目が覚めると、発熱している感じがあった。体の節が張っていて、手足の先は寒いのに顔の周りが熱い。起きあがろうにも何だかだるくて、普段の倍くらい時間をかけて布団から抜け出した。
とりあえずプロデューサーさんに体調が怪しいことを連絡したら早速体温計を持ってきてくださって、測ってみると三八度三分あり、私としてはああやはりと納得するしかなかったが、プロデューサーさんは自分ごとのように慌てて、私の部屋を出ると救急箱を持ってすぐに戻ってきた。
されるがままに冷却シートを貼られたり追加の毛布をかけられたりしている間、私はパッションキャラバンの撮影はどうしようかと考えていた。だが今日は最終日で撮影はもう済んでいることに気づき、最終日ならば自由時間に北村さんと出かける約束をしていた、と思い至る。プロデューサーさんに北村さんへの言伝を頼もうとしたがうまく呂律が回らなくて、きちんと伝えられたか怪しいままに、後は任せて休んでてくださいと寝かされてしまった。
*
――では、――――ということで――――
――――おひるにえきで――――
入り口の方からざわざわと声がする。部屋の外で話しているからか、私の方がまどろんでいるからか、途切れ途切れに聞こえてくる。
――おいおい、くろうさんが……っと、すまねえ!――
ひときわ大きな声がして、紅井さんだとすぐにわかる。
――しずかに、いま――――から――
――ほら、みんなも――――
二言三言のやりとりがあり、部屋のドアが開いた。暗くて誰だかわからなかったけど、聞き慣れた声がした。
「九郎先生、大丈夫ー?」
「…………きたむらさん」
口を開いたらしわがれた声が出て、急に何歳も歳を取ってしまったようだった。北村さんは、あははと呆れたように笑いながら、しゃがんでベッドの上の私と目線を合わせた。
「ダメそうだし、手短に伝えるねー。プロデューサーさんが延長手続きしてくれて、新幹線の時間ギリギリまでホテルにいていいことになったよー。でもプロデューサーさん本人はこの後こっちのクライアントさんと会う約束があるらしいから、新幹線までは僕が付いてるねー。ちなみに、あとのみんなは予定通り自由時間を過ごすから安心してねー」
口早に伝えられ、私はどれから反応していいかわからず、黙ってうなずく。そしたら北村さんはにこりと笑った。
部屋着のままの北村さんは、足元灯のオレンジで下方から淡く照らされて、いつもと違って見えた。
「じゃあ僕は自分の荷物まとめてくるねー。九郎先生はまた眠っていいよー」
ありがとうございますとお礼を言おうとしたけれど、またしゃがれ声が出てしまうのが恥ずかしくて、私は先ほどと同じようにただうなずいた。
*
「あ。ごめん、起こしちゃったー?」
今度の北村さんは外行きの普段着になっていた。サイドテーブルに歩み寄ると、手に下げた買い物袋からペットボトルを取り出す。
「コンビニ行っていろいろ買ってきたんだー……って言っても飲み物くらいだけどー。プロデューサーさんも用意がいいよねー」
北村さんは私の前にペットボトルを二本掲げる。
「お水とスポーツドリンクどっちがいいー?」
「ええと……お水を」
「はーい」
北村さんは返事して、キャップを緩めて私にペットボトルを渡した。のそのそと上半身を起こして、それを受け取る。
「ありがとうございます」
発する言葉が、今度はしわがれていなくてほっとする。
「カーテン開けちゃうねー」
遮光カーテンが端へ寄ると、たちまち部屋の中は白く明るくなった。目に入ってきたベッドサイドの時計では、チェックアウトの時刻をとうに過ぎていた。
喉が渇いていたので水を飲む。ペットボトルの水は冷たくて、一口飲むたび熱くて乾燥していた口内に染みていく。
「九郎先生、お水こぼしてますよー」
北村さんの言葉で反射的に口を離すと、つうと水の伝う感触が確かにあった。しかしすぐに手が伸びてきて、北村さんは備え付けのタオルで私の口や喉元を拭った。
「ふふ。レアな姿見ちゃったなー」
「す、すみません」
おぼつかないのと世話を焼かれてしまったのとで、ただでさえ火照った顔がさらに熱くなる。
「ふふっ、九郎先生もこういう時ってあるんだねー」
「全くもって不甲斐ない限りです。みなさんにもご迷惑をおかけして……」
「迷惑なんてー。みんな心配してたよー。全員自分が残るって言い出したりして、そっちの方が大変だったんだからー」
北村さんはそう言いながらベッドの側にあった椅子に座り、ガサガサとまた買い物袋を漁った。
「ゼリー買ってきたけど食べるー? 朝から何も食べてないよねー?」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
