サキュバスオメガバパロビマヨダ4-1(追加9/6)ぴき、と音がしたのは己のこめかみから。
ビーマは自他ともに認める行動力のありすぎる男である。
己の感情を理解し、すべきことを捉えたなら後は早かった。
ガタン。
ベッドから下りる。
「え、」
ほどけてシーツの海にたゆたうストールを拾い上げ、広げる。
薄い布地であったが幅がそれなりにあるそれをこれ幸いと呆気にとられているドゥリーヨダナの上半身へ巻きつけた。
手頃なところできゅむっと結べば、あっという間にサキュバスの拘束巻きのできあがりである。
「は?」
巨大な芋虫のようになったそれを抱えあげる。
今度はプリンセスホールド崩れのヘッドロックではなく、肩に担ぎあげるお米様抱っこスタイルだ。
「ちょ、おい、なんだ!? なにしとるんだ貴様!?」
ここでようやく我に返ったドゥリーヨダナが、びちびちと抵抗し始めた。
「うるせえな、お前がオメガ臭いっつうから場所を移すんだろうが。おとなしくしてろ」
「この状況でおとなしくするわけなくない!? だっ、だれかー! 助けろー! サキュバス攫いだー!!!」
「騒ぐなら顎を砕く」
みし。
実際に掴まれている腿から骨の軋む音がして、騒音は途端に止んだ。
代わりにドゥリーヨダナは大量に冷や汗を噴きださせ、かつての出会いを走馬灯のように蘇らせていた。
そういえば年上数人相手に圧勝できる子供であったことを思い出し、おそるおそるビーマの背中を仰ぎ見る。
「せめて猿轡を噛ますとか言えんのか……」
「そんなことしたら完全に誘拐だろうが。怪我したから手当のできるところに運んでる、ってほうが言い訳にもなる」
目的と手段が完全に逆転しているし、言動がもはや悪役のそれだし。
ドゥリーヨダナは大量に溢れたツッコミを処理しきれず喉に詰まらせていた。
なお、この会話中、既にビーマは移動を開始していた。
落ち着いて二人で話せる避難部屋からはとうの昔に退出していたし、まだ人とすれちがってこそいないものの、いつ誰が通りがかるか分からない廊下を早歩きで爆歩していた。
百九十超えの男が。百九十超えの男を担いで。
「おい、……おい! 本当に頭わいたか!? この状況見られてみろ、大学通えなくなるぞ貴様!」
「かまわない」
わかったらとっとと下ろせ! と続けるつもりだったドゥリーヨダナは、なにを言われたのか一瞬わからず言葉を止める。
もう一度ビーマの方を仰ぎ見れば、首をねじって振り向くその顔と目があった。
「おまえを逃さないためなら、なんだってやる」
深紫が、温度のない宝石のような強い煌めきをもってこちらを焼くようだった。
嘘偽りは一切なし。
本気でこの誘拐犯スタイルのまま外へ出るつもりだと察し、ドゥリーヨダナの背に怖気が走る。
このゴリラが今更野生を露呈して人間としての生活を送れなくなることに全く興味はないのだが。
その露呈する過程に思い切り自分が関わっているとなると話しは別だ。
衆目に晒されるぐるぐる巻の己の姿を想像したならば、恥をかきたくないドゥリーヨダナの判断は早かった。
「……わかった、逃げん、逃げないから! 下ろして拘束を解け!」
苦虫を噛み潰したような顔で宣言することで、ようやくビーマの進軍が止まる。
靴裏に感じる床の固さに、ドゥリーヨダナは安堵の息をついた。
続いてストールを解いてもらったはいいものの、右手をがっちりと握られている。
相変わらず骨を砕きそうな強さに、しかし温度のない瞳がこれ以上の妥協はないと語るものだから、地面から離れたくなかったサキュバスは言葉を呑み込んだ。
それから来たばかりの道を辿り、電車に揺られ──
かと思いきや、ビーマはドゥリーヨダナを連れたままディスカウントストアに向かった。
初めて訪れたその物珍しさに、ドゥリーヨダナの気分もわずかに浮上する。
