが多すぎる。リピートはないだろうが、甘さを求めるならアリなのだろう。
黙々と疲れた身体に甘さをチャージして、江澄はデザートタイムを終えた。あとは歯磨きをして寝るだけだ。明日もまた山積みの書類と戦うのだ。
さっさと歯磨きを済ませ、アラームをセットして布団に潜り込む。明日はどんなスイーツに出会えるだろうか……
なんとなく忙しない日々は突如終わりを告げた。システムには問題ないが、エレベーターなどの回路がなんたらかんたららしい。江澄をはじめ全職員が強制的に退社となったため、不完全燃焼のまま本日は解散となった。
この時間をどうしようかと思いつつ、駅の方へ向かうと何処からか甘い匂いが漂ってくる。
--ケーキ? いや、チョコがメインか?
なぜ今日に限ってこの香りが気になったのかはわからない。もしかしたら帰宅時間には閉店していることが多かったのかもしれない。好奇心と香りに誘われ江澄は漂う香りの源へと足を進めていった。
言ってしまえば小さな店だ。腰まであるレンガ調の壁と白い壁、ドアは木目調で真ん中から店内が覗ける。ドアの半ばから下がっている【open】の文字、ドアの上には看板があり【le chat noir】と尻尾を垂らした猫の後ろ姿が描かれていた。
「シャノアール……黒猫?」
いや待て、猫や犬はチョコレートを食べたらダメだろう……そう思うがこの外観なら確かに黒猫も合うかもしれない。店に入るかどうか迷ったのは一瞬だ。
--カラン
予想通りのドアベルの音に笑みを浮かべながらドアを開ける。
「……っ!」
店外に漂っていた甘い香りがダイレクトに感じられるが、思いの外それはしつこくなかった。そう、不思議なことに店内の方が柔らかな香りに包まれていたのだ。
ざっと店内を見回すと、壁にはほんの数種の焼き菓子、メインはショーケースにあるチョコレートと言うことがわかる。修行した先かただの趣味か、どこか海外の街並みと人の写真が飾られていた。だが黒猫は見当たらない。
「いらっしゃいませ」
「あ、はい…」
江澄に声をかけてきたのは店主だろうか、物腰の柔らかい大人しそうな印象を受ける。
「初めてのお客様ですね。ここはチョコレートをメインに取り扱うショコラトリーになります」
温かな声に吸い寄せられる様に江澄はショーケースの前に行く。にこりと笑った店員は「こちらをどうぞ」と試食用にカットしてあるチョコレートを差し出してきた。
「胡椒をアクセントにしたショコラです。お嫌いでなければぜひお試しください」
「ありがとう、ございます」
チョコレートの刺さったスティックを受け取り、迷いもなく口へ運ぶ。胡椒を使ったチョコレートの存在は知っていたが、実際に口にするのは初めてだった。
「ん!」
滑らかなチョコレートの舌触りと、トッピングとなっている胡椒の歯応えが妙にマッチしている。甘いだけではない、カカオの苦味と胡椒の辛味がそれぞれを引き立て合う。
「la farce d'un ange……天使のいたずら、という意味です」
なるほど確かに。名の通りのチョコレートだ。
「すみません、このチョコレートを二つお願いします」
「ありがとうございます。他のご注文は大丈夫ですか?」
他の注文は大丈夫であることを伝えると、店員はトングを使って小さなボックスに【天使のいたずら】を詰めていった。チョコレートを受け取った江澄大事に食べようと口元に笑みを浮かべた。
「またのご来店をお待ちしております」
ほくほくとした気持ちで帰路へ着く。チョコレートと一緒にもらった名刺には店名の黒猫が描かれており、営業日と時間が記載されている。ごちゃごちゃしていないシンプルなそれに江澄は好感を抱いた。
軽い足取りで玄関を開け、洗面所で手洗いとうがいを済ませる。キッチンへ向かいチョコレートを置くと冷蔵庫を開けて食材を確認する。パスタとサラダぐらいならなんとかなるだろうとメニューの算段をつける。
「さて」
スーツを脱ぎTシャツとスウェットに着替える。適当にニュースを流すだけになっているテレビを点け、ゲームを起動する。使用するソフトは運動不足解消のために購入したフィットボクシングだ。
たまに甥である金凌がソフトを持ってくることもあるが、江澄は好きにすればいいと気にしていない。
インストラクターは特に決まっていないが、今日はなんとなく店員に声が似ているインストラクターに変えてみた。
「チョコレートの分、動かないとな……」
コントローラーをしっかりと握り、江澄はプログラムを選択した。
一汗かくとシャワーを浴びて、さっと夕飯の支度をする。ゆっくりと食事を終えたらコーヒーを淹れて、お待ちかねのチョコレートを運ぶ。
ボックスを開けてペーパークッションを取り出す。シールが貼られていたが、それは店のモチーフの黒猫だった。ふわりと立ち昇る香りは昼間に体験した「美味しい」を覚えている鼻腔をくすぐる。
「美味い……」
半分だけ齧り食感の違う胡椒部分を噛み砕く。ピリッとした刺激がたまらない。あっという間に半分と一個をたいらげる。儚く溶けていったチョコレートの余韻に浸り、思わず頭を抱えた。
「これは通うしかないだろ」
全種類制覇しなくては気が済まない。なんなら季節ごとの限定も試したいし、焼き菓子にも手を伸ばしたい。
コーヒーを飲み終えてカップを洗う。歯磨きをしながら残業しなければ通えるであろう閉店時間を思い出し、江澄は心が満たされたまま眠りについた。