北村さんはフルーツゼリーのフタを剥がし、プラスチックスプーンも中身だけ出して渡してくださった。
「僕もこれが朝ご飯なんだー。いただきますー」
買い物袋からおにぎりを取り出し、北村さんはもぐもぐと食べ始めた。パッケージを見るに何の変哲もないコンビニおにぎりで、きっと全国区で売っているものに違いない。
「……北村さんも残っていただいてすみません。せっかくの大阪でしたのに」
「いいえー。僕も昨日の撮影で疲れてたからちょうど良かったよー。大阪とはいえ、まさか漫才をする羽目になるとはねー。九郎先生は二日間の参加だし進行役もしてたし、本当にお疲れ様ー」
「ですが……北村さんは色々調べてくださったのに……」
「また今度行けばいいよー。来ようと思えば来れる距離なんだからー。それに、こういうトラブルも旅の醍醐味だったりするんだよー」
北村さんはそうは言ってくださるものの、私は撮影が終わった今日のことも楽しみにしていたので、素直にうなずけない。
「そんなに気に病まないでー」と、北村さんはため息混じりにこぼす。
「後は帰るだけなんだからゆっくり休みなよー。大きい荷物も神速一魂の二人が持っていってくれたし、僕たちは身軽だよー」
「はい……」
それでもやはり煮え切らないまま、私はゼリーを一口すくって食べた。
きっと今からでも北村さんに楽しんでいただける方法があるはずなのだろうけれど、発熱してぼんやりした頭では何も思いつかない。私がしっかり体調管理できていれば、と同じ後悔ばかりが繰り返される。
「カップもらうねー」
いつの間にか私はゼリーを食べ終えていて、促されるまま北村さんにカップを差し出していた。
「もう一回熱測ってみようかー」
体温計を待っている間、北村さんはてきぱきと片付け、カーテンを閉めてテーブルランプをつけた。室内が元通りに薄暗くなる。
「どうしたのー?」
「あの、カーテン……」
「カーテン? ああ、まだ出発しないよー」
体温計が鳴り、画面を北村さんに見せる。
「うーん、変わらないねー。喉痛かったり気持ち悪かったりしないー?」
「いいえ」
「じゃあお水飲んで寝ちゃおうかー」
再びキャップの外されたペットボトルを受け取り、飲み下す。
「昨日だったら薫先生いたんだけどねー。もう向こうに帰っちゃったし、今日のところは僕で我慢してねー」
「北村さんは、どうされるのですか」
尋ねると、ごみをまとめていた北村さんは手を止めて不思議そうにこちらを見る。
「その、発つまでの間、どう過ごされるのですか」
「え、ここにいるつもりだけどー……」
「私は一人で平気ですから、今からでもどこか出かけられては……」
そしたらまた、北村さんは朝に様子を見に来てくれた時と同じ笑い方をして、椅子に腰掛けた。
「置いてけないよー。こんな言い方はなんだけど、実はこの状況を結構楽しんでたりするんだー。出発してから撮影続きでバタバタしてたし、観光もいいけどこんなふうにゆっくり過ごす方がしっくりくるというかー……。とにかく、僕はぜんぜん気にしてないから安心してよー」
北村さんはいつも通りののんびりした口調で言う。「もう飲まない?」と聞かれてうなずくと、ペットボトルが取り上げられて、布団をかけられる。言われるままだったりされるがままだったりで、今度は幼い子どもになってしまったみたいだった。
ベッドに横たわると椅子に座っている北村さんを見上げることになって、いよいよ自分がちっぽけに思えてくる。
北村さんは明かりを絞り、ベッドの傍で文庫本を読み始めた。彼が持っている本には、私も見覚えのあるブックカバーが巻かれている。淡い生成りの布地に、小鳥の刺繍が入っている。外側だけでなく、折り返した内側のところにも小鳥がいるのだと、前に見せてくれた。
「ん、どうしたのー?」
北村さんは私の視線に気づき、本から顔を上げた。
「な、なんでもありません」
「ごめん、眩しかったかなー? 気になるなら出てくけどー」
「いいえ。そばにいてください」
先ほどとは矛盾した言葉が口をついて出てきて、かあと頬が熱くなる。
「あ、今のは、その……」
「ふふっ。わかってるよー。もう少し暗くするねー」
北村さんは朗らかに笑い、スイッチをいじって読書に戻った。
私はもう気恥ずかしくて、布団にうずくまり目をつむった。足を動かすと、跳ねるようにベッドが軋んだ。今日のように遠方ロケのためにベッドで眠ることは度々あるが、マットレスの感触には慣れない。
北村さんがページをめくる音がした。客室は静かだった。このフロア一帯に集まって事務所のみなさんが泊まっていたので、きっと外はがらんどうなのだろう。上の階からも、足音は降ってこない。