が。
買えないものはない、と品揃えの豊富さで有名なそこの雑多な店内を物色する暇も与えられず、手を掴まれたまま店の奥へ連れられていく。
「おーい、わし様もっと見て回りたいんだが」
文句を垂れるも返事はない。
ビーマは近くにいた店員に声を掛けると、什器の一つを指差した。
「あそこにあるもん全部くれ」
「は、……」
店員は笑顔のまま絶句した。
近くでそれを眺めていたドゥリーヨダナも絶句した。
そこに並べられているのはいわゆる大人が夜に使う用の精力剤だった。
いわゆる眉唾ものから一般用医薬品まで、店内に存在しているそれら全てを買うと宣言しているのだ、この男は。
「少々お待ちください」
さすがのプロ根性と言うべきか、硬直からいち早く逃れた店員は、素早い身のこなしで薬剤師を連れてきた。
そこからは怒涛である。
精力剤の使用過多で発生する作用について説く薬剤師。
適量を使えと説得されるも頑として全て購入することを曲げないビーマ。
数人がかりで梱包されていく精力剤。
繋がったままの手と、そこにちらちら注がれる視線。
ドゥリーヨダナは泣きそうになりながら、今後けしてこの店に足を踏み入れないことを誓った。
電車に揺られている間、もはや無駄口を叩く余力はなかった。
幼い頃の傷に精算をつけるべく野生児の精気を絞り取りに来ただけだというのに、どうしてこうなったのか。
ツッコミどころが多すぎて疲れすぎたというのもあるが、ドゥリーヨダナの心にじわじわと湧いてきているのは、恐怖だった。
手は相変わらず掴まれたままだ。
足元に購入した荷物を置き、片手で器用に携帯をいじりながらも、その力は弛まない。
この男が、なにを考えているのか。
後にドゥリーヨダナは語る。
あの時、手首を切り落としてでも逃げるべきだった、と。
「確認しときてえことがある。正直に答えろ」
「物言いがもはや暴君」
ビーマの屋敷へ着き、手洗いうがいを済ませた直後の台詞である。
ドゥリーヨダナがそれ以上文句を言わなかったのは、掴まれた手首がみしっと音を立てたからだ。
暴力に訴える気満々のゴリラは、寝室へ足を運びながら一つ指を立てる。
「サキュバスってのは、精気を取り込むのが人間でいうところの食事なのか? それとも仕事なのか?」
「食事、だな。我らの使命は人間共を誘惑することで試練を与えること故」
寝室に入る。
出ていった時と同じ、乱れたベッドが目に入った。
「なら仕事してる時に必ずしもヤらなきゃならねえ、というわけではねえんだな」
「まあな。誘惑に乗ってきた段階で腹が減っておったらついでにつまむ、くらいのことはあるぞ」
巻いていたストールを外される。
細い革の首輪が顕になった。
「食事のための精気は複数人からでないと駄目なのか?」
「駄目な訳ではない。が、わし様が本気で喰らえば一介の人間なら精気不足で衰弱死する。家畜に死なれるとこちらも困るから、複数から絞っておるのだ」
布団を払いのけたベッドの上に、座らされる。
ここでようやく手が解放された。
ぱきゅ。
一体これはなんの問答なのだ、と呆れていたドゥリーヨダナの耳に、ビンの蓋を捻る音が聞こえた。
音の正体はすぐにわかった。
目の前でビーマが精力剤の瓶の蓋を開けたのだ。
大人買いを通り越して王族買いしたそれらが、空になって机の上に放り出されていく。
数が四つ、五つと増えていくにつれ、ドゥリーヨダナの顔が信じられないものを見るものへ変わった。
「……おい……先程、店のものに用量を守れと言われていなかったか……?」
「ああ? こんなもん、ただのジョークグッズと変わらねえよ。医者から処方されてるわけでもなし」
「購入品の意義を全否定してやるなよ、かわいそうだろ! て、じゃあ、効果のないと思っとるものをなんでそんなにかき集めたのだ」
「決意表明」
なんの? と問いかける前に、視界がぐるりとひっくり返る。
夜に何度も仰いだ、涙でぼやけていた天井は、昼に見るのとではまた違った色をしていた。
「ほんっとーに、無礼さの上限がとどまるところを知らんな貴様! わし様押し倒すの大好きか!?」
「なあ。勝負しようぜ、ドゥリーヨダナ」
文句を投げつけても、アメジストの瞳にはゆらぎ一つない。
苦言が総スルーされたことに青すじを立てながらも、ドゥリーヨダナは先を促す。
「勝負だあ?」
「お前は俺から精気を取るための奴隷にするためにやってきたんだろう。なってやってもいいぜ。ただし、俺を屈服することができたら、の話だ」
筋張った手がぺとりと触れたのは、仰向けに寝転がったドゥリーヨダナの腹だった。
インナー越しでも分かる体温の高さが、心地よさと嫌な予感の両方をもたらす。
「ちょうどこれから三日間、学校が休みなんでな。普段ちまちま食ってる精気をたらふく食わせてやる。学校が始まるまでにお前を満足させられなかったら、俺の負け。大人しく奴隷の身分を受け入れよう。
……その代わり」
「その、代わり?」
「満足したら俺の番になれ。他から二度と食事をするな」
ひゅぐ、喉元で空気が変な鳴りかたをした。
それは尊厳の破壊にも近しい要求だ。
精気のつまみ食いも許されず、ただただ人間への誘惑という仕事だけをひたすらにこなせ、ということなのだから!
しかも、大昔に自分から破棄した約束をもう一度、ときた!
サキュバスに! オメガの真似事をしろと!
「調子に乗るなよ、人間」
紫の髪が怒気によってぶわりと膨らむ。
勢いに任せて掴んだ手首からは、みしりと音がした。
「貴様にわし様の行動を制限できる権利があるとでも? 身の程を知れ」
「権利はねえ。数年前に俺が自分で投げ捨てた」
一方のビーマは、眉一つ動かさない。
相応に力を込めている手首には、ドゥリーヨダナの手形がくっきりついていることだろう。
なのに手は、離れない。
「だがそれはお前も同じことだ。俺の意思抜きで俺を奴隷にすることは許されない」
「人間ごときがわし様に口答えなどっ……」
「ああ、それと。俺にオメガの番はいねえから、奴隷にするなら俺一人だけだ、そこは了承してくれ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ドゥリーヨダナの手の力が、途端に弱まったのは。
信じられない、という驚愕の表情から、深い安堵の息が漏れたのは。
「……ふ、ふん! せいぜい性悪のオメガに引っかかって尻に敷かれているかと思ったが、それもゴリラには到底無理な話だったな!」
「これがサキュバスの手管だったら恐ろしいな」
「なにか言ったか?」
「いいや、なにも。で、どうすんだ。まさか稀代のサキュバス様はゴリラ一匹その魅力でおとせない、なんて言わないだろう?」
ぐぬぬ、ドゥリーヨダナは喉の奥から深くうめき声を上げる。
誘導されている。
しかしその提案と、自分の思惑の方向性が似ているのは確かなのだ。
己の魅力について挑発をもらった以上、引き下がるのも癪にさわる。
「条件を、追加しろ。三日三晩ぶっ続けはなしだ。きちんと三食おやつと昼寝つきで、わし様の身支度をせよ!」
「……変わらねえな、その傲慢ぶりは。いいぜ、精々もてなしてやるよ」
よし、布石は打った。
にやりとほくそ笑むドゥリーヨダナの胸中など知らず、深く追求もせずに条件を呑んだビーマが、性急な動きで手のひらを当てていた腹へ愛撫を施す。
大男が、頭を垂れる。
まるで、こいねがうように。
「愛している、ドゥリーヨダナ」
耳元まで近づいたビーマの声が、囁きとなって吹き込まれる。
ドゥリーヨダナは反射的に心に浮かべてしまった。
これ、わし様負けたかもしれん。
《つづく》