北村さんがまたページをめくる。エアコンか空気清浄機かが、空気を吐き出している。自分の呼吸が布団に跳ね返されて、湿っぽくなって戻ってくる。
北村さんの言っていたことが、少しだけ理解できた気がした。大阪の街は賑やかで楽しくて、撮影も充実していて、だけど、ここへ来てようやくひと息つけたような。大きな企画だからと張り切りすぎていたのかもしれない。ページのめくれる音がする。北村さんの、いたわるような笑い声を思い出す。体調が悪い時特有の、淋しさみたいな心細さがじわりと溶け出していく。また、ページのめくれる音。ブックカバーの内側の、刺繍の小鳥を思い浮かべる。糸でできた小鳥は動き出し、羽を広げて飛んで行く。
*
「おはよー、九郎先生ー」
新幹線の車内は記憶にあったよりもまぶしくて、数度まばたきをした。
「ちょうど静岡出たところだよー。東京まであと一時間くらいかなー」
リクライニングシートで毛布にくるまり、私は眠っていた。熱のせいか新幹線の暖房のせいか、なんだか体が熱い。きっとそれで目が覚めたのだろう。
「お水飲むー?」
「はい、いただきます……」
寝起きのぼうっとした頭で返事すると、前の座席から山下さんが顔を覗かせた。
「お、きよすみ起きた。どう? 体調は」
「ええと、おかげさまで少し良くなりました」
そう返事したら、周囲の座席で続々とみなさんが立ち上がった。具合はどうか何か欲しいものはないか、矢継ぎ早に尋ねられたので返事に窮していると、「皆、心配な気持ちはわかるが、ここは公共の場だ。それに清澄君も快復したわけではない。到着まで休ませてあげなさい」と硲さんが収めてくださった。
「九郎先生が寝てる間も、代わりばんこに様子見に来てたんだよー」
北村さんは言いながら、足下にあった紙袋を持ち上げる。
「はい、みんなからのお見舞いの品だよー」
紙袋の中にはさまざまな大阪土産が入っていた。食べ物や飲み物、キーホルダーにカイロやのど飴まである。
「ふふ、人徳だねー。荷物は倍になっちゃったけどー」
「いえ、とてもありがたいです」
ひとつひとつ手に取って見ていると、なんだか膝の上に違和感があった。プロデューサーさんが用意していた携帯毛布の上に、北村さんの上着がかかっている。
「あ、上着……ありがとうございます」
「車内は寒いかなと思って勝手にかけちゃったー。暑くないー?」
「……いいえ。到着までお借りしてもいいですか?」
「もちろんー。まだ一時間あるしゆっくり寝てていいよー。着く頃になったら起こすからー」
北村さんはそう言うと、簡易テーブルに置いてあった本を手に取り、再び読み始める。
あと一時間、とにわかに心がざわついた。あと一時間もすればこうして穏やかに過ごすのも終わってしまう。旅の終わりには、帰りたくないと少なからず思ってしまうものだけれど、今日はそれが一層濃い。溶け出したはずの心細さが、帰路をたどる物悲しさと混ざり合って、形を取り戻す。
東京を発ってからここまであっという間だったのだから、一時間なんて、きっと瞬きをする間に過ぎてしまう。
北村さんの上着は硬くて張りのある生地でできていて、裏地もあって暖かいのだけど、触れたら拒まれているようにも感じてしまう。
私は相当参っているらしく、何を考えても悲観的になってしまう。被害妄想みたいな思い過ごしばかりが起こる。
もう眠ってしまおうと、背もたれに深く体を預けた。しかし目をつむったらつむったで、今しがた手放したはずの暗い想像に呑まれそうになり、全く気が休まらない。
横目で北村さんのことを窺うと、彼は真剣な様子で小説を読みふけっていた。しばし見つめて視線を送ったのだけれど、今度は気づいてもらえなくて、ますます心細くなる。
みなさんから声をかけてもらったばかりなのに、お土産も山ほどもらったのに、ただ一人の注目がもらえないだけでどうしてこうも不安になるのだろう。北村さんとだって長らくふたりきりで過ごしたばかりなのに。
その時運悪く、頭からつま先までぞくぞくと悪寒が走った。
「きたむらさん」
喉から出てきた声はか細く、列車の走行音にかき消されてしまいそうだった。
北村さんは気づいて、こちらを振り向いてくれる。
「どうしたのー?」
柔らかな声はあたたかく、けれど胸を締め付けて、私はどうしても泣き出しそうになって、そういった感情がこぼれ落ちないよう、膝の上の上着をたぐり寄せ握りしめた。
北村さんは私の言葉を待っている。私は自分の言いたいこともわからなくて、黙りこくった挙げ句に、ただ首を横に振った。「どこか痛いの?」と尋ねられ、私はまた首を横に振る。北村さんは依然として心配そうにこちらを見つめてくれているけれど、いったいいつまで続くだろう。どうかこのままと祈りながら、彼の上着を握りしめるほかなかった。